その6
○登場人物
大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)
片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)
久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)
野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)
柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)
亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)
光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)
久留米雀との夜を重ねるたび、男は感情が薄くなっていくのを感じた。元々少ない情
をさらに絞り取られ、不自然な人間を再構築していく。外見にはバレないようにしたが、
身体の内側は病み始めていた。自分の中にある悪の部分が牙を剥き、正の部分を脅かす
ような不安が流れてくる。このまま、俺は獣と化していくんじゃないか。そんな考えも
頭を過ぎていった。
女には、今の自分がどう映っているのだろうか。愛玩の男性、そんなふうにでも捉え
られてるのだろうか。おそらく、それはないだろう。女はそういったタイプではない。
もう還暦を超えた女性だ。愛欲に溺れるような事はしないだろう。実際、普段の女の男
に対する接し方にも全く変化は見られない。出会った頃の、冷静で知的な女性の印象の
ままだ。
女は自分次第でどうとでも男を操れる。強制的に縛りつけた都合のいい玩具、とでも
言ったところか。切ろうと思えば、女はいつでもこの関係を切れる。ただ、男はそれは
困る。愛はない、それを互いも知っている。強くもなく厚くもない線を男は自力で繋ぎ
留めなければならない。女の引っ張る首輪を外さないよう、ギリギリのところで戦いを
続けなければならない。なにも、毎回の十万円から二十万円の報酬が欲しいだけで心を
投げてるわけじゃない。そんなレベルの金が欲しいのなら、タクシードライバーの仕事
を続けていればいい。男の狙いはもっと大きなものだ。これだけ苦しんででも手に入れ
たいもの。
「ちょっと仕事の話をしてもいいかしら」
女の仕事終わりの車中、いつもと変わらぬ重みのある声。女性マネージャーはすでに
送り届け、車には二人しかいない。
「はい、何でしょう」
男の声にも変わりはない。二人きりになったからといって、急に応対が変化すること
はない。男がこの仕事に転職してから四ヶ月が経とうとしているが、根本的な関係の変
化はなかった。
「実はね、あなたにマネージャーになってもらいたいと思ってるの」
「マネージャー、ですか」
「えぇ。最近、現場もいろいろ見てきてるから、そろそろかなと思って。あなたには
演者側になってもらえればと最初は思ってたけど、どうやら気は向かないみたいだから
マネージャーにと思って」
確かに、女と関係を持ち出した頃から、転職当初に言っていたように女の仕事現場へ
連れていかれる事が増えた。都合の合う日だけでいいと言われたが、男には取り留めて
やらなければならない都合などないので毎日に近いペースで足を運んだ。
女の仕事場は、大きく女優とコメンテーターに分かれる。それ以外の、バラエティや
旅番組などにはほとんど係わりはない。女優の仕事は時代劇と二時間ドラマが多く、稀
に連続ドラマにも出ているらしい。コメンテーターの仕事は朝の生放送が一本、収録の
情報番組が一本ある。基本は女優の仕事が占めているため、スケジュールは不規則な事
が当然となっている。仕事で埋まってる週もあれば、ぽっかりと空く週もある。朝早く
から夜中までの日もあれば、昼過ぎには終わる日もある。
女の仕事態度は健全そのものだった。周囲への気配りは忘れないため、信望も厚い。
あれだけキャリアを積んでいる大物が気を遣えば、女を見る目も変わるだろう。しかし、
