エヴァン・モラントの決断
エヴァン・モラントは賭けに出た。この圧倒的に不利な戦場で、いかにして主導権を握るかを。
防御側でありながら、戦場の主導権を握る。
それはある意味で矛盾した思考であった。しかしこの矛盾が解消されない限り、確実な負けとなるのは分かり切っていた。
そして一つの作戦を思いつく。それは通常なら決して行わない、あり得ないものであった。
「ギルバード。それは確かに精神に作用する力だったのだな?」
エヴァンの問いに、ギルバードは頷いた。
「はい。心の中を勇気が漲るような、そしてどんな敵にも打ち勝てるような万能感。さらに言えば命などいくら失っても惜しくはないという無謀な勇敢さ。そのようなものが心の中を占めました」
「ふむ。ヴェリウス閣下の懸念が当たったということだ。エリシャ機関……実在していたとはな。そしてそれを戦場にまで投入するとは」
「ルミナシアの諜報機関という話でしたね? しかしこれはもう諜報の範疇をはるかに超えています」
「ああ。それだけルミナシアが本気ということだ。ならば我々も本気にならねばなるまい。それこそ、命を捨てるほどの蛮勇を持ってな」
エヴァン・モラントはこの場において覚悟を決めていた。そしてその覚悟を嫡男であるギルバードにも求めている。
それだけの意思がなければこの戦場に置いて、一時たりとも優位に立つことなどできないと確信しているのだ。
「敵の力とはいえ、失態を犯したのは私です。この身で償わねばなりません。それに弟たちが生き残れば、モラント領の継承に問題はないでしょう」
「そういうことだ。お前も貴族の嫡男として生まれたからには覚悟を決めてもらう。ヴィクターが提案してきた、蜥蜴の尻尾切り戦法だったか? 奴もできる訳はないことを承知で言ってきたが、それによりこの戦法を思いついたのは幸いであったな」
「はい。尻尾を切れぬなら、頭をくれてしまえ。そのような考えに至る父上も父上ですが、この戦場においては効果を発揮するでしょう」
「ルミナシアがどれだけ本気か分からないが、その本気の度合いによってはモラント領が焼き尽くされるということもあり得るのだからな。それを阻止するためならば、こんな頭などいくらでもくれてやろう。そして、ついに敵の戦術魔法が放たれた」
エヴァンは左翼の丘の上に炸裂した戦術魔法の余波をその視界に移した。
轟音と爆炎と、そして守備兵の叫び声。それらが木霊して地獄ような様相を呈していることは想像に難くない。
そしてすぐに左翼の丘を制圧するための軽歩兵が送られてくることもだ。
「予定通り。と、言ったところですか。しかしなんとも嫌な予定です。我々としては常に最悪を想定し続けるだけに過ぎないのですから」
「ふん。有能な指揮官は逆に読みやすいなどと、分かったような論評をする兵学者がいるが、その実情がどういうものかまるで分かっていない。読めたからと言ってどうなるというのだ? この状況を実際に経験して、その上で口を開いてもらいたいものだな」
「全く、その通りです。そして、我らの策が今、成ったようです。エリザベス様の戦術魔法が立て続けに炸裂しています」
エヴァンとギルバードは再度、丘の上を確認する。
そこには違う方向、左翼の森の中から放たれた爆炎により、更なる破壊がもたらされているところだった。そして聞こえる兵士たちの絶叫はさきほどの自軍のものと比較にならない多さであった。
「エリザベス様の力を温存していたのは正解だった。エリザベス騎士団は伝令用の馬を使い、カステリスへ帰還してもらっても差し支えはない。戦場の準備は整った! 行くぞ! 見くびられたモラント騎兵の真の実力、目にもの見せてくれようぞ!」
「皆の者! 我らはたった十の騎兵であるが、この状況下でならその十倍! 百騎の働きができようぞ! 父上に続け!」
「はっ! 我らはエヴァン様と共に!」
最後に残された重騎兵による突撃が始まる。
この突撃は反撃の狼煙となるのか、それとも無謀な悪あがきなのか? それは丘の上へ、この最後の騎兵が上り切った時に分かることだった。
戦況は、もはや絶望的だった。
だが、その絶望は轟音とともに覆される。丘を制圧せんとした敵の軽歩兵、その中心に戦術魔法が炸裂した。
その威力は凄まじかった。勝利を確信した敵は、散兵の利を忘れ密集しながら丘を登ったからだ。
なぜそんなことをしたか? その理由は理解できる。ヴィクターは言っていた。敵は投射魔法で街道の長槍兵を崩しにかかる、と。
長槍兵を崩すには投射魔法と近接戦闘の二つがいるが、敵は左翼陣地を制圧した軽歩兵に投射魔法を撃たせて、右翼陣地を攻撃していた軽歩兵と、予備戦力の軽歩兵を近接戦に投入するつもりだったのだろう。
戦列歩兵と同じ理論だ。投射魔法を放つならある程度密集していたほうが効果が得られるということ。だから丘に登った軽歩兵は密集陣形気味の隊列を組んでいるんだ。
そして俺たちは敵の重騎兵に睨まれているから遊兵になっている。ルミナシア軍の作戦はまさに完璧だった。
だが、それをモラント子爵が読み切っていたら? 確実に効果を発揮する、最高のタイミングで戦術魔法を使える存在がこの軍勢に存在していたのなら?
