イヴリン・グリムヴァル
迫りくる剣を前に、意識はクリアだった。
セシリアを追いたい。その感情が極限の集中……その最奥に至らせることを邪魔していた。
無駄な思考を捨て去り、イヴリンの剣から逃れることだけに意識を集中する。
今、完全に入った。
視界が狭まり、色は消え、ただ静寂の中に俺はいる。
時間が引き延ばされたかのような感覚。さらに思考が加速する。
この振りかぶられた剣が俺に到達するまでに、何ができる? そんな問いが、スローモーションの視界の中で浮かび上がる。
いや、違う。もう答えは出ている。
その解答をするために、体はすでに動き出していた。
思考と反射。その二つは完全に意見を一致させ、俺の体を寸分の齟齬もなく動作させる。
イヴリンはわざわざ俺を殺すために、その大きな剣を振りかぶるというミスを犯している。
無駄な大振りだ。ならその隙を突けばいい。
重心を体の前方に置くようにして前進する。これなら足腰の力を出せなくても、無理なく体を動かせる。
そしてこの動きは完全な直進ではなく、大剣の軌道に対して僅かな角度を付ける。この角度こそが、これからすることにとって重要だった。
加速した思考によって遅くなった世界がゆっくりと進み、ついに求めていたもの、それが見えた。
大剣の中心を通る鎬が、今、はっきりと分かる。
ここだ、ここを狙う!
大剣の振り下ろしに威力が完全に乗る直前。その瞬間こそが、この死地から逃れるための唯一の機会!
拳が緩い弧を描くように、天へ突き上げるようにして振り上げる。
完全に計算されたその軌道は、絶妙なタイミングで振り下ろされる大剣の鎬に叩きつけられた。
その瞬間、体幹を使って体重から発するできうる限りの運動エネルギーを拳へと伝達させる。
音は聞こえず感覚もない。ただ、確信だけがそこにあった。
「馬鹿……な」
信じられないものを見た。そんな意味を多分に含んだ声が俺の耳に届く。
イヴリンは俺を斬ることなく地面に叩きつけられた剣を呆然と見ていた。
極限の集中、その最奥はこれで打ち止めだ。この力だって万能じゃない。あまりにも深く入りすぎて、もう使えないという確信がある。
しかし今回はなんとかなった。俺はすぐに吹き飛ばされた剣を拾い上げる。
そしてイヴリンに攻撃を掛けようとするが、すでにそこには最大限の警戒を伴った戦士が存在していた。
「油断ならぬ相手とは聞いていたが……これが、そうか」
イヴリンの目は、俺を完全な脅威と認識していた。
ちっ、めんどくさい。油断してくれればいい物を。
つーか、あの呆然としている時が唯一の隙だったか。くそっ! 俺も俺で判断ミスかよ!
イヴリンの攻撃は、明らかに警戒を滲ませたものへと変化する。
そのおかげで剣撃の威力は明らかに下がっている。牽制やフェイントといった動きに切り替わったことで、俺も剣で受け止める余裕が生まれた。
これは朗報だった。剣を弾いた衝撃で拳に痛みがある。さっきまでの剛剣を、今、繰り出されるほうが圧倒的に不利になるからだ。
しかしだからと言って、俺の不利は変わらない。
もう、懐には飛び込めないだろうし、飛び込んでもあの『土壁』で防御されたら意味がない。
ならイヴリンを無視してセシリアを追うか? それもできない。イヴリンに対する依頼は俺の足止めだったのか、俺の目線が坂下へ向くたびに立ち位置を微妙に変えて向かわせないようにしている。
折角助かっても、状況は何も好転していない。万策尽きたとはこのことか!
そしてこの剣撃の応酬も長くは続かなかった。イヴリンが再度あの大振りの構えを取った。
それは明らかに何か大きな威力が伴うことを確信できるものだった。
「あの世で誇れ。この技を私に使わせたのだからな!」
イヴリンの声は冷徹な宣告のように響き、その瞬間、気配が変わった。
振り下ろされた剣は、まるで空気そのものを引き裂くかのように巨大な弧を描く。しかし、その刃は俺の目の前で空を切るだけ。
無駄な一撃。そう思ったことが俺の敗因だった。
「ぐわぁっ! ぐぅ……ちく、しょう……!」
空を斬ったはずの剣が、次の瞬間、爆発的な衝撃波を生み出す。目に見えぬ斬撃の余波が圧縮された空気の塊となって、俺の身体を吹き飛ばした。
息が詰まり、衝撃が筋肉という防壁を打ち破って、内部へ浸透するような感覚とともに地面に叩きつけられる。
剣を離さなかったのは唯一の幸運だったが、全身が痺れ、手足が言うことを聞かない。ただ地面に横たわるだけで、指一本動かすことさえ困難になっている。
魔法? いや、これはそれ以上のものだ。
人の身丈ほどもある大剣と、振り回される嵐のような剛剣。その二つに魔法の力を融合させ、空間そのものを斬撃の衝撃で満たす必殺剣。
それがこの技!
「運がいい。『破岩』の威力が思ったよりも出なかったのだからな。だが、結局は同じ。これでとどめだ」
イヴリンが再び剣を構える。その動きには、もはや余裕は感じられない。圧倒的な殺意だけが剣先に宿っていた。
さっきと同じ大振りの構え。しかし、これは舐めてるわけじゃない。確実に殺せると分かっているからだ。
ちっ、正解だよ畜生が!
剣が振り下ろされる。抵抗はできない。今度こそ終わりか?
駄目だ! 最後まで目を見開け! 前を見ろ! 意識が無くなるまであきらめるな!
