第5節「湖の守護者」
湖畔に立って、途方に暮れていた。
どうすればいい。叫べばいいのか。水に手を入れればいいのか。それとも待てばいいのか。
古代精霊の呼び出し方なんて誰にも聞いていない。エリカならマニュアルを作ってくれたかもしれない。——二十三ページくらいの。
『とりあえず\...\...声、かけてみるか』
湖に向かって一歩踏み出す。水際の砂利がじゃりっと鳴る。澄んだ水が足元を舐める。冷たい。指先がじんとする。
「すみません。ヴォルミラ\...\...さん? いらっしゃいますか」
声が湖面を滑っていく。波紋が広がる。それだけだ。
返事はない。静寂。
「あの、サルーラ村から来ました。最果ての水をいただきたくて——」
言い終わる前だった。
足元の水が、震えた。
小さな波紋。でも俺が起こしたものじゃない。水面全体が——揺れ始めている。
湖の中央。何かが動いた。
水が盛り上がる。泡が立つ。波が押し寄せてくる。足首が浸かる。膝まで来る。冷たい。でも動けない。
水中から——影が、浮上してきた。
巨大だった。
最初に見えたのは頭だ。馬よりも大きい。いや、家よりも大きい。青と銀の鱗が水を弾き、光を反射する。目が二つ。金色の、縦に裂けた瞳。その目が——俺を見た。
首が伸びる。水がごうごうと流れ落ちる。胴が現れる。まだ出てくる。まだ。まだ終わらない。波が岸を叩く。水飛沫が顔にかかった。
体長は——数十メートル。いや、もっとかもしれない。水竜。巨大な、水の竜。
鱗の一枚一枚が俺の体より大きい。口元から霧のような吐息が漏れている。冷気が肌を刺す。
足がすくんだ。膝が笑っている。
『でかい\...\...! これが古代精霊\...\...!』
フローから聞いた話とスケールが違いすぎる。目の前の存在は——生き物の枠を超えている。山だ。意志を持った、生きている山。
水竜の体から立ち上る気配が、空気を変えていた。肌がぴりぴりする。畏怖。体が本能で理解している。こいつには逆らえない、と。
ヴォルミラの口が開いた。声が——響いた。空気を通してじゃない。頭の中に、直接。重く、深く、湖の底から轟くような声。
「人間よ。なぜここに来た」
威圧。言葉の意味以上の圧力が体にのしかかる。呼吸が浅くなる。逃げ出したい。足が言うことを聞かない。
でも——逃げたら、パーメルクが死ぬ。
震える足を踏ん張った。歯を食いしばる。顔を上げた。金色の目と、目が合った。
「サルーラ村の人が赤あざ病で倒れました。治療には最果ての水が必要なんです」
声が震えていた。情けない。でも嘘は言っていない。
「\...\...お願いします。水を、分けてください」
頭を下げた。膝が水に浸かっている。冷たさが骨まで届く。
ヴォルミラは黙っていた。
金色の瞳が俺を見つめている。瞬きひとつしない。値踏みされている——いや、違う。もっと深い何かで、見透かされている。心の中を、まるごと読まれている気がした。
水竜の吐息が霧になって漂う。白い幕の向こうに、金色の目だけが光っている。
長い沈黙。湖面の波が静まっていく。世界から音が消えた。
やがて、ヴォルミラが口を開いた。
「最果ての水を求める者には、試練を与える」
試練。その言葉が腹の底に落ちた。
「それが古来からの掟だ」
掟。つまり——交渉の余地はない。問い返そうと口を開いた瞬間、ヴォルミラの目が光った。金色が、白く燃えるように輝く。
「心の試練——自分自身の恐怖と向き合え」
瞬間。
世界が暗転した。




