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第31話 昔の話

【第一部】心の扉―始―

風が山を抜け、海へと流れていく。

 

私はその音に耳を澄ませ、栄善(えいぜん)の言葉を待っていた。


「トワ……初めてトワに出会ったとき『身寄りはあるのか?』と私が聞いたのを覚えているか?」


「うん……覚えてるよ」


あの日、力なく答えた私に、栄善は柔らかな眼差しを向け、そっと手を差し伸べてくれた。


あのときの温もりを、私は今でもはっきりと覚えている。


「……あのときのトワが、かつての私と重なって見えた。私も身寄りがなかったのだ。だから、初めてトワに出会ったあの日……見過ごすことなどできなかった」


その言葉を聞いた瞬間、頭の中で言葉が止まった。栄善が身寄りがなかったなんて……思いもしなかったから。


「私の家系は身分制度の影響で、家庭はとても貧しかった。物心つく前、父は、母と私を養えず、私たちのもとを去って行った。父の顔は覚えていない。まだ幼すぎたゆえに……」


私はその言葉を、静かに受け止めていた。


「母は貧しいながらも、私の勉学にとても力を入れてくれた。身分が低くても、将来自立できるように、生き抜く力をつけさせたいと考えていた。そのため、母と共に、よく諭作(ゆさく)の店に通っていたのだ。勉学に必要な紙や筆、墨などを、母が連れて行ってそっと手に取り買ってくれていた」


栄善の母の愛に、私は思わず心を打たれた。


「そして父が去ってから数年後、私の母は亡くなった。……隠していたのだ。不治の病であることを。薬は高価であるゆえ、私に心配をかけたくなかったのであろう」


その言葉は、胸の奥へと静かに沈み、ゆっくりと積もっていった。


温かさと切なさが混じり合った、静かな光のように──

栄善の母の愛の形。


「その後、母が亡くなり、私に身寄りがなくなったと町の者から聞きつけた諭作が、茶々蔵(ちゃちゃぞう)に頼んで、私を羽田家の養子として迎え入れてくれたのだ。諭作は昔から城と取り引きがあり、茶々蔵との付き合いも長かった。その時期、城では跡取りの者が亡くなったばかりであったそうだ……」


あのとき、栄善が口にしていた、諭作さんへの『大変世話になった』という言葉。


その重みを、私は今になって知った。


母の深い愛に包まれ、困難を乗り越えてきた栄善の姿が、私の心に静かに響く。これほどまでに強く生きてきたのかと思うと、自然と涙が滲むようだった。


「だから私は、身分制度を廃止したいと思っている。今も昔ほどではないが、全ては拭いきれていない。私は自分のような者を、もう出してはいけないと考えている。皆が平等で、自由で、平和な国を築いていきたい。そして、私が諭作や茶々蔵に助けられたように、皆が助け合う──そんな国にしていきたいのだ」


この言葉に、これまでの栄善の思いがぎゅっと、詰まっているように感じた。


栄善が町の人たちやお城の人たちを、大切に思い、深く考えていたのは、このような過去があったからなのだと。


これまで口にしていた言葉の奥に、こんなにも深い思いが隠されていたのだと思うと、胸が熱くなる。


「そしてそれは、私たち城の者たちもだ。しきたりなどに縛られず、自由に、自分の気持ちの赴くままに生きてゆく……そんな未来を願っている。もちろん、国の平和を守るため、ある程度の規則は必要だとは思っておるがな」


「その未来……栄善ならきっと叶えられるって、私……信じてる」


「トワ……ああ、私も信じておる……」


言葉の後、自然と空気が和らぎ、心がすっと軽くなる。まるで、これまでの思い出や時間が今、二人の間でそっと溶け合ったかのようだった。


「あの城で、初めて哀伝(あいでん)杏歌(きょうか)に出会ったとき、私は心を開いていなかったんだ。二人は代々あの城に仕えている家の出であったゆえ、私と年の変わらぬ二人に、つい嫌悪感を抱いてしまった。身分の差で私たちはとても苦しんだというのに、あの二人は恵まれた境遇にあるのだな……と、心のどこかで捻くれた考えを持ってしまったのだ」


栄善の気持ち……すごく分かる気がする。

辛い境遇にいると、ついそう思ってしまうんだよね……


「しばらくそんな気持ちを抱きながら過ごしていたのだが、ある日、城の者たちも様々な事情を抱え、苦しんでいることを知った。厳しいしきたりに悩み、苦しむ姿を見て……そのときから、私の考えは少しずつ変わった。違う角度から見れば、皆それぞれ事情を抱えているのだと。だから私は、この国のすべての人々が、自分らしく、自由に生きられることを望んでいる」


『違う角度から見れば、皆それぞれ事情を抱えている』──その言葉が、私の心に深く刺さった。


「その後、打ち解けたことで互いの距離が縮まり、皆がよく口にするやんちゃ坊主と呼ばれるようになった。茶々蔵も、別の意味でてんやわんやしておったな」


栄善が懐かしそうに目を細め、密かに笑った。


「ふふふっ、そのやんちゃ坊主だったときに、団丸(だんまる)七左衛門(しちざえもん)に出会ったんだよね」


「ああ、そうなんだ。本当に楽しい日々であった。それから城も人員を増やす時期だったゆえ、茶々蔵に団丸と七左衛門を城に入れてほしいとお願いしたのだ。私は身分制度を廃止するための架け橋として、人柄や才能を重視したかった」


諭作さんも『栄善様をはじめ、お城の方々は皆、素敵なお方ばかりでございます』と言っていたけれど、本当にその通りだ。お城の方々は、みんなあたたかくて優しい人たちばかり。


栄善が人柄や才能を重視しているからこそ、自然とそういう人たちがお城に集まるのだと──私はそう思った。

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