その2
○登場人物
大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)
片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)
久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)
野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)
柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)
亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)
光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)
明朝、男は渋谷の高級マンションを訪れていた。良い獲物に会えた喜びもあり、気分
も珍しくいい。しばらくしてキャバクラから帰宅した女も雰囲気からそれを察し、そこ
を突こうと甘えを出す。男もそれに応じ、行為は白い光の差し込む部屋で続けられた。
男の制圧、女の喜色、一つに繋がった二つの肉体から欲が噴き出す。
行為が終わると、男は天井をどこということもなく眺めながら考えを巡らす。甘えて
くる女は適当に往なしておく。女は終わってからも男の体を物欲しげに毎度触ってくる
から。泡姫時代に嫌気が差したはずだが、血は男によって再び戻ってしまったらしい。
「そんなに俺の体が好きか」
「好き。大好き。独り占めしたい」
女は男の体を愛おしく抱きしめる。この体を自分だけのものにしたい。他の誰にも渡
したりしない。
「困った奴だな、お前は」
「困っちゃう、私も。離れられないんだもん」
男は泡姫の頃の女を知らない。女と初めて会ったのは今も働いているキャバクラだ。
男はそんな場所に興味はなかったが、別の興味があった。なので、この手の店に通って
いる会社の先輩に仕向け、良店に連れていってもらうことになった。そのときに男の隣
に座ったのが女だった。店での名前はしおり、今は光村沙耶として接している。最初は
今どきのギャルという印象だったが、よく話していくと客にうまく溶け込む術を持って
いると読み取れた。甘え上手の聞き上手、さらに容姿も口を挟むところはない。会話の
内容からも、客の立ち入った部分まで聞き出すことをしていることが分かった。それが
男の望む、別の興味の部分だった。この女は使える、そう判断すると男は女を口説きに
かかった。ミーハーなところのある女は男の外見に好印象を抱いており、その日のうち
に連絡先を交換する。それからメールでやり取りをしたが、女の文章が客に対するそれ
ではないことは分かりえた。すぐに電話でのやり取りへと変わり、会う約束を交わし、
初めてのデートで女の家で性交渉まで進んだ。女は泡姫の経歴を隠していたが、ある日
に男へ打ち明ける。隠していることが苦しくなるほど、男に嵌ってしまっていたから。
男はそれを咎めるどころか、変わらぬ態度を続けてくれた。それで、女の心は完璧に男
に持っていかれてしまった。
女は男を愛している。結婚したいと本気で思っている。将来の家族像を妄想すること
は日常茶飯事となっている。子供は二人か三人、いくつになっても愛情の絶えない関係
でいたい。そう切に願っている。ただ、女の希望には障壁が存在する。男は女を愛して
はいないからだ。女には真剣な恋でも、男には見せかけでしかない。この体を時間的に
遊ばせてやる代わりに、女の特性を利用させてもらう。それだけのこと。愛情は一方的
なものであり、女はそれに気づいてはいない。
「恵一、私のこと愛してる」
「あぁ、愛してるよ」
「どのぐらい」
