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第4節「西の湖への旅」


 一人だった。


 当たり前だ。ゼファーは東の山脈へ向かった。エリカは王都にいる。フローも。仲間と合流してからずっと誰かが隣にいたのに、今は自分の足音しか聞こえない。


 森が深い。木々は行くほどに太くなり、光が減っていく。道なんてない。方角だけを頼りに、西へ西へと進む。


 『こういう時にゼファーがいたらな\...\...』


 ——いや。


 思い出したのは、ゼファーの韋駄天。背中にしがみついていた時に観察した、あの足運び。地面を蹴る瞬間の風の渦。踏み込んで、沈んで、弾ける。


 足先に意識を集中した。


 トン——。


 軽く蹴る。次の瞬間、体がふわりと浮いた。


 『おっ——!?』


 着地。ずるっと滑って、木の根に足を取られる。バランスを崩して前のめりに倒れた。顔面から苔の地面に突っ込む。


 \...\...痛くはない。無限の体力のおかげで体は頑丈だ。でも泥だらけだ。


 もう一度。今度は踏み込みを浅くする。ゼファーの動きを頭の中で再生する。あのリズム。あの体重移動。足首の角度。


 トン。


 跳んだ。今度は三歩分くらい一気に進めた。着地もまあまあ。木にぶつからなかっただけマシだ。


 そうやって走っていると——森の空気が変わった。


 木々の隙間に、小さな光が浮かんでいた。


 蛍? いや、違う。光の玉だ。手のひらサイズの、淡い金色の球体。ふわふわと漂いながら、こちらに近づいてくる。


 一つ。二つ。三つ——気がつくと、十以上の光の玉に囲まれていた。


 「人間だ」


 声が聞こえた。光の玉から。高くて細い、鈴のような声。


 「珍しい」「こんな奥地に人間が来るなんて」「でも悪いやつじゃなさそう」


 下位精霊たち。精霊界の住人だ。フローから聞いたことがある。森や川に棲む、小さな精霊。姿を持たず、光の玉として現れることが多いらしい。


 「あー\...\...こんにちは」


 何と言っていいかわからない。とりあえず挨拶。


 精霊たちがくすくす笑った。


 「礼儀正しい」「面白い」「ねえ、どこに行くの?」


 「道に迷った。西の湖に行きたいんだ」


 素直に言った。格好つけても仕方ない。


 精霊たちがちかちかと点滅する。相談しているのだろう。


 「案内してやる」「うん、案内してあげる」「面白いやつだ。ついてこい」


 光の玉たちが一斉に動き出す。木々の間を縫うように、西へ向かって飛んでいく。


 「ありがとう。助かる」


 「いいよいいよ」「その代わり、人間界の話を聞かせて」


 歩きながら——韋駄天もどきで走りながら——精霊たちと話した。人間界のこと。コンビニのこと。ラーメンのこと。精霊たちは何にでも興味を持った。


 「ラーメン? 温かいスープに麺が入ってるの?」「食べてみたい!」「精霊って食べられるの?」「食べられないけど、食べてみたい!」


 意味がわからないけど可愛い。


 不思議な時間だった。一人で心細かったのに、いつの間にか笑っていた。光の玉たちに囲まれて森を駆けるのは、夜のイルミネーションの中を走るみたいだった。


 やがて——木々が途切れた。


 視界が、開けた。


 言葉が出なかった。


 目の前に広がる、巨大な湖。水面は鏡だった。空と雲を完璧に映している。上と下の境界がわからない。空に浮いているのか、水の中にいるのか——一瞬、自分がどこに立っているのか見失った。


 深い、深い青。底が見えない。光が吸い込まれていく。


 水の匂い。清潔で、冷たい匂い。だがそこに微かな甘さが混じっている。花でも果実でもない。この湖そのものの匂いだ。


 周囲には音がなかった。風も、鳥も、虫も。完全な静寂。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。


 「\...\...すげえ」


 それしか出てこなかった。


 精霊たちが立ち止まった。光の玉たちが、湖の手前で揺れている。


 「ここから先は一人で行け」


 声のトーンが変わっていた。さっきまでのはしゃいだ雰囲気が消えている。


 「幸運を」


 短い言葉。そして——光が消えた。一つ、また一つ。あっという間に、精霊たちは森の中に溶けていった。


 静寂が戻った。


 湖畔に、俺一人。さっきまでの賑やかさが嘘みたいだ。


 水面が鏡のように空を映している。風がない。波ひとつない。ただただ静か。


 ここが西の湖。古代精霊ヴォルミラの棲む場所。


 深呼吸をした。冷たい空気が肺に染みる。


 『さて\...\...どうする』


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