時には厳しい意見も言う。女優の現場では自らの演技論を作品と照らし合わせ、それを
信念として突き進む。コメンテーターの現場でも、社会の矛盾に対しては鋭く切れ込ん
でいく。近くでその様子を見ていると、女がこの入れ替わりの激しい世界で生き残って
いる理由が分かる。
「マネージャーっていっても、僕にそんな大役が務まるんでしょうか」
「大丈夫よ、心配しなくても。新人の役者じゃないんだから、売り込みなんてしなく
ていいんだし。私の仕事の管理と、あとは挨拶だけちゃんとやっておいてくれればいい
のよ」
マネージャーという選択は予想外だった。演者側になるつもりは元よりなかったが、
その選択肢は可能性の外れにしかないものだった。
「でも、菊月さんはどうするんですか」
菊月はさっきまでこの車に乗っていた今のマネージャーだ。
「彼女は事務所の仕事に移るの。所属タレントの統括的なポジションになるわ。それ
で、あなたにマネージャーになってもらいたいのよ。実はね、会社の人達には最初から
あなたは私のマネージャーにする予定だからって言ってたの。その頃から菊月には昇格
の話が出てきてたから、あなたをマネージャーの候補として会社の人間には推していた
のよ。だって、さすがに見ず知らずの人間をいきなり運転手で月給五十万円で雇うのは
難しいから」
押しつけに近い言葉だった。初めからマネージャーになるものとして雇ったのなら、
男がそれを拒否するのはクビに等しい事だろう。それを言われれば、男も引き受けざる
を得ない。なるほど、女も裏で考えて動いてるということか。
「分かりました。そういうことなら頑張ってみます。不自由な点も多いと思うので、
いろいろご指導の方をお願いします」
「えぇ、キチンとサポートはするから」
もしかしたら、女は頭からこの展開を描いていたのだろうか。菊月が事務所の業務に
移動する事を知っていたから、男を引き抜いた。男を側に置いておくために。女性が側
にいなくなれば、監視のない二人きりの状況が用意される。それなら、ずいぶん巧妙な
遣り口を考えている。
その夜も、男は自宅で女を抱いた。当初と比べ、男の生気は弱まり、女の生気は強ま
っている。女が男の若い気を食い、呪縛に押し込めようとしている感覚が起こる。この
まま全てを女の意のままに食われてしまうんじゃないか、と危機感も生まれてしまう。
心が腐っていく様を感じながら、男は懸命に戦っていた。目の前の行為に耐えていけば、
いつか望むべき道が開けると信じて。
行為が終わり、男と女は仰向けに寝ている。何の飾りもない天井を眺め、身体の中で
当て所のない自分探しを続けていく。俺は、俺はどこにいるんだ。女と体を重ねる度に
自分が遠くなっていってる気がする。いずれ、自分で自分の居場所も分からなくなって
しまうんじゃないだろうかとも思った。女は男の隣でただ物思いに耽っている。老いた
体にあれだけの刺激を与えてるのだから、そうそう眠りになんかつけない。腕枕なんか
したりはしない。間違っても、この関係に恋人が割り込んできたりしない。あくまでも
割り切った関係、ただそれだけの事。女が隣で何を考えているかは知らない。特に興味
もない。男には、自分を保つ事が精一杯だった。自分が大田恵一としてある事、それが
唯一に近い現状への反撃のように思えた。玩具でもない、逃亡者でもない、今ここに俺
はいる。
「この家はあなたにあげるわ」
そう言いながら、女は男の腕に触れる。
「あなたが今の関係を続けてくれるなら、この家だけじゃなくて私の遺産はあなたに
いくようにしてあげる」
「えっ」
驚いたように繕う。本心は、男が待ち望んでいた言葉だった。
「本当は、最終的にあなたを事務所の代表取締役になるようにしてあげようかと思っ
たの。ただ、それだと周りの目もあるし、なによりあの会社は私がいなくなったら未来
は高が知れてるわ。だったら、他人の事なんて気にしなくてもいい褒美をあなたに与え
ようと思ったの。あいにく、私は両親も他界してるし、兄弟も姉妹もいないわ。まぁ、
親戚ぐらいはいるけど、大した交流もない程度の関係だから文句は言わせない。だって、
私のお金を私がどうしようと勝手でしょ」
