レイウォル丘陵撤退戦3
モンフォール将軍の判断は、それほど間違っていない。
敵の戦術魔法による壊滅的な被害を目の当たりにしても、アドラレクスはそう確信していた。
軽歩兵による丘陵への攻撃。それによる敵両翼の丘陵陣地の評価。攻撃重心を決めての戦術魔法の使用。
それは陣地攻略戦としては極めて真っ当なもので、手痛い反撃を受けた今でも、我が軍の勝利は揺るがない。
とはいえ、だ。
「損害が大きすぎるわね……」
歴史的、文化的、そしてそれらによる政治的な制約からルミナシア聖王国での軽歩兵は、ヴァリエンタ帝国と比較すると高価な存在だ。けっして使い捨てにはできない。
だからこそ敵が意図的に狙うのは理解できる。できるのだが、ここまで執拗に、そして徹底的に行うとは、長く平和の続いたルミナシア聖王国の将軍、参謀には理解の及ばないことなのだろう。
壊滅しかけた軽歩兵すら囮にして、我が軍の軽歩兵に損害を強いる気なのだ。
おそらくモラント子爵自身と、その最後の戦力である重騎兵すらも使い潰すつもりなのだろう。
それは感嘆を超え、畏怖すら覚えるほどの覚悟だった。
この戦争はエリシャ機関が全面的に力を貸すと宣言されたものだ。機関員としての戦争の展望は、激戦は予想されるが概ね優位に推移するというものであった。
しかしこの戦い振りを目にした今となっては、それを覆さなくてはならない。
「アドラレクス殿。将軍がお呼びです」
「私の力が必要なのですね? お聞きしましょう」
そらきた!
近づいてきた参謀の第一声は、予想と寸分違わずに一致していた。
しかし、その感想を顔に出すことはしない。
アドラレクスは将軍の元へ向かい、そこでは予想通りの内容を聞かされた。
「街道を陣取る長槍兵を誘因してほしい。それによって生じた間隙を重騎兵で突く。そして可能なら左翼に籠る軽歩兵もだ。丘をがら空きにしてしまえば重騎兵での制圧も可能だろう」
「承知しました。そのように力を使いましょう」
(初めからそうしていればいいものを……)
そんな言葉が喉まで出かかるが、アドラレクスはそれをなんとか押しとどめ承諾する。
将軍の戦術的な判断は正しく、それこそが彼の有能さを示していた。しかし、それが逆に足枷となり、今の状況を招いている。
無能であっても戦力差から敵を追い詰めることは簡単だ。だがその場合はここまで戦力を保持することは不可能だろう。しかしエリシャ機関の使い方を誤っているのは大きな問題であった。
もし彼が無能ではなく、有能でもない凡将であったのなら? おそらく、もっと早い段階でアドラレクスの力を頼り、手間なく敵を追い詰めていただろう。
その有能さによって確実な勝利を頭に思い描けているからこそ、事態はここまで拗れてしまったのだ。
「前代ノヴァリス辺境伯の情念も相当なものね。ここまで事態を悪化させるのだから」
「昨年死亡した聖女イルミナの双子の話ですか? 四十年近く前の話ですし、エリシャ機関は何も関わってはいないと聞きますが」
アドラレクスは、馬の轡を引く護衛の機関員とともに、能力の発動位置まで移動する。
かなり前線に近づくことになってしまうが、中央に残してあった最後の予備戦力である軽歩兵によって壁が形成されていた。
この戦力は街道の長槍兵を撃破するために切られた最後の手札だった。しかし、モラント子爵の突撃により、その役割はアドラレクスの護衛へと変わっていた。
「それを言ったところで、いまさら我らへの嫌悪が変わることなどないでしょう? 過去の因習が今に影響を与えるなんて、よく聞く話だけど、わが身に降りかかると本当に面倒な話よね」
「全くです。とはいえ嫌われるのもエリシャ機関の仕事の内ですか。それも初代聖女からの因習ですね」
「そういうことね。例え王太子直々にエリシャ機関を使うと表明しても、誰しもがその決定に素直には従わない。聖女の外戚ともなれば、なおさらね。ん……この辺りなら届くでしょう。始めるわ」
対象に過剰な勇気を与える『蛮勇』の力を持つアドラレクスは、敵との距離を慎重に見極めた。
ここなら敵陣全体を覆うことができる。
