ヴァルガ
ヴォルファング。
それはヴァルガにとっては、とうに捨てた名前だった。高地人の独立がどうのという、氏族の考えに賛同できなかったからだ。
己の腕を磨き、傭兵として稼ぎ、酒と女をほどほどに楽しむ。それだけで良かった。
だからこそ完全な縁切りはしないまでも、ヴォルファングの名を捨て、自分と同じく氏族のしがらみを捨てた叔父のもとへ身を寄せた。
イヴリンの振るう剣の射程の限界点。そのぎりぎりを見切り軽やかな足運びでもって殺傷圏から退避する。
風切り音を伴う大剣の剣撃。戦いを知らぬ者であるなら恐怖しか覚えないこの圧倒的な暴力でさえ、ヴァルガには心地良ささえ感じるほどに慣れきっていた。
ヴォルファングの名、そして自身が辿ってきた軌跡を思い出す余裕のあるくらいには、ヴァルガにとってこの戦いは容易いものなのだ。
イヴリン・グリムヴァル。
かつてイヴリン姉と親しみを込めて呼んだ存在。
独立派と恭順派という派閥に各氏族が分かれてしまったために、憎しみを持って争うことになってしまった。
イヴリンはヴォルファングの裏切りというが、それだって完全にヴォルファング氏族が悪いわけではない。
ヴァルガが叔父から後になって聞いた話ではあるが、酒宴でのいざこざが長引いて、それがグリムヴァル氏族傭兵団に対する救援を遅らせたことが事件の真相である。
何とも下らない! 氏族の誇りだ、どうだと言っておきながら、所詮はその程度のことでこんな憎しみまで発展する。
ヴァルガにとって心底どうでもいい感情に拘泥するイヴリンには、この戦いの中において蔑みさえ覚えていた。
(切った張ったの戦場で、救援が遅い? 助けが来なかった? そしてそれが裏切りだと? 命の取り合いを舐めてるのか!)
だが、今宵はその馬鹿な話から始まった物語に決着を付けなければならない。それがヴァルガにできるイヴリンへの最後の餞別であった。
ヴァルガとイヴリン。一時期は婚姻の話まで出ていた間柄は、もはや過去の幻のようなものだった。
最後に残った感傷をヴァルガは振り払い剣を構える。
愛用のハルバードは長物ゆえにこの街中には持ってこれなかった。それだけがヴァルガにとっての心残りではあるが、今彼が手にしている剣でも、十分に戦えるのだと言う自負がある。
ヴァルガはイヴリンの戦法の骨子を知り尽くしていた。なにせ一時期は一緒に考えて、組み上げた戦法であるからだ。
女であるという膂力のなさを武器の重さで補う。そしてあえて隙を見せ攻撃を誘い、それを『土壁』により防ぐことによって敵の態勢を崩し、反撃により勝利をおさめる。
そのようなグリムヴァルにない戦法をヴァルガと一緒に考えて作り上げたのだ。
ヴァルガはイヴリンの紅く輝く瞳に一瞬だけ目を向ける。グリムヴァル氏族の固有魔法、『天眼』を発動していた。
これは肉体の持つ知覚能力を飛躍的に高める魔法。剣撃の精度だけでなく『土壁』発動のための制約を低減することができる。
だが、これには問題もあった。
常時の『天眼』の発動は戦うための持久力を激しく消耗する。しかしそれを分かりながらもイヴリンに『天眼』を止める選択肢はない。いや、出来ないのだ。
それだけの技量をヴァルガは持っている。少しの油断が即、命取りになるからだ。
「……」
「……」
無言の攻防が続く。この殺し合いに言葉を交わす意味などない。それだけがヴァルガとイヴリンの、唯一の一致する見解であった。
攻めと守りを流れるように切り替えながら戦うヴァルガと、剛剣を振り回し必殺の一撃を叩きこもうとするイヴリン。
ヴァルガはイヴリンが消耗するまでこの攻防を続けるつもりである。『土壁』による防御を強要し、限界を迎えて使用できなくなった時こそ、勝負を決する瞬間だ。
対してイヴリンの剛剣は、一撃さえ決まれば勝敗が決まる代物である。しかしヴァルガの『目』の良さの前では、その剛剣はただ無駄に振り回されるのみであった。
この無言の戦場の中で、イヴリン・グリムヴァルはどのようにヴァルガを打倒するかを考える。
先ほどは心の赴くままに激高し、無意味な感情の発露をした。しかし、ヴァルガと対峙し攻防が始まると、そんな余計なものを思い浮かべる余裕などなくなっていた。
