第40話 夜明け前の静寂
【第一部】心の扉―始―
あのあと、お菊さんが戻って来られて、対縁の儀の日取りや当日のことを説明してくれたけれど、私は終始、上の空だった。
言葉は確かに耳に届いていたはずなのに、意味はほとんど頭に残っていない。
今日一日、朝に聞いた琥景さんと煌景さんの言葉が胸の奥で何度も鳴り返っていて、自分が何をして過ごしたのか、今となってはあまり思い出せなかった。
だから、だったんだ……
初めて出会ったときからもうずっと、このことは決まっていたんだ……
頭の奥で、過去の言葉が次々と蘇る──
『ちょうど今、城のお手伝い係を増やさなくてはと考えていたところだったんだ』
『これから忙しくなるけど、一緒に頑張りましょうね、トワちゃん』
『近々、城に客人を迎える。本日は、昼のもてなしに供する甘味と、手土産を選びに来たのだ』
だからお手伝い係を増やす必要があったし、あのとき栄善が口にしていた「客人」も、朽葉ノ国の方々のことだったんだ……
哀伝たちが最近忙しそうだったのも、手土産を選びに出かけた意味も、納期や納品の話をしていたことも──
その一つひとつがすべて……
対縁の儀の日のために用意されていたことだった。
私はいったい何を期待して、何を自惚れていたのだろう……
栄善が私にくれた言葉の数々。
長く閉ざされていた心の扉を、そのぬくもりでそっと開いてくれた。
お互いの弱さを見せ合ったあの日──
不安や迷いを抱えながらも、補い合い、支え合って生きていけたらいいなと、そう願った。
『私が其方のすべてを受け止めよう── 』
あの瞬間、私の心は栄善のことが好きだと自覚してしまった。
蓋をしていた心の扉を開いてしまった。
一度開いてしまった扉は、もう閉まることを知らず、とめどなく想いがあふれてくる。
まだ閉ざされていたなら、止めることができたはずだった。
この想いを……自覚していなければ。
私の大好きなあの笑顔。
私を見つめるやさしい眼差し。
私を包み込む大きな手。
「……うっ、うっ……っ」
涙が、とめどなくあふれてくる……
分かってる……
分かってるのに……
栄善は、国の人たちのことも、お城の人たちのことも、心から大切に想っている人……
人想いで、人の苦しみや辛さが人一倍分かる人。
だから今まで栄善が私にくれた言葉や行動の数々が、嘘なんかじゃないってことくらい……
分かってるんだよ……
頭ではちゃんと分かっているのに。
それでも、どうしても追いついてこない自分のこの感情が、どうしようもなく嫌になる。
気がつけば、私はお城の庭の池のほとりに立っていた。
月夜の光だけが、静かに私を照らしている。
一人、池のほとりに佇む私は、込み上がる感情に耐えきれず、肩を震わせた。
指先がわずかに水面を撫でるように動く。
涙は頬を伝い、音もなくこぼれ落ちた。
「誰かいると思って来てみたら……トワ?こんなところで何してるの?」
「……哀……伝……」
「夜は冷えちゃうよ〜って……トワ、泣いてるの……?」
「いや……違うの……なんていうか、その……」
肩の震えに気づいたのか、哀伝は何も言わず、そっと私を抱きしめた。
細身に見えていた哀伝の体は、それでもやはり男の人らしい大きさで、包まれるとずっしりとした安定感があった。
さらさらした短い髪が肩に触れ、温かさを伝えてくれる。
それでも、胸の奥ではどうしても、栄善を求めてしまう自分がいた。
栄善じゃなきゃ……だめなの……
「何をしておる!!」
驚きで息が止まり、思わず振り向いたその瞬間──大きな声と同時に、私は物凄い力で引っ張られた。
動揺、そして胸の奥で高鳴る鼓動。
この声の主に、心も体も引き寄せられていく。
胸の奥がざわめき、心の中心が大きく揺さぶられる。
私の心はもう、抗えないほどに動かされていた。




