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黒く滾る炎  作者: tkkosa
4/12

その3



○登場人物

  大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)

  片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)

  久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)

  野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)

  柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)

  亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)

  光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)





 数日後、男は肌に慣れない空間に身を置いていた。四方の壁の彩りには強めの色味が

多く使われており、それらが我を出そうと戦ってるようで妙なマッチングをしている。

照明は対称的にシンプルを心掛け、その合わさり具合がまた変に芸術を感じさせられて

しまう。

 男は明天家で待ち合わせをしている。六本木のヒルズにかまえる四川料理の名店を男

は選んだ。相手の位に合わせた品位の高い店をと思ったが、向こう側からあなたが緊張

しないお店でいいわよと言われたのでここに決めた。相手にそうは言われても、さすが

に普段通ってるような定食屋や居酒屋に呼び出すわけにはいかない。会社の先輩に教え

てもらった店ではどれも陳腐で役不足であり、大御所を招待する場所ではない。ここも

今の自分には不相応といえるが、心が縛られることはない。

 明天家に来るのは二度目になる。前回は十歳年上の客室乗務員に連れられて、対応も

なんら特別なものではなかった。だが、今回は相手も名が売れていて、自分への対応も

明らかに変わっている。

 「やぁ、今日は来てくれてありがとう」

 店の奥から現れたのはオーナーの張偉だった。穏やかな表情と油断した腹の出具合は

健在だ。その姿はそのまま店の入口に飾られてある彼の肖像画に重なる。自らを堂々と

看板にしようとは中々のナルシストとも取れるが、自身をキャラクターとして広告にす

る事で繁盛へと結んでいくのだろう。料理番組で何度か彼を見た事もある。地道に店を

切り盛りするよりもそっちが効果的と知っている。自分が世に好感される人間であるの

も分かっている。図太いかもしれないが、それがこの店にとっての近道なのだから間違

ってなんかいない。間違ってるのは、それを知っててやらない奴だ。

 明天家で食事がしたいと電話を入れると、わざわざ個室を用意してくれた。友好的と

いえど、一度だけ乗車したタクシードライバーに対してずいぶんな配慮といえる。あの

時の車内でのやり取りがそんなに向こうの気持ちを緩和させたのだろうか。

 「いえ、こんな個室をありがとうございます」

 「いやいや、君には貸しがあるからね。このぐらい、なんてことないよ」

 貸し、前に言った店の従業員の姿勢への文句か。おそらく、あの後に接客担当者は喝

を入れられたんだろう。とある客からの意見、とでも置かれて。まさか、その客がここ

にいる二十九歳の若僧とは思うまい。

 「あんな大きな口を叩いておいて、またのこのこ来店するなんてって思ったんじゃあ

りませんか」

 「何を言うか。是非、君には来てもらいたいと思っていたよ。逆に、あんな意見をウ

チの店に持たれたままになんかしておけない」

 「なるほど、それもそうですね」

 男の言葉に、張偉は豪快に笑った。男も歯を見せて笑みを浮かべる。無論、作り笑い

だが。一つの世界で登り詰める人間、それが目の前の男性にある。ただ腕がいいだけで