男は考える素振りを見せ、女の目を見ながら告げる。
「どうにかしてやりたいぐらい愛してる」
その言葉に、女は鳥肌が立つほど感動を覚える。偽者の愛情を疑うことなく、感情の
深さを本望と抱きしめる。その欲が愛欲ではないと知らずに。
女は男の過去を知らない。女が知っているのは男の出まかせの情報だけだ。その裏に
潜む本性など知る由もない。もしそれを知ったら、女はどうするだろうか。恐怖に慄き、
必死に逃げ出すのだろうか。真逆に、それでも男から離れられないほど愛してしまって
いるのだろうか。
男は夕暮れ前、女が仕事場へ向かう時に部屋を出た。この日は休日だったため、ジム
や飲み屋で時間を過ごし、ほろ酔いで家に帰った。男は会社の寮に住んでいる。社員寮
といっても男性しかいないので、無意味なむさ苦しさが建物には充満している。住人の
平均年齢も高く、何という理由はないが汚らしいような錯覚も生まれる。部屋は狭く、
快適とは言いがたいが、男性の一人暮らしにはこれぐらいで充分だ。住み心地は悪くは
ない。労働時間の長い仕事なので、ここで暮らしている分は金は膨れていくばかりだ。
男は基本的に物欲に乏しい。愛欲にも飢えていない。その分は全て出世欲へと回って
いる。人間として高い位置、それが欲しい。今まで自分に傷を与えてきた奴らを見下し、
手玉に取れるだけの位置が。物欲も出世欲に繋げるための欲、愛欲も出世欲に繋げるた
めの欲、そう決めている。これまでの泥にまみれた人生の精算にはそれが必要だ。男は
瞑想を巡らせる。どうすれば、飛躍的に舞い上がる事が出来るのか。
日付の変わる前に寮の大田恵一の部屋の明かりは消える。その様子を遠くから眺めて
いる一人の男がいた。男は踵を返し、夜道を歩き出す。今日も何も変化は起こらない。
それでも、男はたまにこうして大田の動向を追っている。
男は刑事をしている。名前は亀谷右京。大田を追っているのには当然に理由がある。
それは彼が起こしたはずの過去の事件によるものだ。その事件は解決している。大田で
はない別の男性が逮捕され、加害者であることを認め、今も刑務所で罪を償っている。
だが、男はそれに納得をしていない。大田恵一が必ず事件に絡んでいると確信し、こう
して仕事外の時間に現れている。
過去のあの男の目は何かをしでかした目だ。現在の目はこれからを睨んだ目だ。あの
男はこのままでは終わらない、そう思っている。何かが起こってからでは遅い。未然に
食い止め、過去の過ちも浮き彫りにさせてやるんだ。そう決意した男の目は夜の闇に光
を放っていく。
昼下がり、空席のタクシーを走らせる大田に予約の連絡が届く。それはGPSによる
会社からの無線ではなく、男の携帯へと個人的に寄せられたものだった。年季の入った
ハスキーな声には機嫌の良さも窺え、男は手応えの有無を事前に予想しえる。
昼間から人通りの多い赤坂の名所近くへ位置づけると、約束の時間まではあったので
男は以前に手にした名刺を眺めていた。成功の空想を描いていると、車窓を小突かれる
音がする。助手席の窓を開けると、女性が軽い笑みを浮かべて立っていた。女性という
より、女の子と表現した方がいいような感覚を受ける。
「今、いいですか」
乗車をお願いする意味だろう。女の子がこちらに向ける笑みはなんとも可愛らしい。
ちょっと首を傾けてるあたりがそれを増しにさせる。
「すいませんが、予約のお客様を待ってるんですよ」
え~っ、と女の子は落胆する。隣にいる二十歳代後半にみられる女性と二言三言交わ
すと、再び助手席の窓から顔を出した。
「分かりました。すいません」
そう言い置くと、女の子は女性と困った表情を見合わせる。よく見てみると、女性が
二人で持つには過剰なほどの大荷物がある。男は腕時計で時刻を確認し、身を乗り出す
ようにして大きく声を掛ける。
