第1節「焚火と三つの月」
第1節「焚火と三つの月」
焚火が爆ぜた。
小さな火花が闇に散る。木の実が弾ける音。それだけが、この夜の全てだった。
村の外れ。大きな木の根元。俺とゼファーさんは地面に座っていた。
門前払いを食らってから、もう一時間は経っている。
『\...\...手ごわいなんてもんじゃねえ』
ムスクの顔を思い出す。あの鋭い目。紹介状を見ようともしなかった。名乗る暇すらなかった。「帰れ」の一言で、扉が閉まった。
膝を抱えた。地面が硬い。尻が痛い。こんな時にそんなことを気にしている自分が情けない。
ゼファーさんは黙って火を見ている。枝を折って、焚火にくべた。乾いた木がぱちぱちと鳴る。
「\...\...話も聞いてもらえないって、どうすりゃいいんだ」
声に出すと、余計にみじめだ。
「焦るな」
ゼファーさんの声は低く穏やかだった。
「人の心は急には動かん」
分かってる。分かってるけど。
『期限があるんだ\...\...』
約束の手紙。宝物庫から盗まれた杖を取り戻すための切り札。フローが待っている。エリカも。
あの村長に、どうやって——。
風が頬を撫でた。冷たい。精霊界の夜風は肌に染みる。
顔を上げた。
星空が広がっていた。
三つの月。白い大きな月が天頂にある。青みがかった小さな月は東の空。赤い月は西の低い位置。三つの光が森を照らしている。木々の影が何重にも重なって、地面に不思議な模様を描いていた。
——綺麗だ。
こんな時なのに。門前払いを食らって惨めな気分なのに。空を見上げたら、綺麗だと思ってしまう。
「ゼファーさん」
「何だ」
「あの村長、なんであそこまで外を嫌うんですかね」
ゼファーさんは火を見つめたまま答えた。
「辺境の村はどこでも同じだ。王都から遠い土地は、見捨てられていると感じている」
「見捨てられてる?」
「命令だけが降ってくる。税を払え。兵を出せ。だが村が困った時に助けは来ない」
焚火が揺れた。ゼファーさんの顔に影が落ちる。
「放牧民の国でも同じだった。辺境のクランは王都を信用していない」
——そうか。
ゼファーさんは知っているんだ。辺境の気持ちを。風の草原クランも、決して王都寄りではなかった。
「だから、紹介状を見せても無駄だったんですか」
「紹介状は王宮の権威だ。辺境にとっては押し付けの象徴でしかない」
なるほど。逆効果だったかもしれない。
「じゃあ\...\...どうすれば」
ゼファーさんは答えなかった。代わりに、村の方角に目を向けた。
木々の隙間から、かすかな灯りが見える。ランプの光だろうか。小さくて頼りない。でも確かに、人がそこで暮らしている。
「あの灯りを見ろ」
「はい」
「閉じた村だ。外を拒んでいる。だが——中には暮らしがある。家族がいる。守るものがある」
「\...\...」
「ムスクは敵じゃない。守っているだけだ」
守っている。
あの鋭い目は、確かに——敵意じゃなかった。壁だ。家族と村を守るための壁。
ゼファーさんが薪をくべた。火が大きくなる。暖かい。
「奥さん、病気なんですかね」
ふと思い出した。ムスクの家を訪ねた時。「妻は寝ている。静かにしろ」。あの言い方。不機嫌の裏に何かがあった。
「かもしれん」
ゼファーさんは短く言った。
沈黙が落ちた。虫の声だけが夜を埋めている。精霊界の虫は不思議な音を出す。鈴を転がすような高い音。リーンリーンと規則的に繰り返す。
干し肉を齧った。硬い。顎が疲れる。でも走った後の体には、この塩気がありがたい。
『明日だ。明日、もう一回行こう』
方法は分からない。でも、引き下がるわけにはいかない。
ゼファーさんが水袋を差し出した。受け取って、一口飲む。冷たい水が喉を通った。
「寝ろ。明日も長い」
「ゼファーさんは?」
「交代で見張る。先に寝ていい」
横になった。地面が硬い。背中に小石が当たる。荷物を枕にしたが、高さが足りない。首が痛い。
『ベッドが恋しい\...\...』
目を閉じた。まぶたの裏に、三つの月の残像が浮かぶ。白と青と赤。
眠れない。
体は疲れているはずだ。韋駄天で二日間走った。地面に転がれば泥のように眠れると思っていた。
でも、頭が回っている。ムスクの目。閉じた扉。「帰れ」の一言。
——どうすれば、あの扉を開けてもらえるんだろう。
力で押し通すのは違う。それじゃあ「王都の押し付け」と同じだ。紹介状も逆効果。頼み込んでも聞いてもらえない。
『\...\...誰かの心を動かすって、こんなに難しいのか』
放牧民の国では、違った。ゼファーさんは最初から俺たちを受け入れてくれた。タクファーもソクタンも。風の草原クランの人たちは温かかった。
でも、あれは——ゼファーさんという存在があったからだ。クランの長が受け入れたから、周りもついてきた。
ここにはゼファーさんの立場がない。よそ者。それだけだ。
虫の声が遠くなった。意識がぼやける。
——結局、少しだけ眠れた。
目を覚ましたのは、鳥の声だった。
高い。甲高い、聞いたことのない鳴き声。精霊界の鳥は見た目も声も独特だ。
体が痛い。全身が軋む。地面で寝ると、こうなる。背中を伸ばしたら、ばきばきと鳴った。
『年寄りみたいだ\...\...15歳なのに\...\...』
ゼファーさんはとっくに起きていた。焚火の跡を片付けている。手際がいい。灰を土で覆い、薪の燃え残りを脇に寄せる。
「よく眠れたか」
「\...\...正直に言っていいですか」
「言わなくていい。顔を見れば分かる」
ひどい顔なんだろうな。自覚はある。
水袋の水で顔を洗った。冷たい。目が覚める。朝靄が森に漂っている。空気が甘い。花の匂いだろうか。夜とは違う、柔らかい朝の匂いだった。
村の方角を見た。朝日が木々の隙間から差し込んでいる。屋根に朝露が光っている。煙突から薄い煙が上がっていた。朝餉の支度だろう。
閉じた村。でも——人が暮らしている。
「何か策はあるか」
聞いてみた。ゼファーさんは首を横に振る。
「相手次第だ。だが、きっかけはどこかにある」
きっかけ。そんなもの、どこに——。
言いかけた、その時だった。
村の方角から——悲鳴が聞こえた。