「エリザベス様だ! 森に潜み、最初から左翼の制圧を見越して戦術魔法を放つ作戦だったのだ! 帰還したと聞いたが、いまだに残っておられた。我らを見捨てず、援護するために!」
エリックは、身振りを交え兵たちに叫んだ。
いつものエリックらしくはないけど、なぜそうしたのか俺には分かる。
兵たちに士気が戻りつつある。
そして続けざまに起こった光景を見て、彼らの瞳は完全に戦意を取り戻した。
「あれは! 親父と兄貴! それに側近たちだ! 丘の向こう側に潜んでいたんだ! たった十騎。しかし、今ならそれ以上の力を発揮できる!」
重騎兵が、敵の軽歩兵を蹂躙していた。
人馬一体の騎兵がランスを持って突撃し、時には馬蹄により敵を踏みつぶし、エリザベスの戦術魔法により壊滅的な被害を被った敵兵を、文字通り殲滅していく。
そしてその攻撃によって士気を取り戻したのか、壊走したはずの左翼の軽歩兵が僅かだが戦場へ戻り、反撃を開始した。
流れは変わった。戦いの主導権がこちらに移った。
「エリック! 親父たちはあのまま街道に向かっている軽歩兵に突撃するつもりだ! 俺たちもそれに合わせて丘を下るんだ! そうすれば右翼に攻撃をしていた敵を挟撃できる! 街道を守っている我らの長槍兵も敵の騎兵に圧力を加えるために前進を始めたぞ!」
「ああ! その通りだヴィクター! 皆の者! 俺たちに続け! 敵の軽歩兵を打ち砕け! 突撃!」
号令を掛け、突撃を開始するエリックとヴィクター。あの冷静沈着なヴァルガでさえ、闘志を滾らせた目で丘を駆け下りていく。
近くにいるカイルだけはその場に留まっているが、突撃の意思がないためではなかった。
「リーナさん! 僕は弓矢で最後の援護をしてから突撃に移る」
「はい、カイルさん! この勢いで敵に反撃を加えれば、戦いの流れが変わります」
エリックとヴィクターは、先陣を切って突撃していた。指揮官と指揮を引き継げる者が一緒になっての突撃だ。
さっきの乱戦は敵を迎え撃つ戦いだった。だから二人は戦っていたわけだけど、攻撃を仕掛けるという今の局面において、全体の統率を取ることを考えれば悪手のはずだ。
だが、これこそが最善だと、心が激しく叫んでいた。
「今だ! 放て! よし、突撃するぞ!」
丘に残ったカイルも突撃を開始する。
俺もそれに続こうとするが、ふと我に返り周囲を見ると丘ががら空きになっていることに気が付いた。
これは? 本当に正しいのか? エリックとヴィクターが突撃するのは分かる。今が絶好の好機なんだから。
でもカイルはどうなんだ? いくら敵の重騎兵が丘に対する攻撃が苦手とはいえ、ここががら空きなら簡単に制圧される。カイルの部隊は流動的に動く戦局に対応するための備えとしても、ぎりぎりまでこの丘にいるべきなんじゃないのか?
それに街道を守備する長槍兵にもおかしい点がある。
敵に圧を加えるのは良い……だけどあのまま前進を続ければ街道を守る陣地に穴があく。ヴィクターが言っていたじゃないか! 長槍兵がやられれば敵の騎兵が後方に回ってしまい、包囲されてしまうと!
血の気が引いた。しかし、それも束の間。すぐに、心の奥底から異様な勇気が湧き上がる。
突撃しろ、エリックに続け! 迷うな、恐れるな、進め! 心はそう叫んでいるが……おかしい。俺はこんなに好戦的で勇敢だった? いや、そんなはずはない……まさか!
敵陣をよく観察する……いた。この戦場に似つかわしくない服装の人間がいる。
ローブを着た女だ。あれは明らかにおかしい。
これが鎧を着ているならまだ分かる。動きやすい戦闘服のようなものを着ているなら、アンナのような魔法使いだと理解できる。
しかしあれは違う! 間違いない! あいつらの仲間だ!
これで謎は解けた! 陣地を守っている時に、何故モラント家の重騎兵が不審な突撃をしたのか……あいつの仕業だったんだ!
そしてこのエリック達の突撃もそうだ。エリック達ならまだいい。敵を挟撃するための突撃には意味があるから。でも長槍兵はどうだ? 街道の守りを放棄してまで前進するのは明らかに変だ!
その行動が、心の底から湧いてくる勇気に突き動かされているとするのなら……これが奴の力か!
まずい……この流れを止めるわけにはいかないが、流れが早すぎればそこに付け入る隙ができてしまう!
