第32話 母の味とぬくもり
【第一部】心の扉―始―
秋も終わりに近づいた山と海を前に、空気がやさしく胸に触れるようだった。
あの時間、栄善がそっと、心を差し出してくれたような気がしていた。
「トワ、私の話を聞いてくれたこと、感謝している。トワが先に心の内を話してくれたからこそ、私もこうして打ち明けることができた……トワには、私のことを知ってほしかった」
「栄善、こちらこそ話してくれてありがとう。栄善の考えや想いを知れて、心に触れた気がして、私は嬉しかった。栄善のお母様の愛……本当に素敵だね」
その言葉を聞いて、栄善は少し微笑みを浮かべた。その微笑みを見て、胸の奥に優しい光が差し込むようだった。
「……私も母にはとても感謝している。母と言えば、手料理がどうにもいつも苦くてだな。きっと料理は得意ではなかったのだろう。しかし、私にとってはとても大切で、大好きな思い出の味だ。だから、苦手ながらも一生懸命に料理を作ってくれているトワを、私はどこか母と重ねて見ていた」
栄善のお母様も料理が得意ではなかったのかもしれない。
私も得意ではないからこそ、愛する子供のために愛情を込めて料理を作るお母様の姿が、まるで目の前に浮かぶようで、胸の奥がそっと温まった。
「栄善は町の人たち、お城の人たち、みんなの気持ちが分かるから、それがこの桂ノ国に表れているんだなって思った。国を治めるお殿様が、こんなに人思いで、違う立場の人の目線でも物事を冷静に捉えられるんだもん。本当にすごいよ……」
「トワの言葉は、いつも私に自信をくれる……トワはもう知っていると思うが、私はいつだって自信がないのだ。トワに先程、『もっと自分を信じていい』などと言っておきながら、情けない話だがな」
なんでなんだろう。
私はそう思う栄善が、とても不思議で仕方なかった。
こんなに優しくて、強くて魅力的な人なのに、どうして自分に自信が持てないのだろう。
「私は羽田家の血筋ではない。しかし格式を守る必要がある。私が養子であることが他国の者に知れ渡れば、この国の立場は不安定になる。皆には、人柄や才能を重視すると言っているが、実のところ一番身分を気にしているのは、私なのかもしれぬな」
私は、力なく笑う栄善から目を離せなかった。
その笑顔の奥に、心にある迷いや不安が、静かに滲んでいるように思えたから。
こんなにも多くの想いを胸に抱えながら、国の上に立ち続けてきたのだと思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
いたたまれなくて、ただそっと、寄り添いたい気持ちになった。
「私が本当に殿でよかったのだろうか……皆が平等に暮らせる国にできているのだろうか、と時折、胸の奥に重くのしかかるような不安を覚える」
そういう栄善を、私はそっと抱きしめずにはいられなかった。
「……栄善。私はあの日、栄善だったから。栄善がこの国のお殿様だったから、今ここにいるんだと思うの。辛い経験をして、人の痛みや苦しみを心から感じることのできる栄善だったから。町の人たちだって、栄善がただお殿様だからって理由で親しみを持っているわけじゃないと思う。栄善の魅力あふれる人柄がそうさせてるんだよ。栄善はこの国にとって、羽田家のお殿様として、すごく必要な人なんだよ」
私もかつて、自分の存在の意味が分からなくなっていた。
だからこそ、栄善が抱えてきたその想いが、痛いほど分かる気がした。
「……トワ。私は、何度トワに救われただろう。その言葉で今、私の心は安堵に満ちている。胸を張って羽田家の殿として、皆と力を合わせ、これからも務めを果たそう。トワ、本当に感謝している」
そう言った栄善が、そっと私に体を寄せて、抱きしめ返した。
その力強さに、栄善の安堵と感謝が、そっと染み込んでくるようだった。
普段の栄善は年齢の割に、とても落ち着いていると思っていたけれど──
今までの話を聞いて、その冷静さの奥に、数々の困難に向き合いながら培ってきた優しさと温かさが確かに宿っているのだと、心の底から感じた。
その言葉も、その弱さも、栄善の一部だと感じる。
私が救われたように、私もまた、栄善の迷いや不安も含めて、すべて受け止めてあげたいと思った。