(……強い。最後に会った時と比べれば、まるで別人)
それを証明するかの如く、イヴリンの剛剣は空を斬るのみである。
剣戟の合間にある僅かな隙を、ヴァルガの剣が縫うように突き刺してくる。しかし、それを『土壁』で防ぐことはまだできる。
だが、この『土壁』が使えなくなった時、それが自身の敗北であるとイヴリンは理解していた。そして、その時は一瞬の攻防を繰り返すたびに、確実に近づいている。
(ならば、出し惜しみは不要だ)
イヴリンは大剣を振るい、その勢いを殺さずに大上段へと持っていった。
大上段の構え。これこそがイヴリンが修得した大技を繰り出すための必殺の構えだ。
(良くは見えなかったが、リーナとかいう女に使った技か。こんな構え、グリムヴァルの戦技には存在しない)
ヴァルガがさらに目を細めその構えを見定める。
だが、ここからどのような攻撃が来るのかは、いかにヴァルガであっても完全に予測することは不可能であった。
躍動した戦いの中に突如として現れる静寂。この静けさが戦いを更なる次元にまで引き上げるただの間であることに、死地に身を置く両者には分かり切ったことであった。
イヴリンが動く。間合いはまだ遠い。この距離ではいくら大剣とはいえ届かないはずだった。
だが、ヴァルガの『目』に映るのはイヴリンの必殺の意志。そして己が信じる直感は、これでもかというくらい警鐘を鳴らしている。
この攻撃をまともに受ければ死ぬ! そう思った瞬間にヴァルガの体は飛んでいた。
響き渡る轟音。
坂の補強をしてあった石壁と、道として布かれていた石畳が粉々に砕け散っていた。
ヴァルガは態勢を立て直してイヴリンを見る。
イヴリンは再度この大上段の構えをとっていた。一度躱されたにもかかわらずこの構えを取る意味はただ一つ。絶対の自信があるからに他ならない。
そのイヴリンの自信が確かなものであるとヴァルガは理解できた。それはこの技を看破することができたからだ。
剛剣をもってして魔法の衝撃を撃ち出す。単純に言えば、そういう技だ。
グリムヴァルの技でないのなら。いったいこれは何だ? ヴァルガの脳裏に今まで知り得た戦技がいくつも浮かび上がる。
一つ、思い当たるものがある。それは猪を氏族の紋章とする、ドラヴァンの戦技。
そこまでをヴァルガは冷静に見極めた。イヴリンは何かしらの方法でドラヴァン氏族の技を習得したのだ。
しかしドラヴァンの戦技とは剛剣で敵を直接叩き潰すもの。このように魔法の衝撃を放つ技ではなかったはずだ。
だが、その技と『天眼』を組み合わせればどうなる?
ドラヴァンの戦士ですら正確に把握できない必殺の一撃。そこから放たれる魔法による余波そのものを、自在に操ることすらできるのではないか?
そこまで考えてヴァルガは結論に至る。グリムヴァルとドラヴァンが組んだということに。
「イヴリン……いや、グリムヴァル。さては、ドラヴァンと組んだな? だからこんな技が使える。そうだろう?」
「……」
ヴァルガの問いにイヴリンは沈黙で返した。しかし、その態度は肯定に他ならなかった。
(結局は下らぬ政治がここにも付きまとう。氏族の秘奥を明け渡してでも手を組むだって? 高地人と言えども所詮はそんなものか)
ヴァルガにとってイヴリンが放った一撃ですら、そんな考えが浮かぶ程度にすぎなかった。
いかに『天眼』があろうと、自分にその攻撃が届くことはない。ヴァルガはそのように確信している。
(いくらドラヴァンの技と『天眼』って言ってもよ。全部この『目』には見えてるんだぜ。それにだ……)
確信をもって、構えているイヴリンにヴァルガは飛び込んだ。
再び轟音が響く。イヴリンの剛剣は、確かにヴァルガを捉えたかに見えた。
だが、それは幻。
ヴァルガが使ったのは彼の固有魔法である『幻影』と、一族の秘伝である『朧』。
『朧』によって希薄化されたヴァルガの実体は『天眼』でも捉えることができず、『幻影』が作り出した虚像を打ち消したところで、ヴァルガの本体には決して届かない。
(……取った!)
