その7
○登場人物
大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)
片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)
久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)
野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)
柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)
亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)
光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)
賑わう渋谷の街の一角にある焼肉店。20時過ぎという時間柄、店内には会社帰りの
グループが多くいる。邪魔なほど会話は入り乱れてるのに、不思議とそれぞれが外部の
会話に鬱陶しさを感じていない。男も状態は同じだった。通常ならば周囲に幅を広げる
余裕を持っているが、今日の相手には隙を放るような真似は揚げ足を取られる御粗末な
行動といえた。
柴村忍から携帯に夕食の誘いが届いたのは昨日のことだった。久留米雀無しの二人で
の食事がいいと言われた時には、何か心に構えるものが必要なのかと懸念した。焼肉店
を選んだのは、単に三人の時には年長者に考慮して選択肢に入れてなかったからという
だけのこと。
対面席にいる女性には異様とも思える気が張られている。これまでに出会ってきた女
とは一味違う気、自信にも似た様はどこへ向けられたものなのだろうか。何の目的があ
って呼び出したのか、どんなカードを持っているのか、それによって出方の次第も変え
ていかなければならない。
メニューは一通りの肉の種類を一人前ずつ注文し、それを二人で分け合った。食事に
は何の変哲もなく、会話の内容も疑問が生じるようなものではない。ただ、このままで
すんなりと終わる気はしなかった。
「ねぇ、大田くんって久留米さんにヘッドハンティングされたんでしょ」
「まぁ、そんなようなところですかね」
「そりゃ、ヘッドハンティングするよね。こんぐらい良い男がいたら」
そう言い、女性は男を見つめる。男はそれを恥ずかしそうに制する。
「あぁ見えてね、久留米さんは格好いい男が好きなのよ。普段はクールに装ってるけ
れど、意外に普通なところもあったりするわけ。あなたの前に運転手やってた人も格好
よかったわ。結婚するからってことで辞めちゃったけどね」
そうか、前の運転手も同じようなタイプだったのか。もしや、そいつにも札束で体を
求めてたりしたのか。結婚を機に退職したというところからするに、可能性はあるかも
しれない。だとしたら、あの年齢で大したもんだ。買われる側も買われる側、と言える
だろうが。
「実のところだけど、私ちょっと怪しいかなって思ってたの」
「何が」
「久留米さんとその前の運転手」
その言葉は男に緊張をもたらす。やはり、この女性は物事の本質を突いている。抜群
の思考を持ち、自らの目指す場所へと進んでいる。その先に自分がいるのか、そう心に
宿る。
「そうなんですか」
「そうじゃないかな、って疑っただけ。何も確証はないわよ」
「どうして、そう疑ったんですか」
「なんとなく、その男の人が久留米さんの前だとそわそわする節があったの。厳しく
してて恐がってるのかなって思ったんだけど、ちょっと違うなって思って。怯えてるは
言いすぎかもしれないけど、普通とは表せない緊張感だった。久留米さんはいつも通り
にしていたんだけどね。職業柄、いろんな人を見てきてるから洞察力はそれなりに優れ
てるの」
おそらく、女性の推測は当たってるんだろうと思った。女性の目を見ていると、その
目の奥から放たれる力の強さを感じられる。洞察力が優れてるというのは決して自意識
過剰ではないだろう。同時に、気を引き締める必要もある。前の運転手のように、女性