思わず、息を飲む。歯をグッと噛み、目を開く。その言葉を・・・・・・その言葉を
待っていたんだ。
「遺産っていっても、どのぐらいあるのかなんて分からないんだけど、一生暮らしに
困らないだけはあるはずだから。ちゃんとあなたの手元に渡るように書にも残しておく
から安心して」
「そんな・・・・・・でも」
言葉だけの遠慮を言い置く。断る気なんて更々にない。一応の配慮、ただそれだけの
こと。
「いいのよ。あなたはこれまでと同じように私の側にいてくれれば。それで私は満足
だから。なにも、恋人になってくれだの、結婚してくれだのなんて言い出したりはしな
いわ」
男は笑みが零れてくるのを我慢しながら、心を躍らせる。願ってた展開が舞い込んで
きたのだ。
翌朝、久留米雀を自宅へ送り届けると、男は光村沙耶の部屋へ行った。今日は休日に
なったため、時間はたっぷりとある。案の定、女は眠ってる時間だったが、男の来訪に
目を覚ます。そして、お決まりのように男と抱き合い、服を脱ぎ、股を開く。絶頂へと
達すると女は可愛げのある顔を見せる。甘える事のない久留米雀、甘えたい思いを隠す
片柳彩子と違い、女は素直に感情を出してくる。男に恋情を抱き、それを注ぐように。
その逆がないとは思わずに。
「今日はなんだか穏やかだね」
行為が終わり、男の腕枕に収まりながら女は言う。その下の方では、抱き枕のように
して男の体を両足で挟んでいた。
「そう。別にそんなことないけど」
はぐらかしたが、男には女の言葉を理解できた。最近は精神の不安定に蝕まれ、正常
を保とうとしていたが幾らかは相手に伝わるものがあったのだろう。だが、今日に限っ
てはそれは大きく違った。今日の男の心は強く満たされている。正直、こんなに気持ち
が浮いたのはずいぶん久しぶりに思える。それもまた、幾らかは女には伝わっているよ
うだ。
「なんかさ、ここ最近疲れてるみたいだったから」
「あぁ。多分新しい仕事になったから、今までとは違うところを使わないとならなく
て変に疲れちゃってたのかもしれない」
もう大丈夫だよと女のおでこに唇をつけると、よかったと女は男の口に何度か唇を合
わせた。
「そうだ。とっておきの面白い話があるの」
そう切り出し、女は男の肌に触れながら話を始める。女の話は勤めているキャバクラ
に来る客についてだった。女はよく客に関する話を男に聞かせる。女自身が話したいと
いうこともあるが、男の方もそれは興味のある内容だった。女がナンバーツーとして在
籍する店はそこそこ名の通った有名店なため、財界人やら芸能人やら暴力団員も出入り
しているらしく、そこで繰り出される会話は面白味のあるものばかりだ。女を気に入り、
毎度指名する客からは特に門外不出とされるような話も聞けるらしい。男がそれを聞き
たいと促すと、絶対他言しないようにという条件付きで女は話してくれる。それを頭に
留めておき、女の目が向いてない時に男はメモに記しておく。こんな貴重な情報、ただ
の興味本位の会話で終わらせるはずがない。武器としての情報として、懐に隠しておく。
どこで使えるものかは分からないが、いつか身を守るために使える武器になるかもしれ
ない。
男はなにも愛してないだけの女とただ時間を共に過ごしているわけじゃない。一等地
の部屋、優雅な暮らし、そして様々な分野の情報源。女の付加価値に対し、側に置いて
おくべき人間と判断して関係を持っている。仕事や美貌など、選り好みはしない。男の
求めてるものはそれじゃない。
光村沙耶の部屋で夕方まで眠りにつき、キャバクラの仕事に出掛ける時に男も一緒に
外へ出た。次の予定まで少し時間があったので、コーヒーストアに寄ってアイスティー
を飲みながらコンビニで購入した新聞に目を通していく。その中で、夕刊に目を引く記
事があったので、捨てずに店を出た。
十九時、大通りに面したちゃんこ料理店に時間通りに到着すると、店員に通された個
室には片柳彩子がすでにいた。待たせたみたいだねと言うと、全然ですと女の子は首を
振る。今日はモデルを務めてる雑誌で担当してる連載の仕事だったらしく、夕暮れには
終わらせられたようだ。
