その4
○登場人物
大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)
片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)
久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)
野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)
柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)
亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)
光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)
翌日と翌々日の二日間は新しい仕事の休日になっていた。引越しと仕事変わりのリフ
レッシュとして、久留米雀からの配慮を受けた。男は一日目を引越し、二日目を休みに
充てる。本当は荷造りもあったし、まず心身を休ませたい思いがあったが、取り合えず
あのむさ苦しい寮を早く飛び出したかった。辞めるのであれば、あんなところに長くい
たくはない。環境を変え、そこで新しい空気を吸って体を浄化させたい。なので、少々
時間に無理をして荷造りを終わらせて引越しをした。ある程度の家具なら揃っていると
聞いていたので、荷物は少なく済ませられたのは幸いだった。余った家具は、故郷から
親が持って来るからと言って同僚に進呈しておいた。
寮の一室から荷物が運び出されると、軽い満足感が生じる。何もない空の部屋、ここ
にいた今までの自分は消去する。ここから、また新たな毎日が始まる。これまでのよう
な敗北の日々じゃない、勝利へ向かう日々だ。長年願い続けてきた未来が実現していく。
階段を上っていくんだ。
新たな住居は品川にあった。マンションの賃貸ではあるが、家賃は男の月給を飲んで
しまえる。四LDK、二階には室外のバルコニーも設けられている。一つ一つの部屋も
大きく、家主の物と思われる絵画や骨董品も並んでいた。基本のテイストは和風にして
あり、それは久留米雀の趣味だろう。模様替えについては何も言われてないので、手を
出すつもりはない。意見する気もないし、特にこだわりもない。インテリアはあくまで
飾り、この自適な空間さえあれば文句などない。
男は充足感に満ちていく。照明の明るさ、家具の大きさ、ベッドの柔らかさ、部屋の
広さ、全てが格段にレベルアップしている。これは自分の所有物でない、それは分かっ
ている。でも、この空間にいるのは紛れもなく自分自身。たとえ籠の中の動物だったと
しても、質の向上は確かだ。錆びれたサラリーマンの生活と一流の人間に育てられてる
ペットの生活、どっちが質が上かということだ。前者から後者への変化、それは大きな
違いのはずだ。ここからまた上昇していく、その一歩を踏んだんだ。
男は埋もれてしまいそうに柔らかなソファに身を預けると、声を出して笑った。今、
自分は二度目の復讐を始めたんだ。一度目は相手の肉体を傷つける復讐、二度目は自ら
の精神を満たす復讐。もう誰にも止めさせはしない。
二日目の朝、目を覚ますと前に女が眠っていた。よく見る寝顔だ。人生で一番目にし
ている女性の寝顔かもしれない。別に、飽きてはいない。愛らしいものであると思う。
だが、心までは動かされない。魅力は当然ある。ただ単に、男に女への愛情が足りない
からだ。
新居を精神的に満喫した後、夜のうちに渋谷に移動した。女の住む高級マンションに
入ると、さっきまでの部屋よりもさらにランクが上の部屋が広がっていた。まぁ、仕方
がない。女は自分の力でこの部屋を勝ち取ったのだから。男と違い、表札名も権利も家
賃を納めるのも全て女自身。だから、認めざるをえない。そこにいらない嫉妬はない。
この日は女も休日だったため、珍しく長い時間が取れた。大概は男が休日にこの部屋を
訪れ、女が早朝に帰宅してから夕方に出掛けるまでの時間になる。それも、セックスを
して残りは眠るぐらいの淡白な過ごし方が大体だ。二人の休日が重なれば外に出掛ける
事もあるが、月に一度か二度あたりだろう。女は夕食を用意して待っていた。オムレツ
に白米に味噌汁と小物が数品、家庭的なメニューは意外だった。それを意図して作った
のかもしれないが。味を褒めると、女は素直に喜んでいた。その後、風呂に二人で入り、
ベッドで体を繋げる。女は股を広げ、快楽に包まれていた。
男が起きると、拍子に女も目覚めた。時間は六時前。男はそそくさと起き上がるが、
女はまだ寝足りない。男は顔を洗い、コーヒーを飲む。女はまだベッドで眠気と戦って
いる。男がコーヒーを持って行って渡すと、ありがとうと笑みを見せた。化粧もしてい
ない寝起きの顔はキャバクラで働く時の顔より劣るが、それでもそこらの女性に比べれ
ば明らかに勝っている。女はコーヒーを飲み、緩やかに息をつく。
「ねぇ、今日休みならゆっくりしてってくれるよね」