に関係を察知されるような事があってはならない。せっかく築いてきたものが全て崩壊
してしまう。
「それで、あなたにはどうかなって思って」
女性の視線が芯を突いてくる。ここが主文、これこそが男に聞くべき目的の一文だと
強く。
「どう、と言いますと」
はぐらかし、僅かながらの時間を作る。無論、女性の言葉の真意ぐらい初めから分か
っている。この秒単位の間でしかるべき返答を用意するためのものだ。
「久留米さん、あなたに手を出してきたりしてない」
女性の言葉から一つ間を置く。急な反応は予め用意されたものだと窺われるかもしれ
ないから。考慮の間が過ぎると、男は不意に笑い出した。出来るかぎりの自然さを心掛
けて。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか。久留米さんが僕に、でしょ」
見当違い、そう思わせるように演技を続ける。記者だろうが何だろうが、ボロを出し
やしない。女性は男の笑い顔を見ている。自然な様を繕い、観察という奥の思いを携え
ながら。
「そうね、そりゃそうよね」
そう、女性も続くように笑い出す。男が逃げきった瞬間だった。表面上には映さない
裏側での攻防に耐え切った。
男は女性を交わせた安堵を得ていく。しかし、その男の裏側に見た疑問を女性は崩し
てはいなかった。この男は不安定な足場に気丈にしているのではないか、と記者の勘が
生まれていく。
「そう・・・・・・柴村さんが」
その週の暗夜、久留米雀との行為は行われた。行為自体には何の変化もなかったが、
男の心には靄があった。それを押し出すように、女の体を下半身で突いていく。年齢に
よるものか、女の体は反応に鈍さがあったが、今日に限ってはいくらでも突いてやれる
気があった。
行為が終わり、ベッドに横になると気を落ち着かせるための間となる。行為の長さは
ままに疲労に繋がり、正常を取り戻すまでには時間が必要になる。幾らかの時が過ぎ、
互いに息遣いが落ち着いてくると男は女に話を切り出した。柴村忍が二人の関係に勘を
働かせている、という話を。
男の話に、女は驚きを見せた。まさか、気の合う仕事仲間にそんなふうに思われてた
とは考えてもみなかったようだ。だが、相手も週刊誌の記者だ。油断を見せた人間の懐
に入る事は職業病といえどある。女性は女のそこへ入った。そこから取り出した疑問は
中々に引き甲斐のある対象といえた。
「どこまで真剣なのかは分かりませんが、何か事が起こってからでは遅くなります」
「事が起こる、って」
「週刊誌に掲載されるかもしれない、ということです」
女は頭内に男の言葉の想像を膨らませる。それを撥ね退けるように、軽い笑みを浮か
べた。
「そんなことはしないわ。仕事相手を売るような行為よ。いくら大きなネタとしても、
想像の範疇の情報を無理やり出したりはしないでしょ」
「だとは思います。ただ、もしもそれをしてしまったらという危惧として言ってるん
です」
女は言葉を止め、考える。今ある中での最善の策、それは一体何なんだろうかと窓外
の闇を見つめる。
男はここで女に話すまでに考え尽くした。確かに、女の言うように想像の壁を超える
ものではないと思う。少なくとも、現時点では。しかし、そこまで辿り着いてる人間が
いるのだから危機感を募らせておく必要はある。
「それは無いわ。そんな無謀なことはしないし、出世に目が眩むタイプでもないし、
スクープで一発当ててやろうって人でもないから。人間関係は割と大事にしてるらしい
から、私を裏切ってまで証拠もない記事を載せたりはしない。結婚したら退職する、と
言っていたし」
女は女性を信じたようだ。男自身、女の言葉は納得のいくものだと思う。あくまで、
載ってからでは遅いという、可能性の話ではある。ただ、そうまで考えさせられる不安
な心を起こすものがあの女性の目の奥にはあった。
翌日、男は光村沙耶と片柳彩子に会った。週に一度、久留米雀を抱いた翌日は女を車
で送り届け、そのまま前者のマンションへ行き、夜に後者と待ち合わせて会うのが通例
となっている。
女と行為を交わすのはなるべく翌日が休日の時にしてもらっている。共に夜を明かし、
