その8
○登場人物
大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)
片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)
久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)
野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)
柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)
亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)
光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)
進展があったのは、それから三週間後だった。週刊誌の女性生活のトップ記事として、
不動産会社の不当なサービス料の水増し、それによる多額の収入の流れの違法性が取り
上げられていた。当然、一誌だけのスクープとなり、雑誌の売れ行きは前週までと比較
になるようなものではなかった。警察も動き出し、膿が出るのにそう時間は掛からない
だろう。
男はその日の夜、柴村忍と食事の待ち合わせをしていた。男の提供したネタが記事と
なり、大きな成功となった事で女性は御馳走したいと気を良くしていた。片柳彩子との
写真のネガも渡してもらえることになり、男は無論にそちらをメインとして約束を了承
する。
二十時過ぎ、男は待ち合わせ場所の居酒屋に到着する。とことん飲みたい気分だから、
という女性の意見でここに決まった。男が席に通されると、女性は既に一杯目を飲みだ
していた。どうやら、スクープを上げられた事に対して、相当心を持ち上げられている
ようだ。
「まぁ、今日は飲もうじゃないの」
女性のテンションの高さに、男も程よく着いていく。このまま気分をよくさせておき、
ネガさえ取り戻せば用は終わりだ。
女性はスクープによって周囲から多くの賞賛を得たようだ。ただ、本人的には自分が
撮ったもので勝ち取りたかったのが本音だったともぼやく。そんな喜びと羨みの話を男
は適当に聞いていく。
女性からネタの出元をまた問い質されたが、真実は避ける。社員の話が間接的に自分
のところまで伝わったと逃げておく。
女性の飲みのピッチは早かった。ビールに焼酎と実に親父くさく、アルコールを流し
込むように体に入れていく。しかし、その割に酔いの回りはさほどでもなかった。どう
やら、元々酒には強いようだ。頬は赤みがかり、目は細くなってきて、絡むような言葉
が多くなっているが、そこからが長かった。さっさと用事だけ済ませて帰りたい男から
したら、面倒な酔い方といえる。
結局、女性は三時間以上そこで飲み続け、タクシーで帰宅した頃には日を跨ぐ手前に
なっていた。女性は中々に酔っていたが、それでも一人で歩いていられる程度に正気は
保っている。男は自宅にあるというネガを貰うために着いていき、女性の部屋まで入っ
ていく。部屋の印象はいたって年相応なシンプルなものといえた。無理もしてないし、
無駄もない。
女性はリビングに荷物を置くと、台所で酔いを醒ますための水を飲む。そして、男に
ちょっと待っててと言い置き、玄関近くの部屋へ入っていく。一分ほどで女性は部屋か
ら出てきた。右手にはネガが持たれている。
「はい。どうせ廃棄するんだから、まんまでいいでしょ」
そう女性はネガを裸のままで男に渡す。ようやく手元にやってきた成果に男は安堵の
息をつく。
「確かに。それじゃあ、僕は失礼します」
踵を返し、玄関へ向かう。靴を履き、外へ出ようとドアのノブに手を掛けると後ろか
ら温もりが被さった。正気なのか、酔っているのか、女性は男の背中をしっかりと抱き
しめる。
「何の真似ですか」
酔いか否か、どちらにしろ強い態度で制すべきだとして男は低めの声を送る。ネガは