この丘からあの女までの距離はどれくらいだ? 馬に乗ったローブの男が隣にいるけど、あいつがあの連中の指揮官か?
分からない。だけど、随分と前線に接近しているのは確かだ。
何故危険を冒してまで前線に近づくのか? それは当然……俺たちのいる右翼陣地と街道の長槍兵全てを、能力圏に収める必要があるからだ!
親指を使い距離を測定する方法。一度使ったから、少しは感覚が掴めている! 人間の体を横に四十から五十センチくらいだとすると……ここからあの女までの距離二百から二百五十メートルくらいのはずだ!
その距離だと魔法は届くかどうか分からない。もしかしたら届くかもしれないが、殺傷力はどうだ? 命中率は? 女の心になるだけの猶予はあるのか?
そもそも精神力が足りないって可能性もある。だから魔法じゃ駄目だ!
なら違う方法を使うしかない! 残された最後の武器。それは投槍器だ!
覚えた地点に向かい、投槍器と槍を回収する。その本数は七本。これでやるしかない。
狩猟用の矢よりも重いのは確実だ。うまく投げることができれば、より運動エネルギーを乗せられるかもしれない。それなら短弓よりも飛距離を稼げるはずだ。
あとはこの距離を投げて、当てることができるかだけど……他に選択肢はない。ならば、これに賭けるしかない!
意識を一点に研ぎ澄ませ、投槍器に槍をセットする。
魔法を使い続け消耗をしたからなのか、すぐには極限には入れそうもない。だけど、やるしかない。
全身のばねを意識して槍を飛ばす。試しに投げ放った槍は八十メートルくらいの所に落ちた。
当然、飛距離は足りていない。だが、それでいい。さらに集中を深くして槍を投げる。次は百メートルを余裕で超えた!
敵陣を確認する。ローブの女の五十メートルほど前には中央に配置されているという最後の軽歩兵の集団がいる。やつらは長槍兵に向かうと思いきや列を作り動いていない……もしや、あの女を守るためか?
そうだ! モラント家の騎兵がローブの女に、万が一にも攻撃されないように壁になっているんだ。
味方の重騎兵は、最初はあの軽歩兵に向かっていたはずだが、今はそれをやめて右翼の丘へ攻撃していた軽歩兵に向かっているようだ。エリック隊との挟み撃ちを考えれば、一番いい選択のはずだけど、あのローブの女の存在によって、それが一番の間違いになってしまっている。
敵の想い通りにさせるものか! 再度槍を投げる。今度は百五十メートル地点に届いた! 壁を作る軽歩兵の近くだ。
これなら角度と高低差、そして体を完璧に使えば届くかもしれない!
そう思った瞬間、極限の集中の中に、今、入った。
投げる時の動作に若干の修正をかけて、槍を飛ばす。これも届かない。だけど、分かった。体の使い方が分かってきた!
再度飛ばす。これも駄目。だが収穫はあった。二百メートル以上の距離。それは確実に飛ばせる! この丘の上からなら攻撃は可能だ!
そして次にすべきは、投擲の修正。体の使い方を意識して、飛ばす! ローブの女に悟られぬよう、軽歩兵の列を狙う。
その投槍は列の真ん中に落ちた。……これだ! これでいい! この投げ方がベストだ!
全く同じ投げ方さえできれば……あの女に当てられる。絶対に!
風はなく無風状態。狙い撃ちをするのには好都合だ!
深く、深く呼吸をする。肺に満たした空気の酸素を全身に巡らせるように。さらに深く吸い、次は脳へと送り込むように。
その瞬間、視界から色が消え、騒めきが耳に入らなくなる。
入った。極限の集中……その最奥に。
投槍は最後の一本。これをさっき投げた動作を、完全にトレースするかのようなイメージで……ローブの女を狙い、投げる!
有効射程を超えた最大射程。通常なら命中など望めない……だが、今はこれに賭ける!
投槍が放たれた瞬間、極限の集中が切れた。
極限の集中は完全な打ち止め。やはりこの力は長くは使えない。
だけどすでに投げ終わった後だ。その最後の投擲が……当たった! 命中したぞ! 馬に乗っていた奴は護衛だったのか、女を庇うように地面に押し倒している。
直撃は阻止されたけど……十分だ!
ローブの女とその護衛の慌てふためく姿が見える。あれは攻撃が当たった証拠!
あのスヴェルノヴァとかいう男を思いだす。傷を負うと、あの力は弱くなるはずだ!
それを確認したと同時にモラント子爵の騎兵がエリックとヴィクターが向かっている軽歩兵の集団に突っ込んだ。
そして、ふと何かに気づいたようにカイルの突撃が止まった。これで彼の部隊は丘の守備に戻れる! 味方の長槍兵はどうだ? 圧を加えるため前進をする隊と、そのまま街道を守備する隊に分離している。これなら重騎兵でも突破はできない!
敵の思惑を阻止したぞ! この戦いの決着はまだついていない! 奴らの思い通りにさせてなるものか!