幻を見たイヴリン。剣を振り切り完全にがら空きになった胴体。その背後に回り込むように機動しながら、ヴァルガは確信をもって剣を突き出した。
大技を放つ故の隙。その隙は『土壁』の発動を遅らせ、迎撃どころか防御すら間に合わず、イヴリンに致命の一撃を与えるはずであった。
しかしそうはならなかった。剣が突き立てられるはずのその瞬間。イヴリンの周囲の空気が爆発するように震えだした。
(……取った!)
イヴリンの『天眼』は自分の命が刈り取られる寸前にあることを把握していた。ヴァルガの動き、剣の軌道を知って、それが『土壁』でも間に合わないことも理解している。
イヴリンはヴァルガの使う魔法を知らない。だが知らなくても分かるのだ。ヴァルガが無謀な特攻など絶対にしないことを理解している。
だからこそ、こうなることも予想できた。故に最後の切り札を使うことをイヴリンは選択した。
残された最後の切り札。『轟風爆』は自身の体を傷つけながらも、迫りくる敵を迎撃する魔法だ。
これを『天眼』によって強化する。自らの体を傷付けながらも、その衝撃をヴァルガに対して最大限に指向する。
これこそが必殺の一撃。そうなることを確信し、イヴリンは魔法の衝撃を撃ち放った。
だが、致命の爆風をもって吹き飛ばしたと思ったのは錯覚であった。この攻撃すらヴァルガは躱していた。
技が発動するその瞬間、とっさに身を翻したのだ。
しかし、ヴァルガも避けるので精一杯であり、『轟風爆』と『天眼』によってもたらされた衝撃を防御するために剣を吹き飛ばされてしまう。
「……」
「……」
『轟風爆』により自身の体に傷を負ったイヴリンと武器を失ったヴァルガ。
息も絶え絶えなイヴリンと丸腰のヴァルガのどちらが優位に立っているのか、それは両者にすら分からないことであった。
そんな中でイヴリンの脳裏に、かつて自身を姉と呼んだヴァルガの姿が唐突に思い起こされた。
それは決して戦意を衰えさせるはずのものではない……はずであったが、イヴリンが自身の不利を悟る程度には、ヴァルガの才気を思い出させるには十分であった。
不利を悟ったイヴリンはこの場から逃げるように立ち去った。
それをヴァルガは見送る。べつに依頼は受けていない。それゆえに必殺の信念を持つことはこの戦いにはなかった。
だがそれだけが理由ではない。あのまま最後までやれば自身の命までもが危うくなる。
イヴリンの実力をヴァルガは過小評価していた。イヴリンはヴァルガの知らない実力を身に付けつつあるのだ。
そしてそれは高地人氏族の対立が、さらなる次元に引き上げられたという事をヴァルガは確信した。
大きな嵐が故郷の山に吹き荒れる様を幻視する。
だが、それをヴァルガは振り払う。
「イヴリンはどうでもいい……問題なのはヴィクターか」
ヴァルガの持つ直感は、明らかにこの夜が尋常のものではないと理解していた。
それはヴィクターと一緒に街に繰り出そうとした時から感じていたものだ。
城から外に出た時、このカステリス全体に何かが張り巡らされているような感覚があったのだ。
(全くもって、面倒だ。とは言っても、あれでも弟弟子だからな)
イヴリンに弾き飛ばされた剣を探して拾い上げる。
そしてヴァルガは駆け出した。向かうのはヴィクターが消えたあの坂下。市場の目抜き通り。