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第51話 夜の海に溶けて

【第一部】心の扉―始―

あの後──どれほどの時間が経ったのか、私には分からなかった。


誰かの叫ぶ声。

駆け寄る足音。

名前を呼ぶ声が幾重にも重なって──


気づけば栄善(えいぜん)の姿は、私の腕の中から消えていた。


いつの間にか集まっていたお城の人たちの手によって、栄善は急ぎ特別室へと運ばれていった。


その背中を、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。


血に濡れた夜。

先ほどまで確かに感じていた体温が、指先から失われていく。


「トワ……大丈夫だからね……」


誰かにそう言われ、私は半ば抱えられるようにして自室へと連れて行かれた。


部屋に通され、「少し休むように」と静かに告げられたけれど、心は、あの血に濡れた夜の底に置いてきてしまったかのようだった。


栄善……どうかお願い……無事でいて……


小梅姫(こうめひめ)がその後どうなったのかも分からない。


小梅姫が料理を教えてほしいと言って、池のほとりに私を誘ったのは……


私を刺すため──


そして刺されそうになった私を、栄善は──命懸けで守ってくれた。


栄善……栄善……


静かな室内で、私はただただ祈り続けていた。


どれほど祈り続けていたのか分からない。


(ふすま)の向こう側から、かすかに声がした。


「トワ……ごめん……栄善を……助けられなかった……」


誰かが──そう呟いた気がした。



途方に暮れて、真夜中の闇の中をひたすら歩き続ける。


吐く息は白く、夜の冷気が小袖の隙間から容赦なく染み込んでくる。


お城の門番の方たちは、どこにもいなかった。

 

そうだよね。


だって──一国のお殿様が亡くなったのだから……


しばらく歩いていると、見覚えのある建物が目に入ってきた。


ここは──栄善と初めて町に出て、一緒に行ったお団子屋さん。


あまりの美味しさに夢中になって頬張る私に『まるで小動物のようだ』そう言って、くすくすと笑う栄善。


私の口元についたきなこを払ってくれた手が、そのまま私の頬へと触れ、お互いの視線が絡みあったあの瞬間──


楽しかった思い出が、ふと蘇ってくる。


ここは(うるし)のお箸を選んだ雑貨屋さん。

栄善に必要とされているのだと思えて、胸の奥があたたかく満たされていった。


「……っ、えいぜ……ん」


声にならない声が、静かな町に切なく消えていく。


今は、この世界の静けさに耐えられなくて、私の世界の街のネオンや騒がしい雑踏に紛れていたいと感じる。


私は、なんて無い物ねだりなのだろう……


その後も、私はひたすら歩き続けた。


ここは、栄善と塩職人さんたちの仕事を眺めていた海──


あのとき、岸はダイヤモンドのように輝いていたのに、今はまるで私の心の奥のように暗く沈んでいた。


私は、さらに奥へと進んでいく。


そして──


山と海を一望できるこの場所は、栄善と私がお互いの心の内を初めて明かし合った大切な場所。


『私が其方のすべてを受け止めよう』


そう言ってくれた栄善。


弱さをさらけ出し、力なく笑ったあの笑顔。


私は、そっと抱きしめた。


その腕の中で──

栄善は優しく抱きしめ返してくれた。


私の大好きな、あの優しい笑顔。


くすくすと肩を揺らして笑う栄善が、大好きだった。


柔らかく見つめてくれる、愛おしい瞳。


人想いで、少しだけ不器用で──


「……ふっ、うっ……栄善。会いたいよ……栄善」


栄善を失った今、私の中でどれほど大切な存在だったのか……痛いほど思い知らされる。


──其方を愛している


栄善が途切れ途切れに紡いでくれた愛の言葉。


「……栄善、栄善……ふっ、う……」


栄善に会いたくてたまらない。


心にぽっかりと穴があいてしまったようで、胸が切なく痛む。


私は、前へ前へと先まで進む。


栄善と一緒に見たときの海は、波が穏やかに煌めいていたのに、今は荒れた波の音だけが真っ暗な闇の中から聞こえるだけ。


私の人生は、なんだったのだろう。


私は、ゆっくりと夜空を見上げた。


あぁ……今夜は満月。


満月の光だけが、私を照らしている。


涙が、頬を静かに伝う。


目を閉じると、夜の闇に身体ごと溶けていくようで──


冷たい風が肌を撫で、波の香りが鼻をくすぐる。

指先まで凍えるような感覚が、夜の海の深みに沈んでいくようだった。


そして──私は、胸の痛みごと、深い夜の海へ身を委ねた。

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