「今日はね、新宿から原宿までを明治神宮周りを中心に歩いてたんです」
女の子のやっている連載は、東京とその近郊の中から毎回一箇所にスポットを当て、
その周辺を名所から路地裏まで回るというものらしい。女の子自身がカメラで撮った写
真や、その様子をカメラマンが撮った写真を掲載し、レポーター感覚の文章を載せたも
のを合わせて完成するそうだ。
女の子は今日回ってきた経路についての話を男に聞かせたが、男にとってはタクシー
ドライバーの頃に幾度となく走ってきた場所だったため、大概の部分は初耳というフリ
をして聞いてあげることとなった。路地裏にこんな店があった、こんなかわいい動物が
いただの、初めて耳にする内容もあったが、正直どうでもいいものばかりでしかない。
それなのに、女の子はいたく楽しそうに話していく。無邪気という言葉がよく似合う。
それは男が大部分を欠いてきた感情だった。
女の子の話が途切れた頃には、二人を挟むテーブルの上に置かれた鍋が煮立ちだして
いた。鍋は肉や魚介や野菜などが入った味噌味で、女の子の希望でここに予約を入れた。
以前に仕事の打ち上げで利用した店のようで、それ以来この鍋が好物になったらしい。
男と女の子が待ち合わせをするのは食事処が多く、夕食を交えながら話をし、車で自宅
まで送り届けるというのが大体の流れになっている。店選びは女の子の食べたいものを
聞いてからリストアップする事もあるが、今日のように初めから店自体を選んでくる事
もある。
「これ、さっき発見したんだ」
鍋が出来上がり、食べ始めると男はさっき取っておいた夕刊を差し出す。記事の中に
あった特集に女の子が載っていたのだ。といっても、女の子が何かをしたわけじゃなく、
単にエンターテイメント的に日常を日記調に書いたものだった。
「あぁ。私、まだ見てないんですよ」
そう言って、女の子は夕刊を手に取って読み出す。黙読だが、鼻歌を鳴らしてるのに
本人は気づいてるだろうか。
「ありがとうございます。よく見つけましたね」
女の子から新聞をはいと返される。その特集は毎月交代で新進気鋭の著名人が日常を
文章にするというもので、今月は片柳彩子が担当している。内容について特に決まりは
なく、本人の現在の心持ちや環境からプライベートや仕事についてなど題材は様々でい
いらしい。
「ホントにたまたま買った新聞に載ってたんだ」
「マジですか。ちょっと運命あるかも」
男の顔を見ながら女の子は笑った。その反応に、男も自然と笑みを見せる。なぜか、
女の子といると男は心が安らぐ。また、その感情に素直に甘えを出す自分もいる。ただ、
その二人をどこかから客観的に観察する自分もいる。緩めはするが、隙は見せやしない。
下手になるような事はしない。
その後、鍋を食べ終えるまで話は弾んだ。昨夜の件で男は上機嫌だったため、笑顔も
絶えない。そんな男の様子を目にし、女の子も気分がよかった。男がそうであるように、
女の子もまた男の存在に活力を注がれていたから。
店を出てからも浮いた心持ちは続き、二人でゲームセンターとボウリングへ行った。
ゲームセンターに入るのは数年ぶりだ。対戦型の機種で対決したが、両方とも初心者も
同然の腕前だったので他人に見せられるようなレベルじゃない。訳も分からずに機械を
操り、知らぬ間に勝敗がつき、その意味の無さに面白くなる。クレーンゲームにも挑戦
したが、経験は無いに等しかったので三千円を使ってヒヨコのぬいぐるみを落とすのが
精一杯だった。それでも、女の子は大切にしますと貰っていた。ボウリングも前の職場
で飲み会があると、二次会でたまに行くぐらいだった。女の子はよく友人や仕事仲間と
やるそうで、中々いい腕をしている。男は百二十二、女の子は百五十八というスコアで
勝負はつく。男は以前の仕事場の中では優秀な方だったが、簡単に鼻を折られた。それ
はそうだろう。男と試合をするのは体力が下降線を辿る熟年者、女の子と試合をするの
は体力の衰えなんて知ることもない若者。張り合っている場所が元から違っているのだ
から。罰ゲームありきで始めたので、勝者は敗者への命令権が与えられる。何でもいい
から私が喜ぶことをしてください、と女の子は告げた。
