第2節「災難体質」
自転車のおばちゃんは謝ってくれた。
「ごめんなさいね! ブレーキが急に効かなくなって!」
そんなことあるか。いや、ある。俺の周りではある。
膝を擦りむいた。制服のズボンに穴が開いた。カバンの中の弁当箱が潰れた気がする。
『母さん、ごめん。今日の弁当、多分もう原型ない』
立ち上がる。痛い。でも歩ける。これくらいは日常だ。
気を取り直して歩き出す。
次の角を曲がったところに自動販売機がある。毎朝ここを通る。毎朝、何かが起きる。
今日は——。
ガコン。
缶コーヒーが取り出し口から勝手に落ちてきた。ラッキー、じゃない。落ちてきた缶が跳ねて、俺のスネに直撃した。
「っ......!」
痛い。角が当たった。地味に痛い。
『誰も買ってないのに缶が落ちてくる自販機って、故障だろ。メーカーに連絡しろよ』
缶を拾う。ブラックコーヒー。苦いのは好きじゃない。でももったいないからカバンに入れた。
さらに五十メートル。電柱の前を通る。
バキッ。
上から何か降ってきた。看板だ。不動産屋の広告看板。ネジが外れたらしい。俺の頭を五センチかすめて、アスファルトに激突した。
プラスチックの破片が散った。
『......五センチ。今日は運がいいな』
当たらなかったのが「運がいい」。この感覚が普通になってることが、たぶん一番やばい。
学校が見えてきた。正門をくぐる。ここまで来れば安全——なわけない。
下駄箱を開けた。
ブーン。
蜂だ。蜂がいた。上履きの中に巣を作りかけてた。小さい巣だけど、住人は怒っている。
「うおっ!」
反射的に下駄箱を閉めた。指を挟んだ。
「いっっ......!」
蜂に刺されるか、指を挟むか。究極の二択を一瞬で両方食らった。
『なんで上履きの中に巣を作る? もっといい場所あるだろ。木とか。軒下とか』
隣の下駄箱を使ってる男子が通りかかった。
「橘、どうした?」
「蜂」
「マジで?」
「マジ」
彼は俺の下駄箱を覗き込み、蜂を確認し、静かに閉めた。
「先生呼ぶわ」
「頼む」
上履きは諦めた。スリッパを借りて教室に向かう。
廊下を歩く。窓から朝日が差し込んで、いい天気だ。こんな日に災難が連発するのが俺の人生。晴れの日も雨の日も平等に不幸がやってくる。
『雨の日はむしろマシだ。みんなも濡れてるから俺だけ目立たない』
教室に入る。自分の席に座った——瞬間。
バキッ。
机の脚が折れた。前脚の右側。斜めに傾いて、上に置いてあった教科書が滑り落ちた。筆箱が転がった。消しゴムがどこかに飛んでいった。
「............」
教室中が俺を見てる。
数秒の沈黙。
そして——爆笑。
「橘ぃ! 朝から飛ばしてんなぁ!」
後ろの席の山本が腹を抱えてる。
「すげえ。座っただけで机壊すって新しいな」
窓際の佐藤もニヤニヤしてる。
「橘の災難センサー、今日も絶好調じゃん」
女子のグループが遠巻きに笑ってる。楽しそうだ。俺の不幸で盛り上がるクラスメイトたち。
怒ってない。本当に。こうやって笑いにしてくれるから、俺はまだ学校が好きでいられる。
「毎日がサバイバルだよ」
俺は笑って立ち上がった。隣の空き席から椅子を借りる。そういうのは手慣れたもんだ。
一時間目。数学。何事もなかった。奇跡。
二時間目。英語。窓から鳥が入ってきて俺の頭に止まった。先生が授業を中断して鳥を追い出すのに五分かかった。
三時間目。体育。跳び箱の踏切板が割れた。俺が踏んだ瞬間に。体育教師が「お前、体重いくつだ」と真顔で聞いてきた。六十五キロだ。踏切板が割れる重さじゃない。
四時間目。化学。実験中にビーカーが自然に割れた。中身が俺の白衣にかかった。ただの水だったのが唯一の救い。
昼休み。
購買に走った。人気のカレーパンは開店三分で売り切れる。今日こそ買う。
ダッシュ。廊下を走る。先生に見つからないルートはもう完璧に把握してる。三階の渡り廊下を抜けて、階段を駆け下りて——着いた。
まだ並んでる。間に合った。
列に並ぶ。前に五人。カレーパンは残ってる。いける。
四人。三人。二人。一人。
俺の番だ。
「カレーパン一つ」
おばちゃんが手に取った。レジに通した。ピッ。
画面を見て、おばちゃんが眉をひそめた。
「あら。ごめんね、これ賞味期限切れだわ」
『............』
「他のパンならあるわよ?」
「......じゃあ、焼きそばパンで」
焼きそばパンを受け取って、教室に戻る。窓際の席で食べる。
旨い。焼きそばパンは旨い。カレーパンじゃなくても旨い。
『別にカレーパンなんて最初から欲しくなかったし。焼きそば最高だし』
負け惜しみだ。自覚はある。
放課後。
教室で帰り支度をしていた。カバンにノートを詰めて、潰れた弁当箱を確認して——うん、卵焼きが天井に張り付いてた。弁当箱の天井に。
『母さん、ごめん。卵焼き、美味しかったと思う。形は見えないけど』
立ち上がって教室を出ようとしたとき。
窓の外から何かが飛んできた。
ガシャン。
ガラスが割れた——わけじゃない。窓は開いていた。開いていた窓から、サッカーボールが飛び込んできて、俺の顔面に直撃した。
ドスッ。
鈍い音。鼻の真ん中。正確すぎるコントロール。プロのストライカーか。
視界が白くなった。
「......ッ」
鼻を押さえる。血は出てない。でも涙が出た。反射的に。
窓の下からグラウンドの声が聞こえた。
「すみませーん! ボール入りましたー!」
サッカー部の一年生が手を振ってる。悪気はない。ないんだ。わかってる。
ボールを拾って、窓から投げ返した。
「ありがとうございまーす!」
元気な声。青春してるな。
鼻をさすりながら、教室を出た。
廊下で山本とすれ違った。
「橘、今日も災難フルコースだな」
「フルコースどころかデザートまで付いてきた」
顔面ボールがデザート。我ながらうまいこと言った。
「お前、ほんとすげえよ。毎日よく笑ってられるな」
「笑ってないとやってられないだろ」
軽く言った。山本も軽く笑った。
こういうやりとりが好きだ。深刻にならない。重くならない。笑って流す。それが俺のスタイルだ。
校門を出た。
夕方の風が吹いた。桜の花びらが舞ってる。朝と同じ景色。でも光の色が違う。オレンジ色の夕日に照らされて、花びらが金色に光ってた。
『きれいだな』
ふと、思った。
なんで俺だけこんな目に遭うんだろう。
自販機の缶。電柱の看板。蜂の巣。机の脚。賞味期限切れ。顔面ボール。
一日でこれだけ。毎日こんな感じ。生まれてからずっと。
偶然にしちゃ多すぎる。
でも偶然じゃなかったら、なんだ。呪い? 祟り? 前世の報い?
考えてもわからない。考えてもどうにもならない。
だから——考えるのはやめる。
いつもそうだ。疑問が浮かんで、すぐに蓋をする。深く考えると怖いから。答えが出たら、もっと怖いかもしれないから。
『まあ、明日も頑張ろ』
カバンを背負い直す。花びらが一枚、肩に落ちた。
今度は目に入らなかった。
......まあ、代わりに靴の中に入ったけど。
歩きにくい。地味に。




