第33話 山茶花の咲く穏花処
【第一部】心の扉―始―
山の風に、二人の温もりが溶けていく。
栄善と心の内を明かし合ったこの場所は、私にとって、とても大切な場所になった。
ふと、栄善がここに来る前に、言っていたことを思い出す。
そういえば、先まで行くと崖になっていて、すぐ下は海なんだよね……ここ。
私は少し先まで歩き、下を覗き込もうとした──そのとき、栄善にそっと引き戻された。
「トワ、危ないぞ」
そう言いながらも栄善の手は、やさしく私を包んでいた。
「ごめん、ちょっと気になっちゃって」
私はそっと栄善の手を握り返し、二人で視線を落とす。
穏やかに煌めく波が、静かに揺れていた。
「うわぁ……本当にすぐ下は崖になっているんだね。だけど、穏やかな波が綺麗……」
「あぁ。今思えば、昔、こんな場所に来ていた私たちに、茶々蔵もさぞかし気が気でなかったであろうな」
「ふふふ、本当だよ。とても美しい景色だから、来たい気持ちも分からなくもないけどね」
波の煌めきを目に焼き付けて、しばらく静かに風を感じていた。
「そろそろ甘味の時間だな。トワ、よければ今から諭作が言っていた穏花処へ団子を食べに行かないか?」
「あの山茶花団子の?うん、行きたい!」
「穏花処は町から少し離れた場所にあってだな。山茶花団子は、皆が買いやすいよう町で販売しているため、穏花処では扱っていないんだ。だが、その場所には色とりどりの山茶花が咲いている」
色とりどりの山茶花──その言葉に、栄善の声が重なる。
『限定の山茶花団子用に特別に作られた紙箱で、箱には色とりどりの山茶花の柄が描かれており、それがまたとても美しいのだ』
思い出すだけで、心がふっと躍るようだった。
その場所に咲いている山茶花を眺めながら食べるお団子は、きっと格別なひとときになるのだろうな。
「トワ、穏花処へ行くには、この道を通るんだ」
栄善はそう言うと、枯葉の混じる山草を、そっと掻き分けた。
すると、その奥には小さな道が続いていた。
まるで、私たちをおとぎの国へ導くかのように──
「わぁ……素敵!本当にここは秘密基地だね!」
「幼い頃、背丈がまだ低かったゆえ、たまたまあいつらと見つけたんだ。この道を辿れば、穏花処に辿り着く。岸辺の周りに咲く山茶花は、この時期ならではの美しさだ」
栄善は微笑み、手を握ったまま小道へ踏み出した。枯葉を踏むたび、カサカサと音が響く。山の奥からは、わずかに潮の香りが漂い、踏みしめた落ち葉の香りが混ざっていた。
小道はゆるやかに曲がりくねり、森の奥に迷い込んだみたいだ。その先には、どんな景色が待っているのだろう……栄善と歩くこの瞬間が、私にとって宝物のように感じられた。
*
小道を抜けると、目の前には、色とりどりの山茶花が一面に咲く岸辺が広がっていた。
この光景を見れば、山茶花団子の箱を小物入れにしている方の気持ちもすごく分かるような気がした。
周囲は紅葉の葉で燃えるように色づき、オレンジや黄色の落ち葉がやさしく足元を彩っていた。
「綺麗……うっとりしちゃうね」
自然に囲まれた穏やかな場所に、ひっそりとお団子屋さんが佇んでいる。近くには、甘味屋さんや雑貨屋さんが、ぽつぽつと数件並んでいた。
町から少し離れているせいか、人も少なく、静かな雰囲気が漂っている。
「トワ、私は団子を買ってくるから、向こうの岸辺の席で待っていてくれ」
「うん!ありがとう!」
そよ風に揺れる暖簾を栄善がそっと押し分け、店内へ入った。
私は少し離れた岸辺の席に腰を下ろす。
誰もいない静かな空間で、時の流れを感じていた。
咲き誇る山茶花を眺めながら待っていると、鏡のように穏やかな水面に、散った花びらがそっと浮かんでいた。
しばらく美しい山茶花の景色にうっとりしていると、焼きたての香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
「トワ、待たせてすまぬな。あいつらの土産の団子も買っていたら、少し遅くなってしまった」
「全然そんなことないよ!栄善、お団子買ってきてくれてありがとう……すごくいい匂い。お土産のお団子もみんなきっと喜ぶね!」
山茶花の咲く美しい岸辺……
大好きな人と食べるお団子は、想像していた通り、格別なひとときとなった。
「本当は、山茶花団子があれば良かったのだが……トワ、すまぬな」
「ううん、岸辺にこんなに美しい色とりどりの山茶花が咲いていて、うっとりしちゃってた。こんなに素敵な場所でお昼のひとときを過ごせるなんて私、本当に幸せ」
「そうか、トワが喜んでいるのなら私も嬉しく思う。山茶花団子は、帰ったら哀伝たちに届けてもらえるようにしておこう」
「ありがとう、栄善。でも諭作さんは、今朝早く並んで買ったんでしょ?この時期の限定品だし、そんな貴重なお団子を私もいただいていいのかな?」
「山茶花団子は、朝早く行かないと人気ゆえに、あっという間に売り切れてしまうんだ。だが諭作も、きっとトワにもその美しさと美味しさを堪能して喜んでもらいたいだろう」
「せっかく諭作さんが、朝早く並んで買ってきてくれたんだもんね。山茶花団子、有り難く堪能させてもらっちゃおうかな」
「あぁ、それが良い」
山茶花の花びらが水面にそっと溶けていくのを眺めながら、私は栄善の隣で過ごすこの時間が心地よくて仕方なかった。