その足で仕事場へ向かうのは気分を転換するのが難しいからという意見に女は了承して
くれた。仕事が詰まっていてどうしても翌日も撮影になってしまう時には、女の撮影中
に一時現場を離れる許可をもらっている。その間に前者のマンションへ行き、仕事終わ
りで後者と待ち合わせて会う。どこかしらで捻れた精神を戻さないと、己が屈折してい
っていつか滅んでしまう。そうならないために、前者の部屋での行為で体内を清浄させ、
後者と外で会うことで心内を清浄させる。その循環は男の中ではなくてはならないもの
となっていた。
光村沙耶は男の裏を疑うことなどなく身を捧げる。男の引き締まった肉体に抱かれる
ことが最上の喜びなのだとして声を上げていく。当然、女は男の肉体がその前に老体を
抱いて蝕まれてきたものだとは知らない。休日に恋人である自分の元へと朝から来てく
れる優しい人だと思い込んでいる。男がそんな行為に走ってるどころか、久留米雀の側
で働いていることも知りはしない。余計な勘の利かせはいらないし、いくら男を信じき
ってるとはいえ、普段から男と接することを仕事としているキャバ嬢の洞察力もあなが
ちに侮れない。
片柳彩子も男の裏を疑うことなどなく現実を楽しむ。男との多くはない時間を過ごす
ことに無邪気に喜びを感じていく。当然、女の子も男の心内がその前に老体を抱いて蝕
まれてきたものだとは知らない。週に一度か二度、こうして夕食を機にして会う、友人
でもなく恋人までいかない関係なのだと思い込んでいる。
正直、女の子は歯痒い思いを抑えている。毎回会うと、二人はその間に起こったこと
などを話題にして楽しい会話を続ける。それはそれでよく、その時間はとても大切にし
たいものだ。ただ、本当は進展を望んでるのも事実として胸の内に存在する。現状に不
満はないけれど、やっぱり恋人以上の関係になりたい。先日の男からのキスによって、
その思いはより強くなった。
男は自分のことをどう思っているんだろうか。自分と同じような想いを持ってくれて
いるんだろうか。それとも、妹のように思われたり、友人と思われたり、体の良い遊び
相手だと思われたりしているんだろうか。違う、そんなことはない。キスまでしてくれ
たんだ、そんなに遠い存在に位置付けられてはいないはずだ。かといって、適当に女性
をたぶらかすような人でもない。この人は誠実で優しい、他人の心を思いやれる男性な
んだ。
「ねぇ」
「あっ、ハイ」
男の呼びかけで、女の子は現実に引き戻された。男との事を考えてるうちに気が離れ
てしまっていたようだ。
「今の話、聞いてなかったかな」
「いえ、あの・・・・・・すいません」
なんとか空気を保とうと試みたが、観念した。下手な嘘をついても、掘り下げられた
りしたらすぐにバレてしまう。それなら、心は辛いにしても素直に謝った方がまだマシ
だろう。
「ごめん、つまらない話だったかな」
「違います、違います。私が聞いてなかっただけです」
それも聞こえは似たようなものだと気づき、女の子はまた自分を辛くさせる。息をつ
く様を見て、男はフッと笑みを見せる。
「そんな落ち込まないで。別に、怒ったわけじゃないんだから。悪いのは自分よがり
の話をした僕だ」
「・・・・・・でも」
男の優しさに心を摘ままれる。それに身を委ねたい思い、そんなに甘えていい関係だ
ろうかという思いも生まれる。
ちなみに、と男は話を続けた。
「何を考えてたの、さっき」
「えっ」
女の子は虚を突かれる。一分前の思考に帰る、とても男に直接に口にできる内容では
ない。
「あの、内緒で」
「なんだ、そう言われると知りたくなるな」
そう言うと、互いに笑い合う。今はこの関係でいい、と女の子は思った。関係の進展
を望むことより、告げることで関係が壊れてしまうことの方が今の自分には大きくなる
から。
食事が終わり、男は女の子を自宅へ送り届ける。ありがとうございましたと女の子が
夕食と家まで送ってくれた事へ感謝を告げると、また行こうと男が答える。通常通りの
会話、それで別れるはずだった。
だが次の瞬間、瞬く光が目に飛び込んできた。光は連射し、視界を奪う。光と同時に
