第51話 夜の海に溶けて
【第一部】心の扉―始―
あの後──どれほどの時間が経ったのか、私には分からなかった。
誰かの叫ぶ声。
駆け寄る足音。
名前を呼ぶ声が幾重にも重なって──
気づけば栄善の姿は、私の腕の中から消えていた。
いつの間にか集まっていたお城の人たちの手によって、栄善は急ぎ特別室へと運ばれていった。
その背中を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。
血に濡れた夜。
先ほどまで確かに感じていた体温が、指先から失われていく。
「トワ……大丈夫だからね……」
誰かにそう言われ、私は半ば抱えられるようにして自室へと連れて行かれた。
部屋に通され、「少し休むように」と静かに告げられたけれど、心は、あの血に濡れた夜の底に置いてきてしまったかのようだった。
栄善……どうかお願い……無事でいて……
小梅姫がその後どうなったのかも分からない。
小梅姫が料理を教えてほしいと言って、池のほとりに私を誘ったのは……
私を刺すため──
そして刺されそうになった私を、栄善は──命懸けで守ってくれた。
栄善……栄善……
静かな室内で、私はただただ祈り続けていた。
どれほど祈り続けていたのか分からない。
襖の向こう側から、かすかに声がした。
「トワ……ごめん……栄善を……助けられなかった……」
誰かが──そう呟いた気がした。
*
途方に暮れて、真夜中の闇の中をひたすら歩き続ける。
吐く息は白く、夜の冷気が小袖の隙間から容赦なく染み込んでくる。
お城の門番の方たちは、どこにもいなかった。
そうだよね。
だって──一国のお殿様が亡くなったのだから……
しばらく歩いていると、見覚えのある建物が目に入ってきた。
ここは──栄善と初めて町に出て、一緒に行ったお団子屋さん。
あまりの美味しさに夢中になって頬張る私に『まるで小動物のようだ』そう言って、くすくすと笑う栄善。
私の口元についたきなこを払ってくれた手が、そのまま私の頬へと触れ、お互いの視線が絡みあったあの瞬間──
楽しかった思い出が、ふと蘇ってくる。
ここは漆のお箸を選んだ雑貨屋さん。
栄善に必要とされているのだと思えて、胸の奥があたたかく満たされていった。
「……っ、えいぜ……ん」
声にならない声が、静かな町に切なく消えていく。
今は、この世界の静けさに耐えられなくて、私の世界の街のネオンや騒がしい雑踏に紛れていたいと感じる。
私は、なんて無い物ねだりなのだろう……
その後も、私はひたすら歩き続けた。
ここは、栄善と塩職人さんたちの仕事を眺めていた海──
あのとき、岸はダイヤモンドのように輝いていたのに、今はまるで私の心の奥のように暗く沈んでいた。
私は、さらに奥へと進んでいく。
そして──
山と海を一望できるこの場所は、栄善と私がお互いの心の内を初めて明かし合った大切な場所。
『私が其方のすべてを受け止めよう』
そう言ってくれた栄善。
弱さをさらけ出し、力なく笑ったあの笑顔。
私は、そっと抱きしめた。
その腕の中で──
栄善は優しく抱きしめ返してくれた。
私の大好きな、あの優しい笑顔。
くすくすと肩を揺らして笑う栄善が、大好きだった。
柔らかく見つめてくれる、愛おしい瞳。
人想いで、少しだけ不器用で──
「……ふっ、うっ……栄善。会いたいよ……栄善」
栄善を失った今、私の中でどれほど大切な存在だったのか……痛いほど思い知らされる。
──其方を愛している
栄善が途切れ途切れに紡いでくれた愛の言葉。
「……栄善、栄善……ふっ、う……」
栄善に会いたくてたまらない。
心にぽっかりと穴があいてしまったようで、胸が切なく痛む。
私は、前へ前へと先まで進む。
栄善と一緒に見たときの海は、波が穏やかに煌めいていたのに、今は荒れた波の音だけが真っ暗な闇の中から聞こえるだけ。
私の人生は、なんだったのだろう。
私は、ゆっくりと夜空を見上げた。
あぁ……今夜は満月。
満月の光だけが、私を照らしている。
涙が、頬を静かに伝う。
目を閉じると、夜の闇に身体ごと溶けていくようで──
冷たい風が肌を撫で、波の香りが鼻をくすぐる。
指先まで凍えるような感覚が、夜の海の深みに沈んでいくようだった。
そして──私は、胸の痛みごと、深い夜の海へ身を委ねた。