もうこちらの手にあるのだから、何も怯むことはない。
「もうちょっとここにいてよ」
さっきまでよりも小さい声で呟く。女性なりの甘えを出しているのだろうが、そんな
ことで男はたじろいだりしない。元より、今まで敵対に近い関係でいたのに急に真裏を
見せてくる方がおかしい。
「酔ってるみたいですね。もう休んだ方がいい」
腹の辺りにある女性の両腕を解き、ゆっくりと降ろす。
「僕は片柳彩子さんとの写真をあなたに撮られ、それと引き換えに違法性のある会社
のネタを提供した。互いの持つ情報を交換し、あなたは成功を得て、僕も自らを保った。
それで終わりです。これからは、また久留米雀の連載を通しての付き合いに戻るだけな
んです」
「戻らせないわよ、そんなの」
「あなたが何を言おうとそうなるんです。交換条件は成立したんだ」
そう諭し、男は余裕を保ちながら帰ろうとする。そこに、女性の不可解な言葉が突き
つけられる。
「それはあなたと片柳彩子さんとの写真でしょ」
男は言葉の奥に疑いを抱き、振り返る。女性は酔いを少し浮かべたままの状態で笑み
を零す。
「どういうことだ」
「さぁ、どういうことでしょう」
「とぼけるな。言いたいことがあるなら言え」
男の目は鋭くなっていく。状況が変化しそうな予感がこれでもかと襲ってくる。女性
は先程ネガを取りに行った部屋へと入り、今度は数枚の写真を手にして出てきた。はい、
とそれを男の方へ向けて差し出す。一目した瞬間に自らに覆い掛かる危機を判別するこ
とが出来た。
「どうして、これが・・・・・・」
男は崩れ落ちそうになるのをやっとの思いで堪える。女性が差し出してきたのは、男
の住むマンションへと入っていく久留米雀との写真だった。無論、その後に二人の行為
は行われている。
そんなこと有るはずがない。そう男は現実を否定する。男に受け入れられる許容範囲
をその写真は超えてしまっていたから。
「ダメじゃないの。あんなかわいい子がいるのに、こんな熟女にまで手を出しちゃう
なんて」
ねぇ、と女性は余裕たっぷりに言葉を投げる。形勢がどう傾いてるか、など一目瞭然
だった。
「それも、自分がマネージメントしてるタレントさんになんてねぇ。大田くんも中々
やり手だこと」
ククッと笑う女性の表情がいやに鼻についた。だが、それ以上に頭に蠢く疑問が多す
ぎる。
片柳彩子との写真が撮られてから三週間、久留米雀との行為の前後には最善の注意を
払ってきたつもりだ。余程の腕を持つ探偵のレベルでもない限り、隙を取られるような
事はない。一体、どうやって。
「いつ、これを」
正常を保とうとしているが、おそらく無理だろう。眼光も表情も気も震えてしまって
いるに違いない。
「これなら、あなたと片柳彩子さんとの写真を撮る前日のものよ」
まさか、と思った。まさか、片柳彩子との写真よりも前に撮られていたなんて思いも
しなかったから。男に不穏な気配を感じ、追っていった結果に女の子との現場が押さえ
られたものだと決め込んだ時にはもうこの写真は存在していたのだ。あの時にはすでに
尻尾を踏まれていたんだ。
それならば、どうして最初からこの写真を使ってこなかったんだ。何故、後から出て
きた女の子との写真を先に載せようとしたんだ。
「どうして、それを今まで隠してたんだ」
「そうね。それはそうよね。こんな絶好の写真を撮っといて使わないなんておかしい
もんねぇ」
男は絶壁に命綱も無しにしがみついてる感覚でいた。あと一つの衝撃でも加われば、
底にまで落とされる状態。
「簡単に言うと、慎重にいきたかったの。前にあなたに言ったことあるけど、あなた
の前にいた運転手と久留米さんの関係を怪しんでたのよ。証拠を掴んでやろうと思って
たけど、その前に運転手が辞めちゃって。その後にあなたが入ってきた時、なんとなく
似てるタイプだったからもしかしてと思ったわ。しかも、運転手からマネージャーにま
で出世しちゃって。疑ってる人間からしたら、怪しいったらないわ。そこで真剣に探っ