女には昨夜のうちに転職の旨を報告した。久留米雀の運転手というところは隠して。
タクシーの乗客として接した企業の社長に気に入られ、ちょうど運転手が退職するから
やって欲しいと言われ、悩んだが住まいも退職する人のところを使っていいと言われた
ので承諾した、と。驚いていたが、男が落ち着いて話を進めていったので女も納得して
いく。相談してくれればいいのにと言われたが、急な話だったからとはぐらかしておく。
女に同調を求めるのに大きな意味はない。
「悪い。今日は行くところがある」
「えっ。どこ」
「大阪。気分転換でもしてくる」
「えぇっ、いいなぁ。私も行きたい」
言葉だけの縋りなのは分かった。女は仕事で夕方には出勤しなければならない。土産
でも買ってくるから、と適当に宥めると女も了承する。
正午過ぎ、男は徳島にいた。新幹線と電車を乗り継ぎ、約六時間をかけて到着した。
無論、大阪に行くなんて嘘っぱちだ。大阪土産なんて、後でどうにでもなる。記念写真
も撮らない主義だから言い伏せるのは簡単だ。
男は女に出身地を偽っている。女だけではなく、周囲にいる少年期の自分を知らない
全員に。男の出身は岡山という事にしてある。実際に住んでいた事もあるので、その場
しのぎの虚言ならいくらでも吐ける。
徳島の出身である事は知られたくはない。あの忌まわしい過去はこの胸にだけあれば
いい。ただでさえ深い傷なのだから、これ以上に広げる必要はない。今のままでいい。
安らかに復讐をさせてくれ。
駅の改札を抜け、五分ほどで予約したタクシーが来た。駅のホームに降りた時に携帯
で連絡を入れたので、時間は掛からなかった。正午ぐらいに着くと事前に伝えてあり、
車も乗客がいなかったのでスムーズにいったようだ。
「久しぶりだな」
「あぁ、久しぶり」
後部座席に乗り込むと、久々の再会には調子の低い挨拶を交わす。運転手の札には、
野木晃彦と書かれている。
「いつもの通りに回ってくれ」
「あぁ」
通常通りにやり取りをすると、車は走り出す。男は窓外を眺める。ここを離れてから
二年から三年ごとに訪れるが、その度に街並みは変わっていく。古いものが新しくなっ
ていく。悪くないことだろうが、思うところはある。ここの古さは嫌な古さではない。
見ていて不快になるものではなく、むしろ逆だ。それが無くなっていくのは喜ばしいと
手を叩けるだけではない。
「あそこの角の店、潰れたのか」
「あぁ、薬局か。潰れちまったよ。三ヶ月ぐらい前だったかな。今度は電気屋になる
らしい」
薬局は男がこの街に住んでる頃からあった。よく母親の薬を買いに行ったのを覚えて
いる。店をやっていた老夫婦は良い人間だった。当時の商店街はいくらか活気もあった
ので、商人の威勢はよかった。その人情の店が潰れ、気鋭な店が並んでいく。進化なの
だろうか、後退なのだろうか。
「今度、図書館も移動になるらしい。新しく出来る駅近くの建物に入るみたいだ」
男の返答はない。無愛想ともいえるが、それで成立する関係性なのだ。
窓外には不思議な景色が流れる。建物が流れ、人が流れる。商店街を越え、川を越え
ていく。ここに住んでいた頃にあった景色となかった景色が混ざり合い、思い出を打ち
消していく。
「最近はどうなんだ」
近況を問う意味で聞く。瞳に映る景色のように流れで聞いたわけではない。この場所
に戻ってくるたびに必ずする事だ。一つは思い出の地を巡る事、もう一つは男性の近況
を訊ねる事。
「これといって変わりはないよ。奥さんが二人目を妊娠したぐらい」
おめでとう、ありがとう、と乾いた会話が続く。男性は結婚している。相手は県内の
大学に通ってる時に知り合った女性。男は顔も見たことはない。特に興味もないので、
写真を見せてもらうこともしない。結婚式にも当然出ていないし、結婚した事自体が事
後報告だった。子供は女の子が一昨年に産まれている。前回ここに戻ってきたのが産ま
れて間もない頃で、親バカ話を長く聞かされたのを憶えてる。だが、興味はないから写
真も見ていない。
時の流れは早くもあり遅くもある。タクシードライバーの仕事をしていると、勤労時
間の長さに一日を過ごす事の長さを重ねられる。ただ、あの時の世間の何も知らない子
供時代の仲間が結婚して子供を持っている現実には逆も感じずにはいられない。
車は一つ目の目的地に到着した。男と男性が二十年前に通っていた小学校。平日だっ
たので、校庭には体育をしている小学生がいた。キックベースをしているように見える。
男は車から降りずに小学校を眺めていた。懐かしむわけでもなく、郷愁に駆られるわけ
でもなく、単なる確認。自らの過去の点在する記憶の確認として。
小学校は男が通っていた当時から大きな変化は見られなかった。もっと中に入ってい
けば細かな変化はあるのだろうが、大まかにはあの頃と同じに見受けられる。ここには
良い思い出はほとんどない。探すのにそれなりの時間は要する。デパートで迷子になっ
た子供が親を見つけ出す程度の難度は必要だ。
五分ほどが過ぎ、車は小学校から出発した。既に男と男性の間には会話はない。二年