車で女の子を自宅へ送り届ける頃には二十三時になろうとしていた。車内でも会話は
弾み、時間は実際よりも早く流れている錯覚に陥る。男は自らの立場をわきまえつつ、
この瞬間の楽時にも浸かっていた。
「今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」
「いや、こっちこそ。ありがとう」
失礼します、と女の子は荷物を手に取る。助手席の扉を開けて外へ出ようとする女の
子の肩を掴み、振り向いたところに男は唇を合わせた。微妙に男は唇の位置をずらした
りしたが、女の子は固まったようにそこにいる。目は開いていたが焦点が合ってなく、
不意を突かれたせいで何も出来ずにいた。
唇を離すと、ようやく女の子の体は正常の機能に戻った。それでも、男に視線を合わ
せたり、外したり、変に意識をして眼球はキョロキョロ動いている。言葉はなかった。
余韻に浸るように、車内は静けさに包まれていく。その中に占めるのは窮屈そうな空気
が多かった。女の子はどうしていいのか分からず、迷った表情を浮かべている。なので、
男の方から助け舟を出した。おやすみと言うと、女の子は察したようにおやすみなさい
と言って車を降りる。車の前を通り、いつもよりも早歩きぎみにマンションに入ってい
った。
男は息をつき、車を出す。女の子からメールが届いたのは十分後、「やばい」という
題の後、「ドキドキが止まりません」と一文だけがあった。男はフッと笑い、ゆっくり
心を落ち着かせてから寝るようにとメールを送信した。
それから、萎えていた男の心持ちは回復をみせた。久留米雀の遺産を手にする口約束
を得たおかげで、向かうべき対象が明確になれたから。このまま週一で女の相手をして
いけば莫大な金が手に入る。それも、女は年なので性交はそう長く続きはしないだろう。
いずれは性交渉が世話係となり、女の介護をこなしていく生活になる。日本人女性の平
均寿命からすれば、この生活は二十年ほどで終わるだろうか。それだけ我慢を繰り返せ
れば、男には五十歳手前に富が与えられる。
女との関係は呪縛に捕らわれたような心痛が伴うが、現実に強要されるものはない。
女からは、二人の関係に支障をきたさないのならと男の自由も約されている。他の女性
と仲良くなるのも関係を持つのも結婚するのも構わない。ただ、女との関係がバレては
ならないのは絶対的な条件となる。やるのなら完璧に嘘を突き通す、そうでないと全て
が水の泡となる。せっかくのこれまでの苦労は意味を為さなくなり、そうまでして保つ
べき関係など男にはない。
「大田くん、こちら記者の柴村さん」
女の紹介で、男は軽く頭を下げる。
「でっ、こっちが新しくマネージャーになった大田です」
女の紹介で、男は挨拶とともに頭を下げる。目の前にいる女性と名刺を交換し、二言
三言を交わす。女性は痩せた体型に顔立ちもしっかりしていて、意思の通ったキャリア
ウーマンという印象を受ける。名刺に目を通す。週刊誌「女性生活」の記者の柴村忍、
見たところ三十歳代の後半あたりだろう。
女は女性生活に連載を持っている。男も勉強の名目で雑誌に一度目を通した。もう、
八年以上も続いているものらしい。なので、女と女性との会話はとても賑わっている。
連載は女が現代社会からテーマを一つ挙げ、それについて独自の考えを促すという内容
になっている。そのテーマを決めるため、毎回二人でざっくばらんな話をしながら進め
ていく。担当は八年の間に数回替わったらしいが、女は女性とは話が合うからと気に入
ったようで長く続いているらしい。確かに、二人は傍から眺めていても気が合っている
と思える。世の中に対して厳しい意見を持ち、それを素直に吐露している。
男は今週から久留米雀のマネージャーとしての仕事を正式に任された。先週は一週間、
引き継ぎという形で菊月にいろはを教えてもらいながら現場を回っていったので、今週
からが事実上の担当ということになる。この連載は隔週なので、女性とは初めての対面
だった。男は初対面の人とは人間性を探るためにも深く係わり合いにはならないように
する。どのぐらい首を入れて接していい相手なのか、自分や他人との会話を通して見定