てみたら見事にこんな写真が撮れたってわけ」
強い言葉を繰り返し、女性は一つ一つと男の上手に立っていく。
「これを撮った時は嬉しかったわ。これだけのスクープは初めてだからね。だから、
もっと奥まで調べてみたくなったの。そもそも、あなたはどういう人間なのかってね。
仕事場だと二人は全くその関係性を出さなかったから、プライベートを探るしかない。
そう思って、あなたを着けてみたらいきなり片柳彩子さんとの写真が撮れちゃったの。
二日続けて私にスクープが舞い込んできたけど、片柳さんの方についてはあなたに写真
の存在がバレているから早くに処理する必要があった。だから、あっちを先に載せよう
としたのよ」
それも結果よかったのかもしれない、と女性は言い零す。
「片柳さんの写真と引き換えに、あなたは大きなネタを差し出してきた。どこで手に
入れてきたのかは分からないけど、私も記者としてあなたの提供するネタには興味あっ
たから乗ることにした。一つスクープが消えることになるのは悔しいけれど、もう一つ
私には武器があるんだからいいと納得したわ。第一、あなたは良い武器を持ってたのに
使ってしまったから、おそらくあれ以上のものはもう無いはず。余計な邪魔が入らず、
今回はスクープを載せることだけに専念できるわ」
男は完全に女性にやられてしまった。二つ目の爆弾があるとも思わず、目先の爆弾の
解除に回路を奪われていた。しかも、厄介なことに二つ目の方が一つ目より遥かにタチ
が悪い。
「それとも、まだ提供できるネタがあるのかしら」
そう言いながら、女性は男に寄り添ってくる。男にはそれを跳ね返すだけの術はなか
った。
「久留米さんがアリなら、当然私もアリよね」
女性は男に唇をつける。そのまま、女性に導かれるままに寝室へと向かい、ベッドで
行為におよんだ。
「一度、これだけ良い男を抱いてみたかったのよ」
男は抵抗を諦めた。形勢は女性に傾いている。返しようのない事実を突きつけられ、
為すべき反抗は見当たらない。せめて、この場で出来ることといったら、女性の気性を
少しでも和らげるように務めるだけ。そんな些細といえる思いだけで、男は女性と体で
繋がった。
柴村忍から逆転の一手を出され、男は心の芯が抜けたようになった。あの写真の掲載
を防ぐのは無理に近い、と判断したから。諦めたくはないが、再逆転をするだけの対象
もない。
「もし、またネタがあるようなら五日以内に言ってきてね」
朝、女性の部屋を後にする時に言われた言葉だ。五日は来週号の発売に間に合わせる
までの時間だろう。だが、男にはそれだけのネタは持ち合わせていない。女性もそうで
あることを見越して言っている。
光村沙耶なら多少のネタは握ってるだろうが、あの写真に勝るだけのものは持ってな
いだろう。女の口からも、それだけの話は聞いたことがない。
久留米雀に話すべきなのか。それでも、女に記事を揉み消すだけの力はないだろう。
女性の覚悟は決まっていた。あの写真を載せることにより、女の連載はなくなり、女と
女性との関係も消え去る。それは決心の上、記者生命にかけて仕事をやり切るつもりで
いる。
どうすればいいのか。何か方法はないのだろうか。男はただそればかりを頭に巡らせ
ていく。仕事や会話も表面上を繕うだけの形式的なことしか出来なかった。誰の助けを
借りはせず、三日三晩無いであろう一手を考える。考えつくし、無いことに行き着く。
その繰り返し、どん底から這い上がろうとしてはまた叩き付けられる。段々と心が病み
だしていくのが分かった。結果、男が出した答えはいつかの時に置いてきたはずの凶気
だった。
無論、そんなことをして生まれるリスクもある。何度か振り払おうとしては生まれて
くる、その連続。もうそれしかない、男は腹を括る覚悟をした。あんな記事のために、
これまでの計画を棒に振るわけにはいかない。あんな女性のために、俺が灰になるわけ
にはいかない。
男は携帯を手に取り、半年ぶりにその番号に連絡を入れる。こんなに短いインターバ