「力を使っているわ? 敵の動きはどう?」
護衛の機関員が馬に乗り視野を広げ確認をする。
「……誘因は成功しました。長槍兵の全てが移動中。防御に留まる隊列はなし。アドラレクスからも見えるでしょうが、左翼の丘にいる軽歩兵も動き出しました」
「ではこのまま力を使い続けましょう。……これでやっとこの戦場も終わりね。短かったのか、長かったのか……よく分からないわ」
「期間としては予定通りではありますが、そこは同意します。ん? 丘の上から槍ですか? それをこちらに投げている者がいます」
護衛の機関員の言葉を聞きアドラレクスは丘の上を見る。
そこにいるのは戦場に似つかわしくない服装の女だ。その女が投槍器らしきものを使って槍を放っているのが分かる。
投槍はアドラレクスの前にいる軽歩兵の列の近くに、次々と落ちているようであった。
「前線の軽歩兵ではなく、後列の軽歩兵を狙っているようです。意図は不明ですが……」
「牽制? 重騎兵の援護? それにしても変ね。『蛮勇』の力を受けて前に出ないなんて……女だから恐怖があるのかしら?」
「おそらくその通りだとは思いますが。 危ない!」
「えっ? ああっ!」
機関員は素早く馬から飛び降り、アドラレクスを庇うようにして地面に押し倒した。
しかしその献身に意味があったのはアドラレクスの生命に対してのみであった。
腕に感じた衝撃。そして少し遅れて激しい痛みがアドラレクスに走る。
「まさか、私を狙っていたというの!? あの距離から!」
「アドラレクス! 無事ですか!? 『恩寵の力』は!?」
「駄目……解除された。長槍兵の誘因はどうなった? 私のことはいいから確認して!」
「はい! ……駄目です! 前衛と後衛に分かれています! これでは我が軍の重騎兵で突破できるか分かりません!」
信じられないことが起こった。この状況で『恩寵の力』を解除させられるなんて。
腕の傷を抑えながら忌々しい目でこれを成した女をアドラレクスは見つめる。
そこで気づいた。エゼルシオンとノクタリアスが言っていたことを。
「我らの力が効かない存在……予測不能の力をもつ者……」
馬鹿な話と思って聞いていた。そんな存在なんているはずがないと。
しかしここで一本の線として思考が繋がる。
この戦いはスヴェルノヴァがセシリア・アリオンの確保を失敗したから起こったのだ。
では誰がスヴェルノヴァの任務を阻止したというのか? そんなことをできるのは『恩寵の力』が通じない存在だけ。
「『イレギュラー』……あいつが……そうなのね」
自身の力を防がれた。しかしだからと言って、戦局を覆すことはなく勝利が確定している。それはいまだに変わらない事実だとアドラレクスは思っている。
しかし、計画は大いに狂うだろう。
敵を完全に包囲撃滅するという目標はこれで困難になった。
「エゼルシオン……この戦争は、そう簡単に終わらないのかもしれないわ」
その言葉は一陣の風が吹いたことによって、誰にも聞こえずに空へと流されていく。
そう、今風が吹いた。
この風が少しでも早く吹いていればアドラレクスが傷を負うことはなかった。それはただの偶然。
しかしこの風を今まで押し留めていた何か。その何かは『イレギュラー』によってもたらされたのだと、アドラレクスは思わざるを得なかった。
敵の軽歩兵に大きな損害を与えた。それは、この戦いで得た最大の戦果だった。
しかし、中央の長槍兵を攻撃しようとしていた右翼陣地を攻撃していた敵の軽歩兵は、不利と分かると秩序だった撤退をして、それを中央の軽歩兵が援護することで損害を抑えることに成功している。
モラント子爵の突撃は大きな意味があったけど、いかに果敢に突撃をしようとも所詮は少数の重騎兵にすぎず、大きな戦果は得られなかった。
それはエリック隊も同様だ。勢いよく攻撃に出たのは良いものの、統制を欠いていた。
それにより上手く受け流された形になる。しかし、それはエリック隊にとって幸運でもあった。攻撃を跳ね返されたことによりすぐに丘に引くことができた。このおかげで、動き出そうとしていた敵の重騎兵の攻撃に晒されずにすんだ。