は限界もある。ない人間もいるかもしれないが、大抵はある。人間なんて大したことは

ないのだから。ならばどうするのかとなれば、武器を増やすことだ。張偉にはこの性格

がある。これだけの人柄が備わっているなら、後を着いてくる者も多いはずだ。

 その時、個室の扉をノックする音がした。失礼します、という声とともに女性従業員

が扉を開く。お連れ様が来られました、という声とともに静かに入ってきたのは久留米

雀だった。

 「やぁ、どうぞどうぞ。ようこそ、いらっしゃいました」

 張偉は大物女優を快く迎え入れる。意識的にか無意識にか、その笑顔の量が増してる

ような気がした。まぁ、ここで何か粗相でもやらかす事でもあれば、大きな客を逃して

しまうのだから仕方がない。この客を味方にするか敵にするか、明天家にとっては一つ

の試練になるのかもしれない。あの老いた口から今後に発せられるであろう店の評判は

それだけで広告になりうる。それが良いものか悪いものか、それによって広告の価値が

変化する。

 女は張偉の導きで男の対面の席に座る。二人に対してでは結構に大きな円卓のターン

テーブルだった。四人から五人用のタイプだと思われる。大物女優の接待に戸惑って、

見栄えも縮こまったものにならないようにとしたのだろうか。店側の意図は分からない

が、無難に正解といえるだろう。あのぐらいの人間にもなれば、安っぽいのは好まない

はずだ。洋服だって、アクセサリーだって、どれだけの値段か想像もつかない。光沢を

放ち、煌びやかな印象は庶民を近づけない。人生において、ある一定のラインを超えた

者でないと足を踏み入れることの出来ない域だ。

 女性従業員は部屋から去り、初めの接客は張偉自らが行った。メニューを二人に差し

出し、おすすめを口にしていく。季節やら産地やらのこだわりを話す言葉はどこか台詞

じみている。本人にはそんなつもりはないのだろうが、単純に緊張しているのだろう。

女はそのおすすめをオーダーし、張偉はごゆっくりと言い残して部屋を去った。

 「お喋りの上手なオーナーね」

 感想か皮肉か、分からない程度に淡々と女が言いこぼす。媚びを売る者、自らを売る

者には慣れているようだ。

 「えぇ、話しているととても楽しいですよ」

 「あなたがこんな店を知ってるとは思わなかったわ」

 部屋をぐるりと一周見回し、最後にこちらを向く。目の前の男に相応しいといえる店

とは言えない。容姿なら分かるが、経済的には似合っていない。対する女の方はこうい

った高級店がよく合っている。中華料理はそんなに食べないらしいが、たまには食べて

みたいからと諾了した。

 「偶然、オーナーと知り合いになりまして」

 その経過については、店をここに決めた報告をした時に話してある。男が以前にここ

で食事をした事があり、その後に張偉をタクシーに乗せた際にその話をすると是非また

食べに来てほしいと言われた、と。

 「ふぅん。タクシードライバーっていうのはいろんな人を乗せるのね」

 あるときは中華料理店のオーナー、あるときは大物女優、あるときはモデル、確かに

それは言える。ただ、そんなに華やかなものでもない。大抵はどこの誰かも分からない

人間を目的地まで送り届けるだけだ。

 「ところで、本題の方なんだけど」

 あぁ、と男は畏まる。本題とは、もちろん前回要請された久留米雀の専属の運転手に

対する返答だ。

 「一つ、お伺いしてもいいですか」

 「何かしら」

 「具体的な待遇を教えてもらえますか」

 男の言葉に、女は気をよくする。男は漂っていた浅瀬から深海へと潜り込んできた。

この話に前傾になっている証拠だ。もう何度か押せば、こちらへやって来る。そう女は

踏んだ。

 「今の会社の待遇を聞かせてちょうだい」

 「はい。固定給が二十万円以下あって、それ以外は歩合給です。月によって違います

けど、合計で四十万円弱ですね。乗務にあたる出番は月に十二日、その後の明番が月に

十二日、残りの六日から七日が休日になってます。会社の寮に住んでるので家賃は安く