ルで電話をするのは久しぶりだろう。
「もしもし」
「もしもし。どうした」
野木晃彦の軽めの口調は重くなった男の心を幾分か持ち上げてくれた。青春期の声変
わりによって低くなっていく声音の変化は男性にはさほど表れなかった。それが良いの
か悪いのかはどうでもいい。
「半年ぶりか」
「あぁ、そんなになるかな。何かあったのか」
何かはあったが、それが何かは言いはしない。男性は男の過去を知っているが、未来
まで教える気はない。
「実は、また帰ろうと思ってるんだ」
「なんだ、帰ってくるのか。いやに早いな」
「あぁ。それで、一番最近の休日がいつか聞きたい」
「休日か。仕事の日でも全然時間なら開けられるけど」
半年前の時のように、男は二年から三年に一度のペースで故郷に帰っている。それに
比べると、今回のタイミングに男性が違和感を覚えるのは普通といえる。適当に流して
しまえばいいだけだが。
「いや、できれば一日空けてもらえるとありがたい」
「そうか。なら、明後日が休日になってるけど」
「空けられるか」
「まぁ、別に家族とどこ行くって話もないから大丈夫だと思う」
分かった、と男は口元を締める。それからは当日のスケジュールの話を詰めていき、
五分ほどで電話を切った。
一つ目の計画の段に昇り、気持ちばかりの充足感を得られた。久方ぶりといえる満足
だったので心はずいぶんと落ち着けられていく。緩んだ思いのまま、男は片柳彩子へと
電話を掛けた。
翌日は久留米雀の仕事がなく、男も休日となっていた。朝、目が覚めると並々ならぬ
圧迫感に苛まれる。今日為すべき行為を考えると、睡眠もぶつ切りのような一時ずつの
ものにしかならなかった。
その前に、男は片柳彩子と約束をしていた。会いたいと言うと、女の子は仕事が早め
に終わるからと十五時に待ち合わせをすることになった。この心が深く侵されてしまう
前に、普通に会っておきたくて。
待ち合わせ場所の渋谷に女の子は数分遅れで来た。ごめんなさいと謝られ、仕事なん
だから仕方ないよと宥めた。仕事終わりで多く提げていた荷物をトランクに入れ、車を
走らせていく。
「なんか、こんな明るい時から会うの久しぶりですね」
「あぁ、そうだね」
男が転職してから約半年、二人は夜にしか会っていない。男には久留米雀に蝕まれた
精神を癒やすため、女の子には週に一度ほどの待ち望んだ時間として。昼間に会ったの
は、男がタクシードライバーをしていた頃の乗客と運転手としての関係以来になる。今
日はいつもより長く一緒にいられる。そう思うと、自然に女の子は顔が綻んでいくのが
分かった。
その後は、映画を観て、アミューズメントパークでゲームをして、夕食を食べて、車
でドライブをした。映画は女の子が観たがっていたファンタジーものを選んだ。ヒット
シリーズ作だったので気兼ねなく楽しめるものだったが、男は心情的にそうもいかなか
った。アミューズメントパークではボウリングとバッティングセンターとメダルゲーム
をした。ボウリングでは前回と同じく三十ピンほどの差をつけて女の子が勝ち、バッテ
ィングセンターでは逆に空振りばかりの女の子を余所目にし、男は邪心を振り払うよう
に打ちまくる。夕食はパスタショップに行き、女の子は茄子とベーコンのトマトソース、
男は豚肉とキノコの醤油ソースを頼んだ。話が弾んだので、デザートでパンナコッタも
食べた。
夕食終わりに車に戻ろうと歩いていると、女の子がふと足を止める。ここ入っていい
ですかと言われ、ジュエリーショップに寄った。店内は光沢に満ちていて、輝いている。
これから自分の嵌る世界とは真逆の空間で、異世界に足を踏み入れた雰囲気にさえ駆ら
れた。その中で、女の子は目を輝かせながらケースの中にあるジュエリーを見ていく。
男は特に惹かれはせず、ただ女の子の後ろを着いていった。
「運転手さん、お願いしていいですか」
店内を一周し終わると、女の子が両手を合わせて希求してくる。ここでどんなお願い
をされるかは予想しえたが。