「どちらまで行かれるんですか」
振り向いた女の子の告げた行き先は近場だった。車なら五分もあれば着くほどの距離
のところだ。
「いいですよ。乗ってください」
「えっ、いいんですか」
「はい。予約の時間まで少しあるんで大丈夫ですよ」
「やったっ、ありがとうございます」
女の子ははしゃぐように喜んだ。その笑顔は女の子の先にある太陽に見劣りしないだ
けの質を放っている。若さから成る輝きは侮れない。倍数に等しいほどの力を持ち合わ
せているのだから。
大荷物はトランクに積めて、車内にもいくらかを持ち込んだ。後部座席に荷物ととも
に女性が座り、助手席に女の子が座る。左隣から移ろってきたのは甘みのある香水の匂
いだった。
「ありがとうございます。ホントに助かりました」
「いえ、僕は普通の事をしただけですから」
女の子は言葉の通りの表情を見せている。言葉は弾み、表情は生き生きとしている。
このぐらいの年代なら、毎日が新鮮で楽しいのだろう。自分にはそんな時期はなかった
けれど、そっちが通常だ。
「近いんですけど、荷物が多いから車じゃないとダメだなってなって。でも、あんな
大荷物ぶらさげてタクシー待ってるのとか超目立つじゃないですか。だけど、ちょうど
いいところにタクシーがいてくれて。しかも、お兄さんみたいに超良い人でラッキーで
した」
「運がいいですね、お客さん」
「ホント、そうですよぉ」
よくいるタイプの若者といった感じだろうか。少なくはあるが、この年代の子を後ろ
に乗せることもある。運転手なんかにはまるで興味がなく、後部座席で携帯をイジって
いることがほとんどだ。話を耳にしていると、とても着いていける内容ではない。そう
しようとも思わない。もちろん、若者の全員がこうであるとは思っちゃいない。そんな
奴らのために、一部の優等生を同じ括りにするようなことはしない。そんなことしたら、
男まで昔はそんな括りの中の人間だったことになってしまう。
「ずいぶんな荷物ですね」
「そうなんですよ。重いったらないし。だからって、引きずったりできないし」
見たところ、大荷物の正体は衣類だと思われる。外から見えるものもあるし、トラン
クに詰めてあるものもある。二人に対してでは相当な量だ。買物や旅行の類による多さ
でないことは読み取れた。
「スタイリストとかじゃないですよね」
「違いますよ。自分で着る用です」
そうだろう。女の子は演者の側の人間だ。裏方の存在感ではない。華々しい場に身を
置く仕事をしているはずだ。
「私、スタイリストに見えますか」
冗談めかしく聞かれた。
「いや、スタイリストにしては可愛すぎるなぁって思って」
「うっひょ、可愛すぎるだってぇ」
男の煽てに乗り、後部座席の女性へと感情をひけらかす。女性は裏方の人間だろう。
単純に見て、華がない。
「ただ、洋服がとても多いんで」
「あぁ、これはプレゼン用なんです。私、モデルやってて。今度、ブランドとコラボ
する企画があって、そのプロデュースをするんですよ。それの会議が今からあるんです
けど、そのためのもので」
「ヘぇ、凄いんですね」
「いやぁ、まだまだ全然ですよ」
モデルか。身長が低めなところを見ると、ティーン系の雑誌だろうか。身につけてる
洋服やアクセサリーからしても、そんな印象だ。シンプルなところもあり、派手なとこ
ろもある。冒険をしたいが、枠を外れるのは恐れる年頃らしい。
「運転手さん、私のこと知らないですか」
不意に言われたので、虚に入られる。走行中なため、助手席の顔を確認はできない。
さっきまでに目に入った記憶から女の子の顔を浮かべる。どうにも、男の過去にそれは
無い。
「すいません。疎いもので」
「いいですよ、謝らないでも。私が出てるような雑誌、運転手さんは見てないだろう
から」
言葉から察するに、この女の子は男より年下の年代なら一般的に知られてるぐらいの
