第36話 家紋と簪
【第一部】心の扉―始―
岸辺の空気に秋の余韻を感じながら、名残惜しさを胸に、私たちはそろそろ穏花処を後にすることにした。
私が帰る支度をしていると、栄善がそっと何かを差し出してきた。
「トワ……遅くなってしまったが、これは羽田家の家紋だ。城内では、小袖の襟に付けておくといい」
「……羽田家の家紋」
お城の方たちが同じものを付けているのが気になっていたけれど……あれが家紋だったんだ。
こうして私も正式にお城のみんなの一員になれた気がして……なんだか嬉しいな。
自然と目尻が下がってしまう。
「ありがとう、栄善。へへへ……なんだか嬉しいな。素敵な家紋だね」
私の想いが伝わったのか、栄善の目元もやさしく和らいでいた。
「……あぁ、そうだな。羽田にちなんで、羽と田の模様が描かれているんだ。羽は『自由に羽ばたく』、田は『安定』という意味が込められているそうだ」
「深い意味が込められているんだね……」
自由に羽ばたく……そして安定……
この家紋には、栄善の願いにも通じる意味が込められているように思えた。
この家紋を胸に羽田家のお手伝い係として、これからもみんなのためにできることを一つひとつ心を込めて大切にしていこうと思った。
*
栄善と歩く帰り道はあっという間で、心にはほんのり余韻が残る。
ふと気づけば、お城の姿が小さく見えてきていた。
「栄善、今日は色々なところに連れて行ってくれて本当にありがとう。綺麗な自然や景色が見られる場所……心に刻まれるほど美しくて、私にとって忘れられない思い出の場所になったよ」
「……私にとっても、どの場所も心に残るものとなった。この日を私は生涯忘れぬだろう」
「……栄善」
栄善も私と同じ気持ちだったんだと思うと、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
「そろそろ城に着いてしまうな……トワ、これは私から」
栄善は柔らかい布に包まれた小さな品を、優しい手つきで手渡してくれた。
中を開けると、それは小ぶりの髪飾りだった。
ピンクと紫色の小さな花びらの模様が施されていて、見ているだけで心がほわっと和む。
「わぁ……可愛いお花の髪飾り……大切にするね。栄善、こんなに素敵な髪飾りをありがとう」
まさかのサプライズに嬉しくて、しばらくその髪飾りを見つめていた。
「トワのその表情を見ることができて、嬉しく思う。この髪飾りは、簪と呼ぶ。これくらいの大きさなら、トワも仕事の最中に身につけられるであろう」
「これが簪なんだ……仕事中も身につけられるなんて、すごく嬉しいな」
栄善が私のことを考えて選んでくれたのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。
だって、栄善はこういうものを選ぶのは苦手だって言ってたのに……
そんな栄善が一生懸命に選んでくれている姿を思い浮かべるだけで、心がぽかぽかとあたたかくなる。
あんなに忙しいのに、いつの間に買ってくれてたんだろう?
「トワ、私が簪を付けてあげよう」
そっと、栄善の手が私の髪に触れる。
優しく簪を差し込むたび、まるで心にそよぐ風がふわりと通り抜けるようだった。
「ありがとう、栄善。似合ってるかな?ふふっ……毎日付けちゃお!」
「あぁ、その可憐な花が小柄なトワによく似合っている。それに……毎日身につけてもらえるなら、これほど嬉しいことはない」
こんなに心満たされた幸せな日々が訪れるなんて……あのときの私は思いもしなかった。
今日は私と栄善にとって、お互いの弱さや心の奥を見せ合ったかけがえのない日……
栄善とこれからもずっと、不安や迷いを補い合いながら……支え合って生きていけたらいいな──そう心の奥でそっと願った一日だった。