音も聞こえ、それが何の音であるかは分かりえた。ただ、現状を理解するには至らなか
った。
光が止まり、視界が次第に復活してくる。しかし、夜も遅いので元々の視界が悪く、
周りを見渡してもうまく識別するのが難しい。だが、あるものを捉えると事態の悪化を
判断することは可能になった。
車の前に立っていたのは柴村忍だった。手にはカメラを携え、レンズはこちらを向い
ている。獲物を捕らえる真の瞳をしており、口角も上がっている。その要素を並べてい
くと、男は状況を理解することができた。隣を見ると、助手席の女の子は目を見開いて
いる。何が起こったのか、まだ判断できずにいるようだ。
女性はこちらへと歩いてきて、運転席の窓ガラスをコンコンと二回小突く。男が窓を
開くと、女性は成果をあげた満足感を表した表情でこちらを見遣る。現在の状況の良し
悪しがままに映し出されていた。
「こんばんは」
余裕のある感じを女性は醸し出している。上手と下手、どちらがどちらに嵌るのかは
一目瞭然だった。
「どういうことだ、これは」
構えた表情で男は訊く。もっときつく問い質してやりたいが、感情はここでは抑え込
める。
「さぁ、どういうことでしょうねぇ」
意図的に無駄な白を切る女性へ男は怒りを覚える。振り切れる状況だなんて思っちゃ
いないくせに。
「ふざけるな。どうして、あんたがここにいる」
「偶然通り掛かったのかな」
「偶然のわけがない」
周りにはマンションや住宅しかない。女性の自宅付近でもないのにたまたま通る場所
なんかじゃない。これは明らかに故意的なものだ。だとすれば、考えられる推測は限ら
れてくる。
「着けてきたな」
男の言葉に、女性はフフフと笑う。的中だった。
迂闊だった。まさか、ここに来るとは思いもしていなかったから。攻められるとする
なら久留米雀との関係だと気を張っていて、それ以外のところに重点など置いていなか
った。
男が言葉に窮していると、女性の方から開口する。
「あなたには何かあると思ってたのよ。何かを包み隠しているような雰囲気が感じら
れた。それが何かを知りたくて。追ってみて正解だったわ。こんな良い場面が撮れるな
んてね」
湧いてくる怒りを抑える男を余所目に、女性は助手席の女の子へどうもと軽い挨拶を
投げる。女の子はまだ目の前で起こった事実を把握できず、怒ったり、落ちたりもする
ことが出来ずにいる。男と女性の言葉のやり取りで知り合いなのは分かりえるが、実際
どんな関係性なのかは分からない。今はただ、こんがらがる頭内に飛び交う一つずつの
ピースを嵌めていくしかない。
「片柳彩子さんよね、初めまして」
男を挟んだ先の相手へ言葉を掛けるが、女の子は返答しなかった。正直、何が正しい
のかが探し当てられない。
「私、こういう者です」
女性は手を伸ばし、助手席の女の子へ名刺を差し出す。間にいた男は別に仲介したり
などしない。女の子は挨拶はしなかったが、この名刺は受け取った。この無理に現れた
人物の謎を解きたかったから。
名刺を見る。女性の名前は柴村忍、週刊誌の女性生活の記者。雑誌は知ってる、見た
ことはないけれど。よく書店やコンビニの入口の近めの棚に置かれている成人女性向け
の週刊誌の中の一つ、という印象ぐらいでしかない。その記者がどうしてこんなところ
にいるのか。運転席の男とどうして知り合いなのか。解消されない謎はまだまだ広がっ
ていく。
「驚いたわ。彼を追ってきたら、まさかあなたが出てくるなんて。彼とはどういった
関係かしら」
女性の直接的な言葉に、女の子は顔を少し伏せる。
「いい加減にしてくれないか。これはまったくのプライベートだぞ」
女の子の反応を見て、男が言葉を挟む。
「あら、嫌だわ。週刊誌の記者は有名人の裏側を撮るのも仕事じゃない。表側ばっか
載せてるだけなら、スポーツ新聞で充分だし」
女性は開き直っている。この状況において、この堂々さ加減は厄介者以外の何者でも
ない。
「有名人であるなら、こういうところには気を張ってないと。まして、売り出し中の
モデルなんて恰好のネタなんだから」
挑発ともとれる口調で女性は女の子へと放る。女の子は目を細め、悔しそうな表情を