めていく。
仕事が終わると、そのまま女性を含めた三人で食事へ行くことになった。時間が遅か
ったのであっさりしたものがいいとなり、うどん屋へ行った。座敷の席へ通されると、
うどんと日本酒を注文して乾杯をする。ここでも女と女性の話は盛り上がったが、男も
女性からいろいろな質問を受けた。どれもプロフィールを一つずつ突いていくものだっ
たが、男は真実と嘘を混ぜながら答える。過去については、掘られてもいいものとそう
でないものがあるから。女性に限らず、久留米雀にも光村沙耶にも片柳彩子にも同じよ
うにしている。出身地は九州と嘘をつき、細かく聞かれたので熊本と嘘を重ねる。これ
までの経歴もそこから外れないようにした作り話にする。それ以外の生まれ年やら趣味
やら特技やらは真実で答えた。よくあるシチュエーションにも思えたが、男には女性の
瞳がいやに気にかかった。記者という仕事柄からか、相手の言葉の裏側を覗いてくるよ
うな観察的な瞳をしていた。
二千八百八十九万三千二百五十三円、通帳の預金額を眺めながら男はその数字に実感
を憶えていく。大学を出てからの六年間、タクシードライバーとして毎日をただ普通に
生活してきた。野望は抱き続けてきたが、生活自体に欲を出す必要はない。家電も衣類
も量販店で事足りるし、飲食もチェーン店で満足できる。月給から家賃や生活費や雑費
を引いても、年間で四百万円は貯められる。新しく転職してからの五ヶ月、月給に加え、
久留米雀から毎週の行為の報酬代わりに渡される金もあり、ひと月でも百万円に近い額
は貯められた。金銭についても、住居についても、仕事についても、同世代の人間から
比べると結構に高い位置にいるのではないだろうか。それでいい、その事実で俺は生き
ていける。
久留米雀からの特別な接触は仕事終わりの夕食と毎週の行為だった。料理はしない人
なので、食事は自動的に近く外食になる。朝食や昼食でも現場で弁当が出ない時には外
で摂っている。仕事日にはその場に必ず男も帯同する。金は女持ちだし、女のよく行く
店なので味もいいため、悪い事ではない。逆に、それ以外に女からのコンタクトは無い
に等しかった。電話が鳴る事もメールが届く事もほとんどない。線はきっちりと引いて
くれるのは男にとってはやりやすかった。
光村沙耶からは頻繁に発信が届く。女は男の事を恋人と信じ込んでいるのだから当然
といえる。用事があろうと無かろうと、声が聞きたいからと無理やりな理由をこじつけ
てくる。女は甘えた声を出し、男は落ち着いた声に終始する。二人の関係性ははっきり
していた。主導権を握るのは男、手綱を引かれるのは女。男の嗜め方の巧妙さによって、
女は引かれている事にも気づかずにいる。
片柳彩子からも比較的コンタクトは多く届く。この前のキスで、女の子の心は完全に
男の方へ向けられている。あれ以来、女の子からのメールに変化がみられた。内容や文
章や回数に変わりはないが、絵文字にハートマークが増えた。それだけのことだったが、
それが女の子なりのアピールなのだろう。急に内容を変えたり、回数を増やすと、勝手
な恋人気分が一方通行になってしまいそうで大きな変化は控えたんだろう。
「ねぇ、大田さんってモテるでしょう」
女性の質問に男は首を横に振る。
「全然ですよ、僕なんて」
「嘘だぁ、その顔でモテないわけないでしょ」
決めつけのように女性は男に突いてくる。否定は続けたが、一向に信じようとはしな
かった。
この日は久留米雀の女性生活での連載の打ち合わせの日だった。担当はもちろん柴村
忍で、通常のように話は盛り上がっていく。今回のテーマは恋愛、最近の結婚活動など
のブームを軸にしていきたいと女性から持ちかけられた。
そして、打ち合わせ終わりでまた三人で夕食を摂る事となった。三人でというよりは、
女と女性の食事に付き合わされる形であったのは明らかだ。鰻屋で女の金で三人で松を
食べながら話は進む。仕事の流れを引いてきたように内容は恋愛になり、今度はそこに
男も加わることになる。正直、こうなると女二人と男一人の対式になるのは読めたので、
あまり癇に障るような発言は避けていく。