から三年ぶりの再会といっても、話すような事は左程ない。そんなに話すような日常が
ないわけじゃない。この関係性において、報告するべき事がないだけだ。ここ最近、男
が仕事を変える事、著名人と知り合いになった事。普通の仲間内ならすぐにでも口にす
るような事なのだろうけど、この二人の間ではその必要性はない。話す要素のある事と
いえば、男がこの街にいた十歳頃までにここに存在した事だろう。それ以外について、
興味はない。
二つ目の目的地は隠れ基地だった。小学校から一本道に続く先にある中学校の裏手に
拡がる田園を抜けていくと山とかろうじて称していいぐらいの場所がある。無論、地図
上ではそこは山と認定されていない。地元の人間の間でそう称されているだけだ。山の
外観が似ていることから林檎山と誰だかが名づけている。
男と男性は山を自らの意思で登った事はない。むしろ、近寄りたくはない。その山は
強い虫たちの溜まり場だった。学校内の権力者、といっても小学生だからそこまで大層
なものじゃないけれど、学校内で威張りをきかせてる奴らが放課後にそこに集合する。
男と男性はそういうタイプの影に怯えながら過ごしていた弱虫な子供だったので、山は
牽制すべき場所だ。なのに、二人にはそこへ足を運ばなければならない理由が出来てし
まった。
「次に行ってくれ」
男の声で車は走り出した。細道から左右に拡がる田園を見ながら、過去の傷をほじり
返していく。大きな溜め息が出た。その姿をバックミラーで確認すると、男性も心痛を
覚える。男性は男の傷を知っている。その深さが分かっている。だから、今でも男の帰
郷には行動を共にしている。
三つ目の目的地は一軒家だった。周囲にポツポツと点在する家々と変わりのない普通
の一軒家、男が二十年前まで住んでいた家だ。今は別の家族の住まいになっている。庭
には洗濯物を干されている。その量からして、三人ほどの家族だろう。窓は開いており、
縁側と和室が家の外からでも見られる。ただ、男が見ている間に人は通らなかった。昼
食でも摂ってるのだろうか。そういえば、そろそろ腹も減ってきた。
走り出した車の中で、あの一軒家での母親との思い出を巡らせる。楽しいものもあり、
苦しいものもあった。父親は男がまだ一歳の時に家を出ていった。詳しい事までは聞け
なかったが、どうやら女絡みで離婚したらしい。父親の顔は見た事はない。母親を捨て
ていくような奴の顔なんて見たくはない。どうせ、この顔に似ているのだろう。なら、
それをわざわざ確認したくなんかない。
昼食は男性任せにし、駅近くのラーメン屋に行った。次の目的地に行くのに駅を越え
るので、ちょうど通り道に店はあった。男は醤油味、男性はとんこつ味を食べる。美味
しいは美味しいが、特別な何かがあるわけじゃなかった。よくあるラーメン店のレベル、
それに収まる。男も同職のため、馴染みのあるレベルの味だ。
四つ目の目的地は吉野川だった。河川敷のキャンプ地まで歩き、そこからの景色に目
を細める。やがて目を瞑ると、頭に過去の自分を思い起こす。忘れられない記憶、起こ
さなくても流動的に現れる滾る炎。内部からこの頭を焼き焦がすように苦しめていく。
多くの悲鳴が響く。多くの助けを乞う影が見える。多くの果てゆく影が見える。あの時、
絶対に後悔しない事を誓った。後悔なんてしたら、思いに潰されてしまう。間違ってい
ないんだ、そう胸に刻みつけた。
「もう、いいのか」
「あぁ、駅に行ってくれ」
車は駅へ走り出す。男は車中で苛々を堪えていた。心持ちが定まらず、整理つかない
思いを反芻していく。
なぁ、とたまらず男性が声を掛ける。
「これ、終わりには出来ないのかな」
「どういう意味だ」
「二十年も経つんだよ。なのに、まだそんなに苦しんでる大田くんを見てると、居た
堪れないんだ。東京で新しい暮らし始めてるのに、こうやってわざわざ帰って来て自分
を苦しめるのは止めにしようよ」
おそらく、男性は男の姿を投影してるのだろう。男の痛みを共有するように自分にも
苦しみが届いてしまう。
「俺だって忘れてしまいたい。それが一番良いに決まってる。ただ、俺はこうする事
を選んだんだ。あの時の自分を忘れたくないんだ。だから、ここにも戻ってくる。これ
からも変えるつもりはない。それについて、お前が責任を被る必要はない」
男性は釈然としない顔つきだった。男の言葉では迷いを解決できなかったのだろう。
でも、それ以上に説くつもりはない。責任を負い続けるか逃れるか、それは勝手にして
くれればいい。
車が駅に到着すると、軽いやり取りをして男はタクシーを出た。離れたくても離れら
れない故郷の確認、男の誰にも話していない過去を唯一知っている仲間の確認。男性は
男の裏の顔を見た事がある。それでも、誰一人にもそれを暴露したりはしない。奥さん
や子供にも言いやしない。家族間に変な感情を持ち込みたくはないだろうし、なにより
男性にとって男は友であるから。
帰りの新幹線に乗ってる間、陽は傾いて消えていった。そして、夜になる。その暗み
が東京で新たな場所へ身を移す自分の心の闇に似ていると思った。