そんな俺の無駄な抵抗を無視して、巨大な剣が迫ってくる。
目を開けながらも死を覚悟した、その瞬間。視界を遮るように誰かが俺の前に立ちふさがった。
鋭い金属音が夜空に響き渡る。イヴリンの大剣が、確かに誰かの剣によって受け止められたのだ。
助かった。でも、一体誰が!?
「リーナ! 大丈夫か! おい! ヴァルガ! そいつをなんとかしろ!」
「そりゃあ、こんな状況だ。なんとかするしかないけどよ……」
聞き慣れた声が耳に響く。その直後、動かぬ体が誰かに抱き起こされた。
そしてすぐにイヴリンから距離を取る。それをしたのは……ヴィクターだった。
なら、今イヴリンと対峙している男、それは。
「ヴィクター様と……ヴァルガ? どうしてここに?」
俺を焦ったように抱きかかえるヴィクターは理解できる。城の中の訓練場で寝泊まりしているんだから、ここからさほど離れていない。
でも、ヴァルガだって?
後ろ姿と声しか確認できないが、確かに俺と戦ったあのヴァルガのように見える。どういうことだ、これは?
「リーナが稽古を終わらせて帰ったあとにひょっこりやってきたんだ。また先生を頼ってきたようでな。なんでもルミナシアはキナ臭いからそっちで傭兵をするのは嫌なんだとよ。そうだよなぁ! ヴァルガぁ!」
「うるせーよ! こっちはこっちでめんどくさいんだ! とっとと逃げろよヴィクター!」
な、なんだ? これがヴァルガ? なんか戦った時とは雰囲気が違うぞ。
……だが、好都合だ! イヴリンの相手をヴァルガがしてくれるなら、俺はセシリアを追える! まだそれほど時間は経っていないはずだ!
「ヴィクター様! セシリアが攫われました! 俺はセシリアを追わなくてはなりません!」
「ああっ!? どういうことだ! ちっ、何か起こってるんだな! 分かった。セシリア嬢の場所は分かるか!?」
ヴィクターだけに任せるわけにはいかない。おそらく敵はあの力を使っている。
アリオン領を襲撃した黒いローブの男を思いだす。あの男の悪夢を見せるという力は、エリックには効いても俺には効きづらかった。
なら絶対に行かなくちゃならない。対抗できるのは俺だけかもしれないのだから!
身体は……動く! 一時的に痺れていただけだ!
「俺も行けます! ぐ、くぅぅぅ。付いて、来て、ください!」
「お、おい……ああ、分かった! 行くぞ!」
なんとか立ち上がり、セシリアが消えた坂道へ向かう。
イヴリンの目は、すでにヴァルガだけに向けられている。これなら、セシリアを追える!
「ヴァルガさん! あとはお願いします!」
それだけ言い残し、俺は坂道を駆け下りる。ヴィクターもすぐ後ろに続いてくる。
これなら、なんとかなるかもしれない。
セシリア! 今行くから、待ってろよ!
リーナ達が去った坂道の途上にある開けた場所で、二人の戦士が対峙していた。
イヴリン・グリムヴァルは両手剣を構え、鋭い目つきでヴァルガを見据えている。その鳶色の瞳には、長年の恨みと怒りが燃え上がっていた。
「ヴォルファング……お前たちには裏切られた。あの時の恨み、ここで晴らさせてもらう」
低く冷たい声が静寂を切り裂く。イヴリンの言葉は、剣と同じくらい鋭利だった。
ヴァルガは片手剣を軽く構えたまま、肩をすくめた。
「今の俺はヴォルファングじゃねーよ。それにお前の仕事は俺の相手じゃねぇだろ。俺と戦ってどうする?」
軽い口調で煽るように言うヴァルガ。しかし、イヴリンはその言葉を一切無視し、怒りのままに剣を振り下ろした。
その剣撃はリーナを相手にしていた時とは違い、その感情によって重圧が増しているかのようだった。
「構うものか!」
嵐のような剛剣が唸りを上げる。しかしヴァルガは片手剣で難なく受け流した。重い衝撃が剣を通じて腕に伝わるが、力の流れが完全に制御されている。
それ故に、ヴァルガの態勢が崩れることは決してなかった。
しかし、イヴリンの剣撃は止むことなく、怒りに任せた猛攻は徐々にこの場の空気そのものを支配していった。
ヴァルガはイヴリンの剛剣を軽やかに躱しながら、静かに声を上げた。
「イヴリン姉、こんなことはやめようぜ。あんなに仲良くしてたじゃないか」
その言葉に、イヴリンの動きが一瞬だけ止まった。
「……仲良く?」
その瞳に、一瞬だけ揺らぎが生まれる。しかしそれは儚い幻のように消え去り、その目は再び怒りの炎を宿した。
「ふざけるな! いまさら仲良くなどできるものか!」
怒りという感情だけがイヴリンを支配していた。むしろその感情に自ら飲まれるかのように、大剣を握る手に力が籠もる。彼女の鳶色の瞳が紅い光を放ち始める。
それを見たヴァルガは苦笑し、呟いた。
「あーあ、失敗したな」
そしてヴァルガから軽薄な雰囲気が一切消え去り、目がわずかに細まった。
その瞬間、口元には冷たい笑みが浮かび、イヴリンを見据える紫の瞳が、淡い光を宿して煌々と輝きだす。
「なら……殺す。悪く思うなよ」
高地人傭兵達の戦いは終わらない。
この戦いに金銭はなく名誉も伴わない。ただ、突如として出来上がった戦場と、戦士として誇り、そして積み重ねた憎しみが存在していた。
だからこそ、この二人の戦いは怒りと誇りが交差する、苛烈な死闘へと変わっていくのだ。