「今まで付き合った人数は」
「三人とか四人じゃないですかね」
あやふやな言葉にしたが、その通りだった。交際という名目で付き合った人数はそれ
ぐらいだったが、男の中でそれはあくまで建前でしかない。金の羽振りのいい女、地位
のある女、そういう人間しか相手にはしなかった。男にとっては、別に付き合うかどう
かは関係ない。利点のある女が惜しみなくそれを提供してくれる、その特典でしか選び
はしない。たまたま、これまでの人生の中でそれに当てはまる人数がそれだけだったと
いうことだ。
「もっといるでしょうに」
「いえ、ホントですよ」
「じゃ、一人が長いんだ」
「まぁ、そんなところですね」
適当な対応をしておく。本当のところも、確かに一人は長いが単に相手の心が冷める
のを待ってるだけだ。女性側の感情が他方向へ行く、それが男の交際の破局の常になる。
男自身は感情の変化で動くことがないので、相手の心が萎えたら関係が終わるという方
式に自然となる。男からすれば感情論は無く、ただだらだらとした付き合いを続けるの
みだ。
「好きなタイプは」
「特にはないですよ」
金と地位、とは言うはずがない。
「一つか二つはあるでしょ。細かいところでも」
「そうですねぇ、何か魅力を持った人ですかね。何でもいいですけど、尊敬のできる
ものを持ってる人かな」
「へぇ、なんかありきたり」
女性はつまらなそうな表情をわざと浮かべる。もっと男の底をほじくりたいのだろう
けど、あいにくそんな滑る口は持ち合わせていない。第一、魅力という言葉に嘘はない。
尊敬とは言いすぎになるが、金や地位に魅力は感じる。努力で手に入るわけではないの
がアンバランスであり、尊敬という言葉はあたらない。
「年下と年上ならどっちがいい」
「どっちってことはないですよ。年上の方は尊敬できますし、年下でも惹かれるもの
はありますし」
ほとんどマンツーマンのような質問の掛け方になっている。隣にいる久留米雀には相
槌を求める程度で、女性の興味は男に向いていた。男にはこの空気感は嫌なもので、今
すぐにも帰りたい思いに駆られる。
「なんか、さっきからその場を凌いでるみたいな返答が多いよね」
「どうしてですか」
「どうしてだろう。この仕事やってるからかな、どれぐらい本音で話してるかが敏感
に察知できるんだよね」
女性は男の本音を読み取るように表情を眺めていく。厄介なタイプだ、と直感で思う。
他人の深い部分にまで無理にでも入り込もうとしてくる嫌味な人間。この手のタイプが
一番嫌いだ。まして、それが職業的なものだとしたら単なる病気だろう。人の痛みなど
二の次にしか考えられない奴に心の中など見せてたまるか。
結局、女性は男への質問攻撃を続けていった。男も折れずになあなあの返答に終始は
したが、胸糞悪い感覚を憶えながら表情だけはにこやかさを絶やさぬように心掛ける。
女もどちらかというと女性に加担するような形で、二人で恋愛における女性側の感情を
男へとぶつけてく。よくそんなに言葉が出てくるな、とぼやきたくなるほど愚痴る口は
滑らかだった。
暑さに慣れだした体を擦り抜けていく夜風は涼しく心地いい。こういう時に自然への
懐かしさは蘇えってくる。子供の頃から肌に感じてきた四国の風が今でも一番この体に
馴染んでいる。たまに、無性に故郷が恋しくなってしまう。あと数年もすれば、自分も
定年だ。そうしたら、故郷へと戻って一日一日を愛おしく過ごしていこう。だが、その
前にやらなければならないことがある。
男性は視線を上へ向ける。そびえるマンションの中の一室、そこに大田恵一が住んで
いる。男性がここへ来た時にはもう帰宅しており、電気は点いていた。なぜ、あの男は
こんな一等地の高級物件へと引っ越したのだろうか。はっきりいって、運転手レベルが
住んでいいところではない。そんな給料の相場が良いはずはない。ここの家賃だけでも
月給を持っていかれてしまうだろう。身分不相応どころか、無謀という言葉しか当たら
ない。少なくとも、これまで目にしてきた限りではあの男はそんな事をするタイプでは
ない。
ならば、どうしてそれが可能なのか。理由はなんとなく察しがついている。久留米雀、