済んでます」

 なるほどね、と女は考え出す。今よりも良い待遇を、と約束したのだから、それ相応

の提示はしないとならない。かといって、運転手にそこまでの金など払えないだろう。

金があるかないかではなく、職業的に日の目を見ない。

 「月に五十万円出すわ。これでどう」

 男は用意しておいた驚きの表情を見せる。女はどうだと言わんばかりだが、男はそれ

ぐらいはしてくるだろうと予想していた。この女の目的は分かっている。男を芸能界に

入れさせたいなどという思いはもはや半分にも満たないであろう。残りの半分以上を埋

めてきているのは独占欲。男をどうにかして自分の手元に置いておきたいという我欲だ。

卑しい感情だが、そんな卑しさなら誰しも持っている。

 「勤務時間は私の仕事に合わせてもらうから、日によって変わって不規則になるけど、

拘束時間は少ないはずよ。簡単に言ってしまえば、私が車で移動する時間だけがあなた

の労働時間になるわけだから。デスクワークもないし、今に比べれば相当に楽でしょ。

そんなにタイトなスケジュールにはしてないから休日もあげられるし、地方に泊り込み

の撮影でもあれば連休にもなるわ」

 女は畳み掛けるように男を諭していく。

 「住まいは私の家を提供しましょう。今住んでる一軒家の他に、二十三区内にマンシ

ョンを一部屋購入してるの。別荘も避暑地と海外に一つずつ持ってて、休暇が出来た時

の旅行のために国内と国外に購入したんだけど、その時間も無い時には環境を変えたい

時にそこに移るの。私の代わりに部屋に問題ないか見ておいてちょうだい」

 やりすぎだろうと思うほどに女は押した。文句のつけようがない条件だが、ここまで

されたら何か裏があるんじゃないかと警戒心を抱かれるのが普通だ。なるほど、そうし

てまで大田恵一を手にしたいのか。大物女優といえど、一人の女。良質な男性を前にし、

金に物を言わせてもと欲を見せた。そうか、なら乗ってやろう。お前の望むようにこの

体を動かしてやる。ただ、残念なことに心は動きはしないが。

 「どうかしら。悪い条件とは言わせないわ」

 女はすでに男を手にしたつもりでいる。悩んでいる男に対し、人の子ならば金に目が

眩むのは当然のことと上に立って見下ろしている。本当は見下ろされているのは自分と

いうことに気づきもせずに。男を手で転がしていると思ってる時点で、女はもう男の手

で転がされている。

 「分かりました。受けさせていただきます」

 ただ、と付け足す。

 「条件の良し悪しで決めたわけじゃありません。全く判断基準にしてないかとしたら

違いますけど。それよりも、そこまでしてくださる久留米さんの気持ちに応えたいと思

ったから受ける事にしました。そこは分かってください」

 「えぇ、そうでしょうね。あなたは他の人間とは違うもの」

 そうは言いつつ、女は男の言葉の八割は嘘だと思った。所詮は金を積めば人の心など

動かせる、というのが本心だ。女自身、今自分がしている事の遣り方は分かっている。

汚い方法だとも思う。だが、それ以上に目の前にいる男が欲しかった。未来の事は未来

に考えればいい。今はただ男との未来の選択権を手にしなければならない。そのために

手荒な方法で躍起になってしまった。まぁ、結果が着いてきたのだから良しとしよう。

この男は自分の手元に来る、それでいい。


 男は翌日に会社へ退職願を提出した。上司には驚かれ、引き止められた。若い世代は

重宝すべき存在だし、男のルックスも単純に客の受けがいい。勤労に問題はなかったし、

人間関係も同じだ。実家の親が病気がちになったので上京させて面倒みる事にしたから

もっと短時間の勤務のドライバーの仕事に就く事にした、と言うと上司も渋々納得した。

退職日を相談すると、今月末までという事で落ち着く。あと三週間、この老い廃れた仕

事で我慢すればいい。

 もう一つ、我慢すべき事があった。何やら、大田恵一への乗車の予約が増えている。

個人的な指名が来る事は水商売じゃあるまいし、普通は無い。なのに、日に一件か二件