認知度の子なのだろう。確かに、煽てで使ったが「可愛すぎる」という表現は行き過ぎ
ではないと思う。男が女の子と同年代で、正常な人生を歩んでいたら間違いなく恋心を
奪われていることだろう。
「そうだっ。運転手さん、写メって撮ってもいいですか」
「いいですよ、そのぐらいご自由に。何を撮るんですか」
「運転手さん」
「僕の、ですか」
はい、と女の子は頷く。男には理由が掴めず、返答に迷ってしまう。
「どうして、また僕なんかを」
「ブログに載せたいんです。私、自分のブログも持ってるんで、折角だから今の事を
書きたくて。そんで、運転手さんの写真も一緒に入れたいんですよ」
なるほど、そういうことか。ブログというものは、なんとなく認識している。日々の
何気ない出来事を掲載したり、様々な情報伝達のツールとして流行している。著名人が
日記的な活用をしているのも知っている。だが、男にとっては現実味のないものでしか
ない。
「申し訳ないですが、それは遠慮させてください」
「どうして。損はないですよ。きっと、運転手さん目当てでタクシー乗る子とかいま
すよ」
「僕についても書くんですか」
「運転手さんさえよければ」
女の子の言葉はいやに通常的だ。現代の若者からすれば、こうして日常を切り取り、
見も知らぬ大勢の人間とそれを分かち合うことは普通なのだろう。深みのない欲求の共
有、そんな自由気ままな要求に引き出されるのは御免だ。
「すいません。やっぱり、僕のことを書くのはお断りさせてもらいます。仕事中の事
を書かれるのは、会社の事なんかも係わってきますし」
そっかぁ、と女の子の弾んでいた気は沈んでしまう。携帯を顎元にあて、なにか考え
ている。
「後ろ姿はダメですか。運転手さんが誰か分からないし、会社も分からないようにす
るから」
再び、女の子は食い下がってくる。何故、そんなにブログの掲載に固執してるのかは
分からない。女の子にとって、ブログはそれだけの価値のある事物ということかもしれ
ないが。
「何で、そこまで僕を載せようとするんですか」
「だって、運転手さん良い人だから」
「それだけですか」
「それに、結構格好いいし」
やはり、男の考える通りのようだ。感情の共有、深みはない。男には理解しがたいが、
おそらくはこれが世の通常なのだろう。
「分かりました。折れますよ」
「ホントに。いいんですか」
「はい。お客さんには負けました」
「やった。ありがとうございます」
写真は後部座席の女性に頼み、ポップな音とともに撮影された。別に、緊張はない。
自分は風景の一部、そう思えば気楽でいられる。主役でもなく、脇役でも端役でもなく、
あるのかどうかも定かではないほどの微小たる存在。有名モデルと対等に接しているの
ではなく、ただ姪の気まぐれに付き合わされている叔父の類。
写真が撮れたところで、目的地へと到着した。女の子と女性は改めて感謝を男に告げ、
大荷物を抱えて去っていく。名刺が欲しいと言われたので渡したが、意図は分からなか
った。
急ぎめに指定の場所へと戻ったが、客は二人で強く印象を醸す放送局の前に待ち構え
ていた。時間はあるからと突発的な客に対応したが、さすがに近場でも往復となると相
応の時間は経過している。
久留米雀とマネージャーは車に乗り込み、行き先に東京駅を告げる。新幹線で地方へ
また行くのだろうか。車が走り出すと、女は後部座席の窓を気持ち空け、タバコを吸い
出す。今日は喫煙の了承は取ってこない。一度取れば、あとは前に同じくというところ
なのだろう。
「少し遅かったじゃない」
「すいません。予約車の表示は出していたんですけど、高齢の方が乗車を求めていま
して。聞いたところ、距離も近めだったので送っていました」
大まかな内容は引き継ぎ、大荷物の若者という部分だけ高齢者に変更しておく。この
