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第7節「帰還と調薬」


 サルーラ村に着いたのは翌朝だった。


 韋駄天もどきで一晩走り続けた。精度は上がっている。昨日より速い。でも気持ちがぐったりしている。心の試練のダメージは体力では回復しないらしい。


 村の入口に、見覚えのある影が立っていた。


 銀色の髪。風を纏った男。


 「ゼファー!」


 走り寄る。ゼファーは片手を上げた。その手に——赤みがかった木の実が握られていた。


 幻影木の実。


 「東の山脈は手強かった。岩場の頂上にしか生えていない。しかも実を採ろうとすると枝が動く」


 「\...\...枝が動く?」


 「幻影木というだけあって、近づくと幻を見せてくる。実がない枝に手を伸ばさせようとする」


 それを突破してきたのか、この人は。


 「どうやって見分けたんだ」


 「風だ。幻影には重さがない。風が通り抜ける」


 さらりと言うが、とんでもない芸当だ。風の末裔ならではの解法。


 そう言いながら、ゼファーは俺を上から下まで見た。


 「\...\...無事か」


 「ああ。なんとか」


 「顔色が悪い」


 そりゃそうだ。幻影で仲間が全滅する光景を見せられたんだから。


 「いろいろあった。後で話す」


 ゼファーは頷いた。それ以上は聞かなかった。代わりに、肩を叩いてくれた。


 「よくやった」


 短い言葉。でも——それだけで十分だった。


 材料は揃った。あとは調薬だ。


 ムスクの家に向かう。村人たちの視線が変わっていた。警戒ではない。期待。不安。祈り。その全部が混ざった目で、俺たちを見ている。


 ムスクは家の前に立っていた。目の下に隈。眠れなかったのだろう。


 「材料を手に入れた。それと——」


 エリカの調薬書を差し出す。二十三ページの、分厚い書面。


 「これが調薬方法だ。俺たちの仲間が、王都の図書館で見つけてくれた」


 ムスクは書面を受け取り、村の薬師を呼んだ。


 薬師は初老のエルフだった。細い指。鋭い目。書面をめくる手が、途中で止まった。


 「これは\...\...どこでこの知識を?」


 目が見開かれている。


 「古い医学書にあった治療法です。失われたと思われていた——」


 「失われたのではない。誰も辿り着けなかったのだ」


 薬師の声が震えていた。驚きと、畏敬。書面に目を走らせる速度が上がる。ページをめくるたびに、表情が変わっていく。


 「\...\...素材の配合比、煎じる温度、投与のタイミング。全てが正確だ。いや、正確どころではない。注釈まで——」


 エリカの仕事だ。あいつは手を抜かない。二十三ページは伊達じゃない。


 『さすがだな、エリカ』


 薬師は書面を胸に抱えた。


 「作れる。これなら作れる」


 その一言で、空気が変わった。村人たちの間にざわめきが走る。ムスクが拳を握った。


 薬師の作業場。薬草の匂いが充満している。小さな鍋。精密な秤。乾燥した草束が天井からぶら下がっている。窓から差し込む光の中で、薬師の指が迷いなく動く。


 幻影木の実を砕く。乾いた音。中から琥珀色の液が滲み出る。甘い匂い。果物のような、でも果物とは違う——もっと深い、森そのものの匂い。


 最果ての水を一滴ずつ加える。慎重に。書面には「三滴ずつ、十秒間隔で」とある。薬師がゆっくり数を数える。一、二、三——。鍋の中で二つの素材が混ざり合う。色が変わっていく。琥珀から翡翠へ。翡翠から透明な金色へ。


 書面の指示通り。一滴の誤差もなく。


 薬師の額に汗が浮いている。手は震えていない。プロの手だ。


 やがて——薬が完成した。


 金色の液体。光を受けてきらりと輝く。小瓶に移された薬を、薬師がそっと掲げた。


 「これが全てだ。失敗は許されない」


 パーメルクのもとへ向かう。発症から五日目。まだ間に合うはずだ。間に合わなきゃ困る。


 ムスクの家。薄暗い室内。パーメルクは変わらず横たわっている。赤い痣は顔全体に広がっていた。呼吸が浅い。弱っている。


 薬師がパーメルクの口に薬を含ませた。金色の液体が唇を伝う。


 ——何も起きない。


 一分。二分。三分。


 誰も口を開かない。ムスクが妻の手を握りしめている。村人たちが固唾を呑む。薬師が脈を取り続けている。俺は拳を握って立っていることしかできない。


 ヴォルミラの試練を乗り越えた。ゼファーは東の山脈を攻略した。エリカは二十三ページの調薬書を書いた。薬師は完璧に調合した。全員がやるべきことをやった。あとは——薬が効くかどうか。それだけは誰にも操れない。


 『間に合ってくれ\...\...』


 時間が溶けるように過ぎた。


 一時間。二時間。外が暗くなり始めた頃——。


 ムスクが声を上げた。


 「痣が\...\...」


 俺も見た。パーメルクの頬。赤い痣が——少しだけ薄くなっている。気のせいじゃない。額の端から色が引き始めていた。


 薬師が頷いた。「効いている」


 ムスクは妻の手を握ったまま、涙を流した。声は出さない。ただ、ぼろぼろと涙だけが落ちていく。


 「頼む\...\...目を覚ましてくれ\...\...」


 掠れた声。あの頑固な村長の声とは思えない。ただの夫の、祈り。


 その夜は誰も眠れなかった。カイトもゼファーも、村人たちも。パーメルクの枕元で、夜明けを待った。


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