無理やり攻撃を続けていたら甚大な被害を受けていただろう。
敗残兵の寄せ集めとしては十分な戦果だろう。
しかし、軍としての戦力の再編は不可能。その中でも重騎兵と左翼陣地の丘を守っていた兵力は、ほぼ壊滅状態にある。
生き残れたのは街道を守っていた長槍兵とエリック隊。左翼陣地の生き残りと、少数で突撃して生還できた重騎兵の三騎のみ。
これが、ヴェリウス辺境伯軍の成れの果てだった。レイウォル丘陵には二千はいたという兵の数は確実に千を切り、今は六百くらいだろうか? 三分の一に以下に減ってしまったが、それでも生き残った。
日が傾き、その赤い日差しが戦場に差し込むようになるとルミナシア軍は引いていった。敵もまたその損害から戦力の再編成をしなくてはならないからだ。
激しい疲労。それは両軍とも同じ。朝からの連続した戦いによる疲れは士気を蝕んでいく。
そしてついに地平線の彼方に太陽が沈み、夜と言える時間となる頃に、残存兵力は丘を下りて街道へと集合する。
これから夜を通した撤退戦が始まる。ここから脱出するためにいままで戦っていたのだ。だからこれからが本番。そう、今も戦いは続いているんだ。
敵の攻撃はいったんこれで終わったが、夜襲があるかもしれない。その警戒はカイルが指揮する部隊やヴァルガに任せ、生き残った将校と言えるような貴族や騎士の最後の軍議が始まる。
だがこの軍議は貴族だけのものではなかった。生き残った兵も可能な限り集まり、その内容を聞いていた。
「親父は死んで、兄貴は重症……兄貴、歩くのは無理か?」
「無理だな。太ももをやられた。これでは馬にも乗れん。撤退はできないだろう」
日が今にも沈む黄昏の時。ギルバードは地べたに座り込みヴィクターに諭すように言った。
「俺が背負っていく、だから!」
「無理だと言ったはずだ! それにお前にはお前の務めがある。そうだろう? ヴィクター。生き残った兵を連れてカステリスへ逃げろ。特にエリック殿が指揮したエリック隊を失ってはならない。寄子たちの敗残兵の寄せ集めがここまで耐え戦えた。今後、必ず必要となる貴重な戦力になる」
「ギルバード殿……」
「モラント家の長槍兵を率い、最後まで敵を足止めする。夜とはいえ重騎兵が突破をかけてくる可能性を考えれば、その備えは必要だ。ここで幾ばくかの時間を稼ぎ、その間に後方の宿場町まで逃げ込めば、そこに配置されている駅の馬を使い逃げられるはずだ。生き残った三騎の馬も持っていけ、残った伝令用の馬も使って、先行し準備をさせろ」
そこまでギルバードは言い切り、息を吐く。そして最後にこの場に参加するものを見回す。そこには貴族と兵の区別もなく、ただ戦友たちに語り掛けるような視線があった。
「これは父上とも話していたことだが、此度の戦い。ただの戦にあらず。ルミナシアは本気だ。本気でヴァリエンタを攻めにきている。それが我らの領地にどのような結果をもたらすか、それは分からない。だが、一つだけ言える。楽観はするな。どのような結果を迎えようと受け入れる必要がある。それだけの覚悟を持ってこの戦いに臨まねばならない」
ギルバードはエリックを見据え、強い決意を宿した眼差しで口を開く。
「撤退戦の指揮は、エリック殿に任せる。苦しいこともあるだろう。辛いこともあるだろう。投げ出したくもなるだろう。それが、貴族として生まれ、嫡男としての道を歩んできた貴殿に課せられた責務だ。それを忘れるな」
「……はっ! 謹んで承りました!」
「よろしい。では戦友諸君。さらばだ。そして行け! 決して敵の、ルミナシアの思い通りにさせるな! そのために今は逃げろ! 逃げて反撃の糸口を掴め! 以上だ」
こうしてこの戦いは最終局面に入った。
その目的は単純明快。それは生き残ること。けっして諦めずに、カステリスまで逃げ延びねばならない。
ここに残って足止めをするというギルバード。その姿を見ていると、心の底から使命感が湧くのが分かる。
この感覚は、この場にいる全てが共有するものだろう。全ての兵の目には光が灯っている。
その灯を絶やさぬこと。
それが、残された者の果たすべき責務だと、俺は心に刻んだ。