場合、こっちの方が情を勝ち取れる可能性は高い。
「あら、ずいぶんと優しいのね」
「いえ、そんなことはありません」
どんな態度を取られるかと警戒はあったが、年齢を熟してるだけあって冷静を保って
いた。女優という職業はそれこそ作品ごとに違う制作陣や役者と仕事をする。臨機応変
な性格が求められるはずだ。そこで一線を張り続けているということは、その能力に長
けているのだろう。若さゆえの暴走などはとうに過ぎ、自己を確立し、寛容な空間を生
み出す。
「正直、怒られるのかなと思って緊張してました」
「どうして。お年寄りの方を助けてたんでしょ。何を怒る事があるの」
「久留米さんほどの女優さんだと、我が強いんだろうなっていうのがあって。それは
決して自分勝手というんじゃなくて、長く人生を歩いてきたからこその自信という範疇
において」
「そんなことないわ。まぁ、そういう人もいるけどね。私は割と温厚な方だと思って
るわ」
それを聞いて安心した。この年代、この職業に有りがちなギラつきを放たれる女だと
多少やりずらい。だが、温和な女なら手なずけるのに難度は下がる。頭の悪い女に比べ
れば格は上だが、なんとか出来るはずだ。
「そういえば、この前の件は考えてもらえたかしら」
「この前」
「芸能の仕事をやってみないか、ってことよ。もう忘れたの」
「そんな、忘れるわけないじゃないですか。忘れようがないですよ」
すぐに折れる事はしない。軽くホイホイと着いていく人間と思われてはたまらない。
それでは、主導権は明らかに女に握られてしまう。そんな馬鹿な真似はしない。手綱を
握るのは男、馬になるのが女だ。そうなるよう、慎重に攻めていく。
「じゃあ、返事を貰えるわね」
「なんというか・・・・・・想像が出来ないんですよ、あまりに懸け離れた世界で。
さすがに、イメージも浮かばないような場所へ自分を投げ出すのはギャンブルが過ぎる
と思うんです。だから、お受けするのは難しいかなと」
さぁ、どう来る。そっちが大田恵一を好んでいるのは分かっている。そう容易く手を
放すのか、それとも縋ってくるのか。次の一手はある。それを出すのがどっちからか、
という問題だ。二十代のタクシードライバー、五十代の大物女優、どちらが交渉に打ち
勝つか。世間一般で考えるなら、勝負は見えている。だが、そんな温い考えに浸かって
いるようなら勝負は返してみせる。その自信はある。
「想像が出来ない、か。それはそうね。当然よ」
一つ間を置き、新たな展開を打つように続けられる。
「なら、単純に芸能の仕事に興味はあるかを聞いていい」
芸能、男の本心としてはその仕事に興味などない。そこに集まる人間に野心家が多い
印象はあるが、実際にテレビで見る番組に大したものは見当たらない。深い入口に入り、
どう抜けていけば出口があれだけ浅くなるのか見当もつかない。無くて支障のない番組
を消していったら、新聞のテレビ欄はスカスカになるだろう。そんな世界に惹かれるわ
けがない。
「興味が無い事はありません。あんな華やかな場所にいられたら幸せだろうなと思い
ますし。ただ、自分があそこにいる画が全然浮かんでこないんです」
「なるほどね」
女はしばし考えに耽る。タバコを何度か吹かしてたが、本人にその意識は左程ないだ
ろう。バックミラー越しにこちらの顔を見遣り、開口する。
「なら、形を変えるわ。私の運転手になる気はない」
「運転手、ですか」
「ええ。こうやってタクシーじゃなく、私個人の運転手として毎日の送り迎えをする
のよ。今の仕事よりも良い待遇を約束するわ」
隣にいる後者の女性に口を挟まれるが、女はそれを制止させる。
「どうかしら。悪い条件じゃないでしょ」
悪いどころか好条件だ。女の思いはしかと伝わった。開けている懐の分だけ隙が生ま
れているのに。
「何でまた、そんなに僕を気にかけてくださるんですか」