の指名が会社の電話に届いてくる。それも、若い声ばかり。同僚はどうしたもんかと頭

を巡らせていたが、男にはその理由は分かっている。それを話すのは面倒くさいので、

同僚には適当な嘘を付いてはぐらかしておいた。

 「ホントだ。超格好いいじゃん」

 この日は女子高生二人からの予約が入った。指定の場所へ迎えに行くと、後部座席に

座るなりノリのいい声が響く。目的地は予想の通りに最寄り駅。予約する者のほとんど

が数区間ほどの近場を口にする。それはそうだ、彼ら彼女らはタクシー移動に興味など

ないのだから。興味の先は運転席にいる男。その顔を拝むがために、わざわざ歩いても

いい距離にお金を費やしている。

 短い乗車時間を無駄にしないとばかりに、女子高生からいろいろな質問を投げられる。

彼女の有無、女の遍歴、通ってる美容院、使ってる化粧品、といったどうでもいい質問

をインタビュー記者のように攻めてくる。仕事用の笑顔を保ち、満更でもない感じを出

しておくが腹底は煮えていた。連日、同じような質問に同じような答えをする虚無感。

こういうミーハーな人間がいるから嫌気を差し、そいつらのおかげで人気者商売は成り

立っている。困った循環だ。


 女の子からの連絡が携帯に届いたのはそれから二週間ほど経った頃だった。見覚えの

ない番号からの電話を受けると、若々しい弾けた声が聞こえる。女の子からの軽い説明

があり、電話口の女の子の正体を知る事が出来た。片柳彩子、以前に大荷物を下げて乗

車した有名モデルだ。

 あの時はまだ可愛い女の子としか認識がなかったが、あの後に漫画喫茶で女の子の姿

を目にした。本人の姿ではなく、雑誌に載ってる写真での姿を。書店やコンビニで立ち

読みするには気兼ねがいる系統の本だったので、個室で誰に見られる事もない場所を選

んだ。表紙にいる三人の女の子の中にいる。他の二人は知らない。中のページを捲って

いくと、多くの特集コーナーにその姿はあった。季節を先取りした洋服の他、制服を着

ていたり、水着を着ているものもある。どれもモデルっぽいポーズを決め、清く明るい

笑顔を振り撒いている様は先日の姿と違いも感じられた。かなり距離の近かった関係が

砕かれる。雑誌での女の子は紛れもなく有名モデルだった。そうだ、元々こんな運転手

にあれだけ好意的になっていたのは救いの手を差し伸べたという事だけなんだ。

 そう思っていただけに、女の子からの連絡は意外だった。確かに名刺は渡したが、こ

んな折り返しがあるとは思っていなかった。どういう意図で名刺を欲したのかは知らな

いが、あの関係はあの場限りのものだろうと決めた男の想像を良い意味で裏切った。

 女の子からの指定場所は東京駅だった。地方ロケから戻ってくるから送迎して欲しい、

という予約だ。夜も二十三時を過ぎた東京駅から吐き出されてくる人々は大体が負に覆

われている。午前中にそこに飲み込まれていく人々とはエネルギーが違う。夢を持ち上

京してきた若者と夢に破れ帰郷していく若者の差を見るような感覚だ。肩が落ち、背中

が丸まり、夢を失ったように俯く人間の連続。流れを生み出す者ではなく、流れに飲ま

れていく者の連続。自分は今どっちにいるだろうか。後者寄りだろうか。それでも、た

だそこに留まっている奴らとは一緒じゃない。もうすぐ、前者になる事になる。これま

で見くびってきた奴らへの報復だ。

 その時、助手席の窓を小突く音がした。顔を向けると、男の方へ手を振りながらアピ

ールをする女性がいる。片柳彩子、もう一人は前回の時にもいた二十歳代後半の女性だ。

女の子からの予約の電話でマネージャーも一緒にいるからと言われていたので、女性は

女の子のマネージャーなのだろう。目的地は四谷、女性の自宅へ車を出す。後部座席に

いる二人の話し声は翌日のスケジュールの確認に聞こえた。

 「ねぇ、運転手さん」

 後ろからの会話が途切れると、女の子はこちらに話し掛けてくる。あの夜中の駅から

出てくる弱い人間たちには重ならない快活な調子だ。若さとは万薬に勝る栄養源なのだ

ろう。

