第2節「赤あざ病」
走った。
考えるより先に足が動いていた。悲鳴の方角へ。ゼファーも無言で後に続く。
村に踏み込むと、人だかりができていた。ひとつの家の前にエルフたちが集まっている。顔が青い。ざわめきの中に、女の泣き声が混じっている。
「何があった」
ゼファーが村人に声をかける。返事はない。よそ者に答える義理などないのだろう。
だが表情が物語っていた。恐怖。混乱。そして——絶望。
家の扉が開いていた。中が見えた。薄暗い室内。薬草の匂いが鼻をつく。
床に横たわる女性。意識がない。枕元に水差し。誰かが看病しようとした痕跡。でも為す術がないのだろう。濡れた布が額に載せられたまま、乾きかけていた。
そして——顔に広がる、赤い痣。
まるで血が滲んだような紋様。額から頬にかけて、不気味な赤が這っている。生きている紋様だ。見ていると、じわりと広がっていく気がした。
「赤あざ病だ\...\...」
村人のひとりが呟いた。その声は震えていた。
「アカドメア虫がこんな場所にいるなんて\...\...」
隣の女性が口を押さえた。子供を抱いたエルフが後ずさる。村中に恐怖が伝染していた。
赤あざ病。アカドメア虫に刺されて発症する病だという。
村人たちの話を繋ぎ合わせると、状況は最悪だった。
発症から七日か八日で命を落とす。十年に一度しか発症しない珍しい病。治療法は——村に伝わっていない。
致死性。治療法なし。残り七日。
『最悪のカードが三枚揃ったな\...\...』
年配のエルフが腕を組んで首を振った。
「わしの代では見たことがない。親の代に一人、そのまた親の代に一人\...\...」
百年以上の間に、たったの二例。どちらも助からなかった。
「それにアカドメア虫は、奥地の瘴気林にしか棲まんはずだ。なぜこんな場所に\...\...」
ゼファーの目が細くなった。俺に目配せをする。
『終焉\...\...か?』
精霊界の奥地にしか生息しない毒虫が、辺境の村にまで出てきている。放牧民の国でも、古代魔法界でも、世界に異変が起きていた。ここも同じだ。生態系が崩れ始めている。
背筋に冷たいものが走った。
倒れた女性の傍らに、ムスクがいた。
あの頑固な村長の面影はなかった。膝をついて、妻の手を握りしめている。その手が震えている。目は赤く、声は掠れていた。
「パーメルク\...\...パーメルク\...\...」
名前を呼び続けるだけの、ただの夫。昨日、俺たちを門前払いにした男と同じ人間とは思えなかった。
パーメルクの顔は蒼白で、赤い痣だけがぎらぎらと目立つ。呼吸は浅い。意識がないのに、時折苦しそうに眉が歪む。
見ていられなかった。
俺は何もできない部外者だ。よそ者。昨日追い返された、ただの旅人。
でも——だからって見捨てる理由にはならない。
『目の前で人が死にかけてるのに、黙って見てるなんてできるかよ』
気づいたら、声が出ていた。
「俺たちに何かできることはないか」
ムスクが顔を上げる。目が合った。充血した目。涙の跡。
「よそ者に\...\...何ができる」
弱々しい声。拒絶の言葉のはずなのに、突き放す力がない。昨日の「帰れ」とは別物だ。
その目には——藁にもすがりたいという色があった。怒りでも軽蔑でもない。ただ、助けてほしいという祈り。
村人たちが黙って俺を見ている。昨日まで無視していた目が、今は違う何かを宿している。
ゼファーが俺の隣に立った。低い声で囁く。
「王都の図書館なら記録があるかもしれん。エリカ殿の力を借りるべきだ」
そうだ。エリカがいる。あのピンクのめがねなら古い医学書だって一瞬で読み解ける。
俺はゼファーと目を合わせた。
言葉はいらなかった。ゼファーが小さく頷く。答えは同じだ。
『治療法を探すしかない』
王都に戻る。エリカに相談する。あいつなら何か見つけてくれるかもしれない。いや、見つけてくれる。あのめがねと、あの頭脳がある。
七日。いや、移動の時間を考えるともっと短い。
ムスクの家を出た。朝の光が眩しい。空は昨日と同じ青だ。でも今はその青が遠い。
村人たちの不安げな視線が背中に刺さる。何も約束できない。治療法が見つかる保証なんてない。
それでも——。
振り返った。ムスクの家の窓が見える。
「必ず戻る」
誰に向かって言ったのかわからない。ムスクに、か。パーメルクに、か。それとも自分自身に。
「ゼファー。王都に戻ろう」
「ああ。韋駄天で飛ばせば明日の朝には着く」
ゼファーが風を纏う。背中を向けてくれた。しがみつく。昨日と同じ広い背中。でも今は景色を眺める余裕なんてなかった。
風が唸る。森が後ろへ飛んでいく。行きとは比べものにならない速さだった。ゼファーも本気だ。
パーメルクの命はあと七日ほど。
時間との戦いが、始まった。