浮かべていた。
「何がしたいんだ、君は一体」
「何って、とりあえず本に載せるに決まってるじゃない。こんなおいしいネタ、寝か
せたままにするわけないでしょ。まぁ、片柳さんにはあらためて事務所を通して報告が
いくと思うけど」
「何を言ってる。そんな勝手な真似、許されると思ってるのか」
「許すも許さないも、私は記者として当然の事をしたまでよ。撮るべき対象がそこに
あったから撮った。当たり前の流れよ。抗議したければすればいいわ。するだけ無駄で
しょうけど」
悔しいが、女性の言う通りだった。報道の自由がある以上、このレベルで抗議にでた
ところで結果は見えている。気の張りを弱くしていた男の負け、そう己を納得させるし
かない。
じゃあね、と女性は余裕の表情でその場を後にしていく。その後ろ姿を眺めながら、
男は展開のまずさを感じていく。本人と面と向かっている間は高揚していたものが冷め
てきて、次第に自身の感覚が取り戻される。
「・・・・・・運転手さん」
隣からの声で、女の子の存在を思い出した。眼前で起こった出来事に夢中になってし
まい、いつしか助手席に座る女の子のことに意識を向ける心のゆとりの余りさえ無くな
っていた。
「もう帰った方がいい」
柔に言ったが、本音は邪魔だから帰ってほしかった。心内のまとまりが利かないので、
早く一人になりたくて。
女の子は男の言葉を受けても帰らなかった。こんな事になったのに、このまま素直に
帰ってしまっていいのだろうか。そう思いながら、何も言うことなく、ただ隣で男の方
を向いている。
「ごめん、帰ってくれないか」
今度は言い捨てるように投げた。優しさのない視線を送りつけると、女の子はこちら
を固まったように見ていた。だんだんと子犬みたいに瞳を潤ませていくのも分かったが、
今は多少萎縮をさせても手の届く空間から離れてもらいたかった。
女の子は荷物を抱きかかえて、おやすみなさいと力のない声で呟く。車を出ていく姿
も、マンションへと入っていく姿も、視界に入った程度で特に目で追ってはいかない。
それどころではなかった。
男はハンドルに頭をぶつけ、自らの失敗に大きく息をつく。こんな事になるなんて。
細心の注意は払ってきたつもりだったのに、あんな女にしてやられるとは。不覚としか
言いようがない。
あの写真が世間に出回ってしまうのはまずい。久留米雀は他の誰とどんな関係を持と
うと構わないと言っているが、体裁はそうはいかない。今いる事務所における立場は一
気に低くなり、下手をすれば責任問題に発展する可能性だってある。どうにかしなけれ
ばいけない。
男はその足で光村沙耶の部屋を訪れた。女は仕事に出てる時間のため、ただの真っ暗
闇の部屋だった。電気も点けず、ベッドに身をあずけ、巻き返しのための作戦を頭内に
巡らせていく。
女は通常通りに朝に帰ってきた。どこそのみすぼらしい中年男性にアフターで送って
もらったりしたのだろうが、そんなことに一切の嫉妬はない。久留米雀から自分に対し
ての関係と似たようなものだ。こちらの思惑に添ってくれるのなら、あとは何をしよう
とも勝手にすればいい。
「どうしたの」
ベッドに寝そべっている男に驚いた様子で女は声を掛ける。頻繁にここに来ているが、
二日連続で来ることは割と少なかったから。
男は浅い眠りについていたところから起こされ、女の存在を視界に捉える。今の男の
助けになるのはここだった。
「なんか、会いたくなった」
夢うつつの状態で零した嘘はかえって真実味が増した。女は言葉をそのまま受け止め、
喜色に満ちていく。
「シャワーだけ浴びてきちゃうね」
そう言い置き、女は荷物を置いて浴室へ向かう。ちらりとだけ顔を見たが、はにかん
でいた。
風呂から出てくると、女はバスタオルだけを体に巻いてベッドに入ってくる。昨日と
同じ流れ、要は抱いて欲しいということだ。男は正直そんな気分ではなかったが、後の
ために女の気は乗せておきたいので望むようにした。二日続けての行為だったが、女は
昨日に劣らないほど強く感じていく。男はそれほどではなかったが、女の気を下げない
ために声を上げるようにして誤魔化した。やがて絶頂を迎えると、条件の責務を果たし