 「この前のブログ、もしかして迷惑かけちゃったかな」

 言葉の意味はすぐに分かった。前回乗車した際、押し切られて後ろ姿の写真と経緯の

文を女の子のブログに掲載する事を許可した。その日の夜、女の子のブログには男との

一連の出来事を書いたものがアップされており、男もそれを漫画喫茶のパソコンで確認

している。男が大荷物での移動に困っていた女の子と女性を予約車であるのに乗せた事

への感謝の文章があり、写真には男の容姿を褒める一文が加えられていた。それを見た

女の子のファンである若者たちがここ最近の妙に男を指名する乗車予約を続けてるのだ

ろう。

 「あぁ、最近なんか僕を指名してくれるお客さんが多いのはあれのおかげですか」

 今初めて気づいたようにする。本当はうんざりしているが、この場のために満更でも

ない雰囲気を作っておく。

 「ごめんなさい。分かんないようにしたはずなんだけど、どっかしらから運転手さん

の情報を手に入れた人がいたみたいで。私のところに来たファンレターで運転手さんの

タクシーに乗ったって書いてあって」

 女の子は小さめに頭を下げる。健気な印象を受けた。確かにブログから男の事が割れ

たのだが、女の子の文章からそれを特定するのは無理なはずだ。今のネット精通者から

すれば、あんな気にもかからないような後ろ姿の写真からでも本人を割り出す事が可能

なのだろう。便利が過ぎる分、その隣合わせにこういった現実もある。

 「いえ、いいんですよ。こんなのすぐに治まるに決まってますから。それに、なんか

僕も人気者気分を束の間でも味わえたんで」

 そう男が笑うと、女の子も続けて笑った。邪気の無い笑顔は淀んだ男には眩しく思え

てしまう。そんなもの、とうの昔に置いてきてしまった。いつ、どこに捨ててきたのか

は痛いほど憶えている。

 それからは女の子からの土産話が続いた。今日は福井県の田舎町に行って、ドラマの

撮影をしていたらしい。演技をしてるのは知らなかったが、ちょくちょく脇役で映画や

連続ドラマにも出演しているそうだ。キャラクターから、呼ばれる作品はコメディだけ

なのが少し不満と愚痴る。

 「いいじゃないですか。コメディ、楽しそうで」

 「楽しいは楽しいんですけど、もっと感動系にも出たいんですよねぇ」

 「気持ちは分かりますけど、そうやってオファーを貰える事って有りがたいと思いま

すよ。あなたにはコメディの素質があるから求められてるんであって、そうやって求め

られるのって凄い事なんですから。あなたには人を笑顔にさせる素質があるって事なん

ですよ。人を笑わせるのって難しいし」

 あぁ、と女の子は男の言葉に理解を示す。

 「良いこと言いますね、運転手さん」

 「いや、大した事は言ってませんよ」

 「きっと、運転手さんみたいな人が感動系に出た方がいいんですよね」

 「そうじゃないですよ。人にはそれぞれ得意分野があるわけですから。そこを伸ばし

てった方が個性に繋がりますよ。個性はその人を光らせてくれますから、どんどんやっ

ていくべきです」

 女の子は納得し、何度か頷いていた。女性も男の言葉に同調するようにし、女の子を

諭していく。

 車は目的地の四谷のマンションに到着した。女性は女の子に明日の集合時間を確認し、

よろしくお願いしますと男に一言添える。女の子の事を、という意味で。男もはいと会

釈をすると、マンションの中へと入っていった。

 次の目的地は青山、女の子の自宅へと車を出す。そこからは女の子の一方的な質問攻

めが続く。タクシードライバーの仕事に関する話題から入り、普段の男の車事情、趣味、

生活、思考、と滑らかに深みへと潜っていく。会話自体が得意なのか、事前に話す内容

を決めていたのか、司会のように話を入れ替える。

 「どういう女の人が好きなの」

 この質問に至ったときには女の子の顔は緩んでいた。会話を決めてきたのなら、おそ

らく最終的にここに行き着きたかったのだろう。姿勢も次第に前に傾いてきて、存在を

主張してきている。こういう時、頭には二択が並ぶ。すぐ後ろにいる質問者をなぞった