あの女が係わっているに違いない。あの男がタクシードライバーから転職した先の仕事
が久留米の所属する事務所の運転手ということは調べがついた。どういった経緯で転職
までしたのかは知らないが、おそらく前職の方が給料はいいんじゃないだろうか。それ
をわざわざ移行したのだから、何かしらメリットがあったんだろう。一体、その条件は
何なんだ。考えるも、答えは出てこない。芸能人と触れ合える、などという幼稚な思考
では絶対にない。そんなミーハーな人間ではない。あの男はもっと沈着冷静でドライな
人間のはずだ。
唯一、その切れた線を繋げる推理はある。ただ、それを事実とするには相応の心構え
が必要になる。それは、久留米雀が大田恵一を飼っているという線。あまりに突き抜け
すぎた突拍子もない線に見えるが、全くの根拠なしというわけでもない。三週間ほど前、
亀谷右京は一つの流れを目に留めていた。その日の夜、まだ部屋の明かりが点いてなか
った男の帰りを気長に待っていた。男は一時間ほどで帰宅する。いつものベンツ、転職
した際に男は車も変えた。新しい会社から支給されたものを私用としても使ってるのだ
ろう。駐車場の様子は外からは見えないが、その後に通過するロビーにはガラス張りの
ところもあって眺められる。そこから通常通りの男の姿を眺めようとしたが、そこには
驚くべき光景があった。男自身に変化はなかったが、その後ろに女の姿があったのだ。
男性は目を瞬かせ、詳細を捉えようと身を乗り出す。視力には自信があったので、その
距離からでも全体像を把握することは可能だ。男の後ろにいたのは久留米雀、間違いは
ない。二人はいたって自然な様子でマンションの奥へと入っていく。しかし、その外観
は明らかに不自然でしかなかった。運転手の部屋に入ってく芸能人、どういうことだ。
男性の頭内では様々な流れをこれでもかと行き交う。そのどれもが不正解な気がしてな
らない。胸が疼いてくる。変な思考が頭に湧き出てくる。トイレでも借りに行ったのだ
ろう、心内を正常に留めたくて強引にそう思おうとした。だが、十分が経ち、二十分が
経っても女は姿を見せない。トイレのついでに茶の一杯でも振る舞われてるのだろう、
正常を乱してくる心内への強引さをそう増しにさせる。だが、やがて男の部屋の電気は
消えた。男性は自失に近い感覚に襲われ、暗くなった男の部屋を眺めたまま立ち尽くす。
今、あの部屋で何が行われているのか。想像しただけで体に武者震いが生じる。還暦を
超えた大物女優、容姿の優れた二十歳代の男、その二人が体を跨らせながら互いの欲望
を満たしていく。こんな・・・・・・こんなことがあっていいのか。頭内を汚染される
寸前まで侵され、瞳孔が開いたまま男はくわえていたタバコを道に投げ捨てて帰ってい
った。
女は前職時の男の運転するタクシーに乗車、そこで男に惹かれる衝動が起こる。それ
は女の中で強い思いとなり、男となんとか連絡を取って自らの所属する事務所へと引き
抜く。女はそれでは飽き足らず、男の体すらも手に入れる。つまり、そういうことなの
だろう。
男には何か相当な条件が提示されたに違いない。男はタクシードライバーという仕事
を堅実にこなしていた。不当な欠勤もなく、勤務態度も良好、年齢の離れた職場仲間と
の交流にも問題はない。順調といえる毎日だったはずだ。それを辞めてまで移ったのだ
から、それなりの利益がなければならない。そして、さらに女と不埒な関係まで築いた。
考えたくはないが、男はあの女に飼われてるのだろう。おそらく、この高級マンション
も女が用意し、それ以外にも行為に見合った報酬があるはずだ。それが何かは分からな
いが、一人の大人の人間としての軸を折るだけの刺激物なのだろう。
ついに本性を現したな、心内で男性はそう男へ告げる。お前は何かをする奴だと思っ
ていたよ。このまま、大人しく平凡に生きていくような人間じゃない。そう睨み、今日
までこうやって追っていたんだ。何だ。お前の目的は何なんだ。金か、地位か、名誉か、
何がお前の欲望に当てはまるんだ。まさか、もう一度過ちを繰り返そうなんて馬鹿げた
発想をしてやいないだろうな。




