第3節「廃神殿への道」
ゼファーの韋駄天は速い。俺が八割再現できる程度の速さだが、本家は桁が違う。
エリカは最初、悲鳴を上げた。
「きゃああああっ!」
ゼファーに脇を抱えられたまま、森の中を猛スピードで駆け抜ける。木々が線になって後ろに流れていく。風の轟音で自分の声も聞こえない。頬が千切れそうだ。
しばらくして、エリカは慣れた。——というより、諦めた。叫んでも意味がない。口を閉じて、目だけ開けた。風で涙が横に飛ぶ。
『\...\...髪がめちゃくちゃになってる。絶対に』
やがてエリカが声を張り上げた。
「ゼファーさん、止まって!」
急停止。砂利が弾け飛ぶ。エリカが地面に降ろされ、よろめきながら立つ。
「どうした」
「準備があるの」
エリカはポシェットを開いた。中から約束の手紙を一枚取り出す。封筒の裏に薄く糊を塗り——ポシェットの内側に、丁寧に貼り付けた。蓋を閉じれば外からは見えない。開けても、内側を覗き込まなければ気づかない位置だ。
ゼファーが眉をひそめる。
「それは?」
「お守りみたいなもの。\...\...それと、作戦の要よ」
エリカはゼファーに作戦を説明した。自分が一人でゼルと対峙する。約束の手紙を使って、杖を取り返す。ゼファーは外で待機。合図があったら突入して救出。シンプルな作戦だ。シンプルだが——命懸けだ。
「危険すぎる。私も中に入る」
ゼファーが即座に反対した。しかしエリカは首を横に振った。
「ダメです。ゼルは私を『一人で来い』と言った。二人で行ったら交渉が成立しません」
「だが——」
「それに——」
エリカは言葉を選んだ。
「私にしかできないことがあるんです。\...\...ゼルの考えていることが、私には読めます」
ゼファーの目が細くなった。エリカの読心能力。精霊界に来てから芽生えた力。ゼファーもそれは知っている。
沈黙が流れた。風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。
「\...\...必ず生きて戻れ」
ゼファーの声は低かった。
「カイトに顔向けできん」
養父の顔だった。怒りでも諦めでもない。純粋な心配。エリカは頷いた。胸の奥がきゅっと締まる。
「はい。必ず」
そしてエリカは、もう一つ頼み事を切り出した。
「ゼファーさん、もう一つお願いが。\...\...歯に被せる金属を用意してもらえませんか」
ゼファーが固まった。
「\...\...何をするつもりだ」
エリカは真っ直ぐゼファーを見つめた。
「指をかみちぎるの」
風が止んだ。森が静まり返った。
ゼファーの顔が強張る。しかしエリカの目は揺れていなかった。覚悟を決めた目。十五歳の少女がする目じゃない。
ゼファーは何か言いかけて、口を閉じた。それから深く息を吐いた。拳を一度握り、開いた。
「\...\...近くに村がある。鍛冶師がいるはずだ」
二人は近くの村に立ち寄った。ゼファーが鍛冶師に頼み、薄い鋼の歯型を作ってもらう。炉の熱が頬を焼く。鋼が赤く光り、叩かれ、冷やされ、小さな歯型になっていく。
エリカはそれを受け取り、奥歯に被せた。
口の中に金属の冷たさが広がる。舌で触れると、硬くて鋭い。
『\...\...これで、骨まで断てる』
胃の底がひっくり返りそうになった。えずきそうになるのを堪えた。深呼吸。一回。二回。三回。唇を噛む。血の味がした。自分の血だ。これからは——他人の血の味を知ることになる。
『大丈夫。やれる。やるしかない』
エリカはポシェットの蓋を閉じた。クマのぬいぐるみが小さく揺れる。
「準備は整いました」
声は震えていなかった。体は震えていたかもしれない。でも声だけは——絶対に震えさせない。それがエリカの、最後の意地だった。
ゼファーがエリカを脇に抱えた。
「行くぞ」
「はい」
韋駄天が再び走り出す。前方の森が暗くなっていく。木々の葉が黒ずみ、光が届かなくなる。
闇の森。
空気が変わった。冷たくて、湿っていて、どこか腐った匂いがする。
その奥に、ゼルが待っている。