ような言葉にするか、全く正反対にするか。あなたのように元気で可愛らしい年下の子、

と言ったらどうなるか。あなたとは違う落ち着いていて清楚な年上の女性、と言ったら

どうなるか。試してみたくなるが、ここは無難にしておく。

 「そういうの、特に無いんですよ」

 「えぇっ。嘘だよ、そんなの」

 「だって、誰にだって良いところもあれば悪いところもあるんだから。僕はその人の

良いところが好きです」

 「ふぅん。なんか、優等生な発言」

 不満だったらしい。あなたのように元気で可愛らしい年下の子、と言って欲しかった

んだろうか。

 「じゃあ、彼女はいるの」

 女の子の質問に、また男の頭には二択が並ぶ。いる、と言ったらどうなるか。いない、

と言ったらどうなるか。鎌を掛けてみたくなる。

 「いません。残念なことに」

 嘘はついていない。世間的に見るなら光村沙耶がそうなるのだろうが、あいにく男は

一度も彼女という概念で捉えた事はない。依存症な甘え女、というぐらいにしか。利用

に値する女は自分へ近づけていく。そして、女は蜜の香りに誘われるように寄ってくる。

罪悪感なんてない。勝手に嵌ってくる奴が馬鹿なだけだ。男の本意も読み取れないのに

ふらふら来る方が悪い。

 「彼女、作らないの」

 「作ろうと思って作れるなら万々歳ですよ。そんなに巧みにいく人なんて、よっぽど

の遊び人とかでしょう」

 「運転手さん、モテそうなのに」

 「全然。そういうの、器用じゃないんです」

 へぇ、と女の子は軽く頷く。何か別の事でも考えてそうな感じだ。織り交ぜた不器用

さが効果を為してるのだろうか。そういった男性が好きな女は多い。誘い巧みな遊び人

が好きな女なんて少数派だろう。

 「ねぇ、また運転手さんのタクシーを予約してもいいかな」

 「どうしてですか」

 意地悪を吹っ掛ける。女の子は返答を急ぎで用意していく。可能性の高さを計るには

充分だった。

 「運転手さんとお話してるの面白いから」

 「僕の何が面白いんですか。僕ほどつまらない人間もそういないと思いますよ」

 「そんなことない。楽しいですよ、すっごく」

 「すいません。なんか気を遣わせちゃってるみたいで」

 女の子はかぶりを振る。その意味は分かりもするし、分からなくもある。男は特にと

いって質の高い話などしていない。それなのに面白いと言うことが分からない。女の子

はただ単に男と話している事が楽しいのだろう。この時間をまた予約したい、そういう

ことだ。

 男は一つ息をつく。女の子はそれに反応し、顔を向ける。

 「残念ですが、その予約を受けれるかは分かりません」

 女の子は何も言わない。疑問の表情だけを浮かべている。

 「実は今の仕事を辞めるんです」

 女の子の目が開く。疑問の表情はそのままにある。男の言葉の意味が理解できない。

 「何で」

 「実家の親が病気がちになって、上京させて面倒みる事にしたんです。だから、今の

より短時間の勤務のドライバーの仕事に就く事にしました」

 そう言うと、女の子は伏し目になった。言葉の意味は分かったし、それは納得せざる

をえない内容だ。ただ、体の中で複雑になっているものは簡単には解けない。

 「何の仕事をするんですか」

 「個人の運転手です。その方の送迎だけをすればいいので、時間的にはとても余裕が

出来ます。タクシーのお客さんで知り合った方なんですけど、その方が良い人で今に近

い給料や次の住まいまで用意してくれてるんです。そういう話に甘えるのはどうかなと

思ったんですけど、折角のご好意なんで受けさせてもらうことにしました」

 へぇ、と女の子は呟く。空の返事だった。体だけをここに置き、中身は別のところに

行ってしまっている。

 空気が淀んだ頃合を見ていたように目的地に到着した。代金を受け取ると、押し引き

に構える。相手の出方次第で押すか引くかは決まる。願わくば、引く側になる方が好ま

しい。

 女の子がバックを手に取る。そのまま行くのか、それとも止まるのか。バックの中を