「何かな」
「安いやつでいいんで、お揃いの買ってくれませんか」
「お揃い」
「はい」
お揃いまでは予想していなかった。同じ物を身につけていたい、という願望なのだろ
うが。
「あんまりアクセサリーの類はしたことがないなぁ」
「ダメですか」
女の子は萎んだ瞳を見せる。それに眩んだわけじゃないが、眩んだフリをすることに
した。
「分かったよ。そこまで頼まれたら応えるしかないね」
「ホントですか」
女の子は表情が一気に晴れた。小さくガッツポーズをし、喜びに明ける。
ペアリングは女の子が選んだ三万円のシルバーのものを買った。車に戻ってからも、
梱包された提げ物を男は後部座席に置いたが、女の子は両手に抱えていた。
「大事にします、絶対」
「そう言ってくれるとプレゼントした甲斐があるよ」
女の子はふやけるように笑った。言葉だけの感情でないのはよく伝わってくる。実際、
前にプレゼントしたヒヨコのぬいぐるみも大切にしているようだ。女の子のブログにも
数回出てきてるのも見ている。
車を走らせ、ドライブをしながら向かったのは海景色の見える場所だった。男は決意
に揺らぎそうになると、こういったところを訪れる。夜景を眺めていると、心を奮わさ
れる。闇に浮かぶ光に己を重ね、葛藤の促進と沈静を同時に行う。左隣で女の子が綺麗
ですねと浸っているが、男にはもっと別の感情が増していっている。女の子の知らない
裏の感情が。
「運転手さん、これをはめてもらっていいですか」
そう女の子は先程購入した指輪の提げ物を見せてくる。
「あぁ、いいよ」
梱包を解き、中にある指輪を取り出すとゆっくり女の子の薬指に通した。初めて薬指
にはまった指輪を眺め、女の子は感慨深そうに微笑む。同じように、女の子は男の薬指
にも指輪を通した。男も女の子に似た反応を繕う。男には既に表面と裏側の思いが共存
しだしている。
「綺麗ですね」
女の子は自らの左手の薬指と男の左手の薬指を合わせ、互いの指輪を触れ合わせる。
その光沢を通し、先にある夜景を映す。とてもロマンチックな感情に浸れ、それは全く
恥ずかしいとは思わなかった。
横にある男の顔を覗く。男の顔もこちらへと向く。女の子の感情は確かになる。この
想いに間違いはない。そう決し、静かに目を閉じる。少しすると、唇に柔らかい感触が
被さってきた。薬指を絡めたまま、幸福に身を委ねていく。この時間がいつまでも続い
てくれれば、と思いながら。
帰りの車の中は無言の空間が続いた。車内に広がっている清福に浸っていたくて、意
図的にそうしていた。自宅まで送り届けると、女の子はおやすみなさいと満ち足りた表
情で車を後にしていく。男は女の子の姿がなくなるのを見届け、胸に手をあてる。車中
のありったけの正気を吸い込む。この体が悪魔に汚染されてしまわぬように。男は複雑
な心中を抱え、瞳を暴化させる。時は来た。
時間は二十三時になろうとしていた。車は柴村忍の自宅マンションの駐車場に停め、
誰の存在もないことを確かめながら女性の部屋へと向かう。予めに連絡は入れておいた
ので、インターホンを鳴らすと女性はすぐに反応した。部屋へ入っていく。意識は雑に
ならないよう、極力に保つ事を心掛けている。何か飲み物でもと聞かれたが、何もいら
ないと断った。
「さて、何か面白いネタでも見つかったのかな」
久留米雀とのスキャンダル記事に代わるネタなどない。掲載を防げる方法も見つから
なかった。女性もそうであろうと踏んだ上で話している。形成は完全に敗北に向けての
一直線を辿っていた。
話したい事がある、と男は女性に電話を入れていた。女性は男がきっと土下座まがい
の陳謝でもしてくるんじゃないかと予想していたが、男の決断はもっと別の道に行き着
いていた。女性の思考では辿り着かない場所にある結論に。男には、女性が見ているも
のよりも更に奥の感情が存在していたのだ。
「いえ、あの記事の掲載をなんとか無しにしてもらいないかと思って」
そう男は頭を下げる。最後の選択肢を女性に投げ掛けた。相手はそんな裏がある言葉