「あなたにはね、何か強いものを感じるのよ。こんなところで見も知らぬ人間の送迎
をさせておくのは勿体ない。ならば、せめて私の近くに置いておくわ。機会があれば、
仕事場にも呼んであげるから。現場を見ているうちに、芸能界に興味が出てきたら私に
言ってちょうだい。いくらでも、後ろ盾をしてあげるから」
女は男の気に惹かれていた。それがどんな種類の感情かを分けるには至っていなかっ
たが、心を揺さぶられるものがあった。この男は野放しにしておくべき人間ではない。
いつか何かを成し遂げる者の瞳をしている。そう直感し、側に置いておく事を選択した。
他の人間に盗られる前に、と。
「とても有りがたい話を頂いて、ありがとうございます。申し訳ないですけど、また
時間を頂いていいでしょうか。すぐには決められないので。こんなふうに言ってくださ
るのは本当に嬉しいんですよ」
「分かってるわ。それなら、数日経ったらまたあなたに予約を入れるから」
話はスムーズに男へと傾いてくれた。男から手を伸ばさずとも、女から伸ばしてくれ
るので楽に事は運ぶ。才能のある人間を惹くのは才能。男に備わる気を感じ、女は自ら
手を出さずにはいられなかった。男は勝利への自信を高める。この女は俺のものになる、
植えつけるように言い聞かせた。
車は目的地の東京駅へ到着する。女性二人の姿はそこへ消えていき、それを確認する
と男は両手で顔を覆って笑い出す。男の望むばかりの展開に進む現状に面白さを隠せな
かった。今はまだ飛ぶための助走の段階、気を緩めるのは好まれない。だが、思うまま
に駆けていける自らの足は機械のように正確に地面を踏みつけていた。
十七年前のある冬の夜、報せを受けた全ての者を戦慄させる事故が起こった。徳島県
の吉野川流域でキャンプの集会に参加していた十七人が焼死したという報道はその日の
トップニュースで扱われ、人々に居たたまれない思いを刻みつけた。
当時、現場を目にした時には悪い夢でも見てるんじゃないかと現実を疑った。こんな
惨事が有りうるのか、と眼前の光景を受け入れることは不可能に近かった。消防隊から
すると、現場に到着した時点で火は噴くように燃え上がっており、場所的にも消火活動
が難しく時間を費やした。刑事が現場に足を踏み入れる頃には、空よりも黒く焦げ尽く
された遺体や残骸が残されていた。奇跡を祈る気も生じない。祈りたいのは当然の思い
だったが、それがどれだけの無意味であるかを壊廃した跡が示している。さっきまでは
ここで楽しくキャンプに興じていたはずなのに、今は誰かも分からないような無残な姿
で運ばれていく。湧いてきた感情は悲しいというものではなく、儚いというものが近か
った。
その日、吉野川に集まっていたのは近くにある小学校に通う子供たちだった。引率の
教師の二人を除く十八人が参加。再来週に控えた卒業式を前に、みんなで思い出を作り
たいと決まったのがキャンプだった。夜に始まり、朝には終わり、教師も着いていくと
いうことで親御の了承も得られた。一人だけがインフルエンザでやむなく欠席となって
しまったが、合計で二十人が夜川に集まった。全員でテントを設営し、手分けして夕食
を作り、キャンプファイヤーを囲み、それぞれが楽しんでいた。そして、全員が寝静ま
った深夜に事故は発生してしまった。
キャンプに参加した二十人のうち、帰らぬ人となったのは十七人。そう、三人は助か
ったのだ。教師の一人、生徒の二人、いずれも無傷だった。教師は子供たちが勝手に出
歩く事のないように交代の見張り番をしていて、テントにはいなかった。生徒は寝つけ
なかったので二人で話していたため、早くに火の手に気づいて逃げる事が出来た。
平和で長閑な街に起こった衝撃的な事故は辺り一帯を悲しみで包んだ。それで終わる
のなら、事態は最悪のうちに幕を閉じただろう。悲しみはやがて憎しみとなり、怒りの