た感覚を得られた。
「この前に話してた、不動産会社の水増しがどうのってあっただろ」
男の胸に頬を擦る女の髪を梳きながら話を始める。何気ない会話の始まりという印象
を与えながら、本題に入っていく。
「うん。それが」
女は会話の内容に重みは見い出してない。男と密接していられる事の方が女にとって
重要なことだったから。男はそれを逆手に取り、話の内容を不自然と悟られないように
深みに沈めていく。
「あれ、結局どうなったのかなぁって思って」
いつぐらい前だかは忘れたが、それは女の口から零された。男でも名前を知っている
不動産会社の違法な水増しの話だ。難しい内容は女には分からなかったようだが、要は
アフターサービスとして徴収される手数料の一部がそうと疑われているらしい。ケアの
内容によって一部と二部に対象が分かれているが、実際は二部にあたるケアは手前文句
だけのもので活用される事はほぼ無いに等しく、消費者の安心を得るための厚みのある
宣伝としている。別法人として扱われ、経理も引き離されているので実体は謎が多いと
されている。
女がキャバクラで相手をした四十歳代の二人の会社員が酒に酔って、膿を出すように
吐き出した話だ。数年前から立ち上げられたもので、発足に係わったのは上層部の人間
がほとんどとされている。よって、下の人間たちの中では悪い話が立ち上がる。一部の
お偉いさん方がグルになって作り上げた資金の集めどころ、本当は名前だけで実体さえ
ない組織、溜まっていく一方の金は投資へあてている、などなど。女にはまるで引きの
ない話だったが、男には頭に留めておくだけの情報だった。そして、それを有効に活用
すべき時が来たのだ。
「あぁ。そういえば、三日前にまた同じ二人が来たよ。なんか、両方とも半分ぐらい
禿げてて幸薄くてさぁ。そんで、話してくる内容まで愚痴ばっかだから苛々してきちゃ
った」
そんなことはどうでもいい。
「えっとねぇ、絶対に違法だっていうのは言ってたかな。会社の中でも数人しか実体
は把握できないみたいで、調べようにもバレたらクビだから恐くて誰もやらないって。
実質的に仕切ってるのは副社長で、社長の弟さんみたい。溜まったお金は社長が個人的
に企業なんかに有利子で貸し付けてるらしいよ。まぁ、全部社内に出回ってる噂の段階
だけど」
「へぇ、そうなんだ」
興味半分を外に出し、頭の中では女の言葉を全てインプットしていく。それからは特
には喋らず、女の頭や肩や背中を撫でながら早く寝につくのを待った。しばらくして女
の寝息が聞こえると、男は入力した記憶をメモに書いていく。有力な情報を得られて、
男はようやく安息に浸れた。
男は二時間から三時間の仮眠を取り、光村沙耶の部屋を後にする。今日は久留米雀の
仕事が午後からだったので、午前中は自由がきいた。そのおかげで落ちていた気を元に
戻すことができ、仕事に差し支えずに済んだ。この日は情報番組の収録があり、いつも
のように女は軽快に言葉を走らせていく。昨日から今日にかけ、男にどんな受難が降り
かかっていたかなど知りもせず。まぁ、それでいいだろう。今回は女に報せが行くこと
もなく、事を潰してみせる。
「運転手さん、今は仕事中ですか。出来れば、昨日の事で話がしたいです。きっと、
私と運転手さんの間だけで留めておけないことだと思うから。仕事が終わったら、連絡
ください」
片柳彩子からのメールだった。同じようなメールが朝から何通か受信されていたが、
男は返信していない。余計ないざこざに彼女を巻き込むつもりはない。ただでさえ、柴
村忍と自分とのラインには関係ないのにあんな目に遭わせてしまったのだから。今回の
件に関しては、自分で決着をつける。だから、話し合いをする必要も、途中経過を報告
する必要もない。
仕事終わり、女を自宅まで届けると男は携帯を手に取る。連絡先は片柳彩子ではなく
柴村忍だ。
「はい、もしもし」
その電話口の声に昨日までとは明らかに違う感情が湧いてくる。当然、女性の声自体
に変化はない。
「大田です。分かりますか」
「分かるわよ。どうしたの」
どうしたの、じゃない。あんな姑息な真似までしておいて、よくもまぁ平然を貫ける