だとは思いもしないだろうが。
「無理に決まってるでしょ、そんなの。もう原稿も仕上がってるんだし。あなたと久
留米さんには悪いけれど、あとは明日になったら上に見せるだけよ。みんな驚くでしょ
うね。まさか、私が二週も連続でスクープを出してくるなんて思ってもいないでしょう
から」
女性の頭にはもう未来図が完成されている。この後の男の無念さを押し出した表情、
感嘆の声を上げる同僚たち、邪な感情で雑誌を見開く市民たち、自分へと舞い込む賞賛。
どれもが快感を与えてくれるに違いない。自分にこれから人生一の頂点期が訪れようと
しているのだ。
「ごめんなさいね。こっちも記者として、おいしいネタは載せなきゃいけないのよ」
「もう、こっちには何の手立てもないということか」
「まぁね。でも、あなたが一生私のモノになってくれるなら考えてもいいかも」
挑発的に女性は投げる。そんなこと、男がするはずがないと分かりながら意図的に。
一生をこの女性のためにフイにするなど有り得ない。こんな低等な関係を続けられなど
しない。こんなプラスのない、マイナスだけの関係なんて耐えられない。精神が持ちこ
たえられない。
男は歯を軋ませ、悔しがる。女性はそれを見て、思わず声を出して笑った。上位にい
る人間が下位にいる人間に対して浮かべる笑い、それが男の理性の幅を振り切る扉を開
錠させた。
瞬間で男は目を据わらせ、女性を睨みつける。女性はすぐにその異変に気づいたが、
時は遅い。男は女性へ歩み寄り、何度と思いきり蹴りつけた。ケースから革手袋を取り
出して着けると、女性の髪をグッと掴んで床へ叩きつける。息が荒くなってきた女性は
この場から逃げようとするが、すでに男の影は女性の体に被さっていた。恐る恐る後ろ
に顔を向けると、男はダイニングの椅子を上に振りかぶっている。
「やめて・・・・・・」
微かに搾り出した声は男の耳に入ることなく消えてしまう。男は椅子を女性の背中に
叩きつけ、部屋に木材の衝撃と人間の悲鳴が響く。椅子は雑に床に倒れ、女性はあまり
の苦痛に声にならない声をあげて転がる。男はケースからロープを取り出し、女性の視
界に入れる。女性は声を止め、涙を流し、言葉の代わりに首を横に振り続けた。どうか
止めてください、という命乞いとして。ただ、その思いは男の鬼気の制止に繋がること
はない。
「原因を作ったのはお前だ。責任を取るのもお前だ」
最後の抵抗で女性はなりふり構わず暴れ狂う。だが、立てないほどの痛みを負ってし
まっている女性の底力では大したものにはなれない。男は女性の顔や腹を殴りつけて戦
意を喪失させ、ロープを首に巻く。
「記者なんて人の恨みを買ってナンボだろ。恨むんなら、自分を恨むんだな」
ロープを引き、思いきり力を込める。女性も必死に抗うが、もはや無力でしかない。
反発する力が衰えていき、下にかかる重力が増していく。なおも、男は女性の息の根が
止まるまで腕の力を込め続けた。
抵抗する全ての感触が無くなると、男はロープを緩める。女性の体は崩れ落ち、男は
その場に尻餅をつく。息を切らしながら、女性に近づく。心臓と脈の動きを確かめる。
どちらも動いていなかった。自分はまた殺人を犯した。そう現実が全身へと行き渡り、
様々な感情にやられてしまいそうになる。
でも、男にはそればかりに浸っている時間はなかった。すぐに立ち上がり、各部屋の
捜査を始める。久留米雀との写真とネガを探し、男は家中を荒らしまくった。対象の物
は最初に目をつけていた、玄関側の部屋で見つかった。それらをケースに仕舞い、部屋
を後にする。誰にも見つからないように慎重に行動し、駐車場の車で外の世界へと脱出
した。
家に帰るまでは夢中だった。興奮状態が続いていたので、何も考えないようにと心掛
けた。
自宅マンションへ到着し、ベッドに倒れ込むとようやく成功を噛みしめる余裕に行き
着いた。口角からとめどなく溢れ出していく不適な笑みはいつまでも絶えることはなか
った。