物色すると、手帳とペンを取り出した。手帳にすらすらと書いたのを破り、その切れ端

を男に差し出す。

 「これは」

 紙に書かれているのは英字が一行と数字が一行。それが何であるかは百も承知だが、

一応訊いておく。

 「私の携帯のメアドと番号。朝、予約する時に使ったのはマネージャーの携帯なの。

予約したいって言ったら、じゃあ私ので掛けなさいって。私の番号が通知されちゃうの

が嫌だったんだと思う。かといって、非通知で掛けるのも失礼な気がしたからそうした。

こっちが本物だから」

 「どうして、これを僕に」

 また意地悪をしてみた。相手から押してきた時点で、上手にいるのはこっちだ。優位

に駆け引きをさせてもらう。

 女の子は何も言ってこない。何か言おうとしているが、的確な言葉が上ってこないよ

うだ。真実はすぐにでも口に出すことができるけど、それはしない。口には出来ない真

実だから。なら、巧みに嘘でも付いてしまえばいいのにそれもしない。嘘を付くことが

苦手なんだろう。言いたいことはあるのに、喉元で塞いでしまう。何も言えずに、ただ

男の方を困った顔で見ることしかできない。その弱った表情が潤んだ目をした子犬みた

いで可愛かった。

 「分かった。これ以上は聞かないよ」

 紙切れを受け取ると、スーツのポケットに入れる。女の子はじゃあとだけ言い、自宅

のあるマンションへ入っていった。光村沙耶のところほどではないが、十歳代が住むに

は洒落た建物だ。男は現実に溜め息をつき、車を走らせた。


 一週間後、男は会社を退職した。野望を現実に繋げるためには良い職場だったと思う。

おかげで、抜け口をいくつか見つけられた。御役御免だ。ここから怒涛の成り上がりを

見せてやる。俺を蔑んできた奴らを下に見てやるのさ。この三十年弱の人生、大したも

のじゃあなかった。その分、これからは充実した人生を送るんだ。逆襲、二度目の逆襲

の始まりだ。

 その日は時間の空いている同僚が送別会を開いてくれた。同僚といっても、ほとんど

は生命力の乏しい白い髪の男性ばかりだ。十人ほどが居酒屋でテーブルを囲み、男との

これまでの思い出話を語っていく。そのどれもが男にはどうでもいい話だった。こんな

枯れた人間たちに気を遣うのも今日で終わりだ。おそらく、あんたらが死ぬまで会うこ

とはないだろう。

 お開きになったのは二十二時過ぎ。同じ寮住まいの数人と帰宅すると、男はすぐに外

に出直す。数メートル先の電信柱に凭れていた人間に視線を据える。帰宅途中に後方か

らの視線には気づいていた。これまでに何度と背中に感じてきた鈍い感覚。睨むような

鋭い目が印象的な短髪の男性は定期的に男の近くに現れる。特別に何かをするわけでも

なく、大体はこれぐらいの距離からただ男の事をただ眺めている。あの目の場合、眺め

られるが睨まれるように感じる。一言か二言、男に言葉を言い置く時もある。その時も

二人の関係を埋めるような核心を突く言葉はない。注意を促すような言葉が多い。男の

近くに来る事も、その動向を見張っているように見える。この男がまた何かを仕出かす

のでは、という気負いから。

 男は歩を止めない。別段、男性の存在を気に留める素振りは見せない。通行人の一人、

その程度の把握しか外側には表さない。無論、内心は煮えるような感情を湧かせている。

殺意にさえ届きそうな怒気を内側で押さえ込めている。

 「会社、辞めたんだってな」

 擦れ違いざま、世間話のような語調で男性は零す。男は何も言わず、男性に背を向け

たまま足を止めている。

 「何を考えてるかは知らないが、余計な事はしない方が身のためだぞ」

 男性も振り向きもせず、男に背を向けたままで零す。男は再び歩き出す。男性はそれ

を追ってはこない。存在の確認、注意の喚起、男性が男にするのは大抵それぐらいだ。

深い交わりはしてこない。それをあえて避けているのかは分からない。ただ言える事は、

男性は男を怪しんでいる。男の過去を。



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