矛先は学校側へと向けられる。親御たちは学校と引率の教師を相手に訴えを起こした。
事態は泥沼と化してしまった。裁判の結果は迷うこともない。引率の教師は火事の時に
現場で居眠りをしていて炎に気づくのが遅れたのだから。生徒の証言もあり、言い逃れ
の仕様はなかった。勝訴によって、親御たちの心の溝は僅かに埋まり、学校側は立ち直
れない大打撃を食らった。
亀谷右京は自宅にある資料を読み返しながら、十七年前の記憶を起こしていく。あの
事故は未だに忘れることが出来ない。あの現場は今でもこの脳に焼きついており、定期
的に映し出される。男自身にとっても、忘れてはならないと決している過去だ。事故は
終わってはいないと思っている。いや、事故ではないのではないかと踏んでいる。そう
考える時、いつも浮かぶのはあの少年の瞳だ。
男は瞳を閉じ、窓外の景色を見据えていく。視界には何も映らない。瞳の内側に自ら
の記憶にある景色を映し出し、感慨に浸る。澄んだ空気、仄かな郷愁、溢れる自然、飛
び交う意気、何もかもが望むべきものなのに男はそれを己から廃れさせてしまいたい。
決別したはずの過去、なのに頭の片隅から捨て去る事が出来ない。片隅どころか、それ
はたまに脳内を汚染するように広がる時すらある。忘れられない影、忘れられない声、
それらが自分を苦しめる。一体、いつまでこの意識の中に居座り続けるんだ。そうだ、
金だ。金さえ手に入れれば。手に余るほどの富さえあれば、この悪しき記憶を捨てる事
ができる。自分を苦しめてきた物に満たされれば、精神は浄化されるはずだ。もう少し
で抜け出せるはずだ。
瞳を開くと、息が荒いでいるのに気づく。唇を噛み、気を正常に戻そうと落ち着ける。
ここは東京、都会の渋谷の一等地。あんな田舎臭い場所の欠片もない。飾られた男と女
が飾られた街を歩く景色に、過ぎた街並みの面影は存在しない。
「どうしたの」
言葉とともに、飾られた女の気配が舞い込む。男の体を後ろから包み、裸の肌をしっ
かりと密着させていく。女は自らを飾り、男を飾られたものと位置づけている。だが、
今の男は飾りの有無の狭間で揺れていた。
「汗掻いてるよ。何かあったの」
「どいてくれ」
「えっ」
「いいから、どいてくれって言ってるんだ」
強い言葉に女は怯む。ごめんと呟き、男から体を離す。男がその場から離れると、女
は裸のまま取り残された自身が惨めになった。視線を向けると、男は冷蔵庫から出した
硬水を飲んでいる。
この展開はたまに生じる。男が何かを思うように窓外を見つめ、側に寄ると怪訝にさ
れる。あまり感情を表に曝け出すタイプではないのに、その時はムキになるように怒り
を見せて女を冷たくあしらう。何に心を悩ませているのだろうと心配になるが、それを
訊ねてはいけない気を出されてるようで聞く事ができていない。大田恵一には心の傷が
ある。それが何であるかは分からない。それでも、女は変わらず男を愛している。傷の
内容を聞いてくれるなというのなら聞きはしない。私はあなたを想ってる、それでいい。
元々、影のある男性は好きだ。ただ、そんなことは関係ないほどに男に惹かれてしまっ
ている。
水を冷蔵庫に戻し、大きく息をつくと男はこちらに歩いてきた。男の裸は文句のない
素敵な美だ。筋肉は付き過ぎていない程よくで、腹も筋が確認でき、肌も一切の汚れが
見当たらず、容姿は言うことがない。この体にさっきまで抱かれていたんだと思うと、
それだけで浮かんでくる感情がある。
「悪かった。ごめんよ」
そう女の耳元で囁き、孤独になっていた体を抱きしめる。温かさは体内にまで沁みて
いき、心まで伝わっていく。
「うぅん、全然いいから」
それで女は満たされる。簡単に動く純な女の感情は、愛のない男にとって利用すべき
ものでしかないのに。