もんだ。
「今、どこにいますか」
「会社よ。明日までに記事を仕上げないとなんないから、今日中に大まかに一通りは
書いておきたいの」
「それって・・・・・・」
「そうよ。昨日のあなたと隣のかわいいお嬢さんの事。驚くでしょうねぇ、この記事
が出回ったら」
ダメだ。完全に芸能のスキャンダルに溺れた二流記者と化してしまっている。正面か
ら願いを言っても、目先の勲章に眩んだ耳には聞こえやしないだろう。強行的に捩じ伏
せるしかない。
「その記事を出すの、ちょっと待ってもらえませんか」
男の言葉に、電話越しに女性の微笑が聞こえた。
「ねぇ、そのちょっと待ってもらえませんかで待ってもらえると思う。そんな甘いも
んじゃないでしょ」
女性からの言葉は上から投げられてくる。男との優劣は女性の中で結構な差となって
いるのだろう。
「もちろん、何の条件も無しにとは言いません」
「何。何か、面白いことでもしてくれるの」
「今から少し時間を取れませんか」
「今からねぇ。まぁいいわ、話ぐらいなら聞いてあげるわよ」
電話を切ると、車を走らせ始める。明日には記事を仕上げるということは機会は今日
しかない。確実な結果を求めなければならない。あんなネタ、市場になんか出してたま
るか。
待ち合わせ場所は女性の勤める会社の近くにあるファミレスにした。男が着いた時に
はもう女性は席に座ってアイスティーを飲んでいた。男の姿を確かめると、女性は呑気
にもこちらに手を振ってくる。男は女性の対面の席に座り、ホットコーヒーをオーダー
した。
二十二時になろうとしていたが、店内にはまだ数組の客がいた。ただ、今は他の人間
に思考を向ける隙間はないに等しい。
「聞きましょうかしら。その面白い条件ってやつ」
女性が開口すると、男はスーツの内ポケットから資料を取り出す。資料といっても、
今朝に書き込んだメモ帳だ。
「これは何」
「ある不動産会社の不当な手数料の水増しに関するメモだ」
女性の目の色が変わる。テーブルに置かれたメモ帳の内容に目を通していくと、確か
に男の言葉の通りのことが書かれている。
「信用できる情報なの、これ」
「おそらく」
「証拠は」
「具体的なものはない。ただ、これはそこの社員の口から出たものだ。信用はできる
に違いない。詳しく調べれば、きっと汚いものが出てくるはずだ」
男の言葉を耳にしながら、女はメモ帳を何度と眺める。一端の記者であるなら、魅力
のあるネタのはずだ。売り出し中といえど知名度は若い世代ぐらいにしか通じていない
モデルのスキャンダルに比べれば、どちらを取ることがいいのかは説明するまでもない
だろう。
「なるほどね。これと昨日のネタを取り引きしようってことか」
「どちらを取るかは君次第だ。まぁ、考える必要はないと思うけど」
男は自信に満ちた演技を続ける。本当は光村沙耶から伝えられた間接的なネタでしか
ないが、自らの功名によるものである印象を植えつけていく。
「こんな情報、どっから手に入れたのよ」
「さぁ、どっからだったかな」
見え見えの白を切る。まさか、疑いを持たれてる久留米雀、確信を撮られた片柳彩子、
それ以外にキャバ嬢の女がいるとは言えやしない。
「あなた、ただのマネージャーじゃないわね」
「何を言いますか。僕は久留米雀の単なる現場マネージャーにすぎませんよ」
男が口角を上げると、女性は真顔のままで笑みを零す。女性にしたら、してやられた
という感覚が強かった。記者としては、男が提供してきたネタを選ぶのが正しいに決ま
っている。ただ、女性としては自分自身で掴んだネタに愛着もある。それが単なる素人
の持ってきたネタにあっさりと逆転されてしまったのだ。心中が揺れるのは仕方のない
ところだった。
「分かったわ。これをキチンと調べさせてもらう。もし本当なら、ありがたく使わせ
てもらうわ。その代わり、ガセネタと判明したら昨日のを記事にする。それで文句ない
わね」
「あぁ。ただし、事実なら昨日の写真はネガごとこちらが貰う」
「いいわよ。それで交渉成立ね」
互いに不本意な破片は持ちながら契約は結ばれた。女性は記事をやり直さないとなら
ないからと店を後にしていく。掲載を未然に防ぐことができ、男は背凭れに寄り掛かり
息をついた。
「運転手さん、何回も連絡したんですよ」
電話口の片柳彩子は安堵と不満の混ざった口調になっていた。今日一日で様々な事が
あり、連絡をするのがずいぶん遅れてしまった。
「ごめん。今日は忙しかったんだ」
女の子へと伝えるのは全てが終わってから事後報告にしようと思っていた。いらない
心配はなるべく少なくなるように。
「でも、よかったです」
「んっ」
「全然返信が来なかったから。もしかして、避けられてるのかと思って」
女の子は女の子で、今日一日を様々な思いで過ごしていた。あんな写真を撮られてし
まい、どうしようと。事務所やスタッフに迷惑を掛け、怒られるかもしれない。ファン
に落胆を与え、離れられてしまうかもしれない。マスコミから攻められ、心が折れてし
まうかもしれない。そうマイナス要素ばかりを考えると、どうしても気分は落ちていく
ばかりだった。
だから、男の声が聞きたかった。話し合う必要があることはもちろんだが、何よりも
男から直接前向きな言葉の一つでも掛けてもらえたら胸の内の不安心が和らぐと思った
から。
「そんなことはしないさ。本当に忙しかっただけだから」
「そう。なら、安心しました」
女の子は一つ心を落ち着ける。そして、また引き締めなおす。
「それで、昨日の事なんですけど」
「あぁ、その事ならもういいんだ」
「えっ」
女の子は当然に驚く。この人は何でそんな楽観的な言葉を出しているんだ、と多少に
気が抜けてしまいそうになるくらい。
「昨日の事について、さっき柴村さんと話をしてきたんだ。なんとか掲載は無しには
出来ないか、って。そしたら、実は向こうもそれについて考えてたところだったらしい
んだ」
「どうしてですか」
「写真がね、うまく撮れてなかったみたいなんだ。昨日、帽子を被ってただろ。その
帽子の鍔のせいで、顔の鼻の辺りまでがうまいこと隠れてたんだ。彼女は上から撮って
たし、君は伏し目がちになっていたから」
女の子は昨夜の自分を思い起こす。あの時、女性からいきなり写真を撮られた時の。
確かに、帽子は被っていた。ただ、そんなに伏し目がちになっていただろうか。でも、
写真がそうなっているならそうなのだろう。急な展開で、記憶も曖昧になってるのかも
しれない。
「柴村さんもそこに迷っていたんだ。無理やりにでも掲載に持ち込むことも可能では
あるけど、正直そんなに望ましくはない。やっぱり、記者魂としては明確な記事を載せ
たいだろうから」
女の子の心はハラハラしていく。結果どうなったのか、男の言葉を喉から手が出るほ
ど待ち望む。
「これは千載一遇の好機だと思った。こんな偶然のような展開、逃しちゃいけない。
だから、とにかく頼み込んだんだ。そうしたら、向こうも最後は折れてくれて。元々、
彼女とは知り合いだから、しょうがないなって感じで掲載は取り下げてくれた」
「本当ですか」
「あぁ、代わりに高級フランス料理を奢る約束をさせられたけどね」
男が笑うと、女の子はよかったぁと大きく気を抜いた。昨日から張り続けていたもの
がようやく剥がれてくれた心の軽量感に委ねていく。
無論、男の言葉の大部分は嘘だ。女性から昨夜の写真を見せられたが、女の子の顔は
はっきりと写っている。それに、頼み込んだとしても女性の性格ならば無理にも掲載へ
踏み込んでいたかもしれない。それ以上の見返りがなければ、取り止めになどしないだ
ろう。言うまでもなく、高級フランス料理など奢りはしない。こちらも見返りのない事
はしない。
「ホント、どうしようかと思ってたんですよぉ。昨日とか、全然寝れなくて」
女の子は心の底から気を和らげていく。
「そんなに俺と載るのが嫌だった、とか」
「違いますってば」
「分かってるよ。いろいろあるからね、売り出し中のモデルは」
「運転手さぁん」
ごめんごめん、と電話越しに謝る。
「これで疲れも取れただろう。今日はぐっすり休むといいよ」
「はい、運転手さんもね」
とにかくよかった。これで、あとは不動産会社のネタが真実であれば万事がまとまる。
おそらく、問題はないだろう。




