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黒く滾る炎  作者: tkkosa
2/12

その1



○登場人物

  大田恵一・おおたけいいち(タクシードライバー、野望を携えて生きる野心家)

  片柳彩子・かたやなぎあやこ(モデル、今どきの十代で分かりやすい性格)

  久留米雀・くるめすずめ(女優、誰もが一目置く大物)

  野木晃彦・のぎあきひこ(大田の学生時代の同級生、既婚で子供もいる世帯主)

  柴村忍・しばむらしのぶ(週刊誌記者、久留米の連載を担当している)

  亀谷右京・かめやうきょう(刑事、大田と過去に接してから後を追い続けている)

  光村沙耶・みつむらさや(キャバクラ嬢、名の知れた有名店でナンバーツーを誇る)





 男は雨に好嫌を抱いている。好きでもあるし、嫌いでもある。捉え方の側面により、

好みは真逆になりうる。何も難しいことではない。誰にでも、雨を望む日があり、晴れ

を望む日がある。要はそれだ。

 ちなみに、今はというと「好まない」に属する。理由は簡単だ。勤務中だから。

 仕事はタクシードライバーをしている。といっても、老齢ではない。むしろ、若い。

二十八歳、この職業にしては珍しいほどの低年齢だ。周りからは驚かれることもある。

別に、他に働き口がなかったわけではない。何か訳ありなのかと疑われもするが、それ

は否定している。訳ありはその通りだが、そこからここへ直結したことが違う。やろう

と思えば、いくらでも大手企業に潜り込むことは可能だ。磐石に出世の道を歩む自信も

ある。こんな冴えない職業をしてるからには当然に理由がある。

 雨は作夜半から降り出し、朝になると雨足は増した。雨そのものが嫌いではないが、

仕事に差し支えるのは勘弁だ。気分も萎えてくる。沈みそうにもなる。頭に、肩に、腕

に重りを乗せてるような心的苦痛を伴う。

 こんな日は死んでしまいたくなる。いっそ、この呪縛を解いて楽になってしまおう。

自由だ。俺は自由なんだ。そう己に叫ぶ。進行はそこで停止をする。残念ながら、まだ

死ぬことはできない。俺には果たさなければならないことがある。

 溜め息を繰り返し、雨道をゆっくりと走っていく。会社の車は乗り心地がいい。他人

の所有物であることが変な緊張感を打ち消してくれる。この車に愛情はないし、会社に

もない。

 時刻は正午を過ぎた。あと五分も客がつかまらなければ昼休憩にしよう。大概の昼食

は弁当屋の温かいものに頼るが、今日は気分転換でもしてみようか。喫茶店の軽食など

いいかもしれない。ああいった類はたまに無性に食べたくなる。食欲というやつか。食

に一切のこだわりはないが、人間である以上はこうした欲も衝動的にやってくる。そう、

俺は人間だ。人の体に魂を宿した悪魔の化身、そんな表現が合う。

 そう考えてると、大通りの左手から適度なアピールをする姿が見受けられた。客だ。

 「はぁ、今日は降ってんなぁ」

 車内に足早に入り込んだ客の第一声は男に向けられたものではなかった。独り言だ。

独り言を独り言の音量を超えて発する人間は意外に多い。こちらに話しかけてるのかが

判断しにくい時もあり、非情に困る。一人で処理するのなら勝手にやってもらいたい。

巻き込まれたくはない。時間の無駄だ。

 「どちらまで」

 行き先を軽く促す。僅かに体勢を後ろに向けるが、軸はそのまま。ドライバーと客の

距離感をそこに示す。体は捻るが、体ごと回しはしない。そんなに客に対して好意的に

出ることはない。この関係は仕事上、あくまで数区間のメーターの元に成り立つもの。

馴れ馴れしくしたり、愛想笑いを振り撒くことは極力避けたい。個人的な意思もあるが、

余計な馴れ合いで関係を狭める意味もないと思う。金を払う側と貰う側、そこに図式は

完成されている。それ以上に上下関係を如実に表すことはしたくない。

 「ヒルズ、行ってくれるか」

 六本木か、ここからなら十五分もあれば行けるだろうか。

 新宿近郊を出発し、車は雨を滴らせながら緩めの速度を保つ。車内には雨音とともに

ラジオが流れている。普段は消しているが、客がいる時は電源をいれる。客が聞いてる

かどうかは別にして。

 「雨、ずっと降ってんなぁ」

 「そうですね。止みそうにもないですよ」

 客からの言葉には当然反応する。愛想笑いも浮かべる。相手がバックミラーを通し、

こちらの表情を見ていることは知ってるから。悪い印象を与えはしない。程ほどにだ。

対人関係はそれに限る。

 「おたくはいいなぁ。雨に降られんでいいから」

 「そうですね。助かります」

 客は派手に笑い、男も同じ程度に笑う。こんな乗りのいい客もたまにいる。大抵は仕

事に疲れ、当てもなく窓外を眺める人間が多い。景色を見たいわけでもなく、都会の流

れを客観的に見ているだけだ。毎日そこで戦っている自分の休息、傍に存在を移すこと

で感情に浸ることができる。

 「こっちは大変だよぉ。これから戻って、すぐ仕込みにかからないと」

 「飲食店でもやられてるんですか」

 仕込みという言葉にピンときた。職業柄、様々な人間と接する機会があるので人物像

の判別にはいささか慣れている。少々の小太り、穏やかな人柄をみるところ、中華料理

屋の主人と思える。

 「あぁ、こう見えてもねぇ、店を持ってるんだよ」

 「本当ですか。凄いですね」

 店を持ってるということはオーナーシェフか。ヒルズってことは、相当腕のいい人物

なんじゃないだろうか。六十歳の手前、この語調からも人の良さが窺える。

 男は心にあるモードを切り替える。奥に眠る悪魔が顔を出す。

 「六本木ヒルズに店を持たれてるんですか」

 「そう。割と繁盛してるよ。明天家っていう店、知ってるかな」

 「知ってますよ。名店じゃないですか」

 「名店か。それは嬉しいな」

 明天家といえば、多くの人間が一度はその名を耳にしたことのある名前だ。本場さな

がらの四川料理が人気を博している。そのオーナーシェフが今ここに、俺の後ろにいる。

こんなチャンスを逃さない手はない。

 「一度だけ、食べに行かせていただいた事があるんですよ」

 「本当かい。君みたいな若い人が珍しいな」

 嘘ではない。男は偶然にも明天家で食事をしたことがあった。美味しいものを食べさ

せてあげる、という裏の魂胆の見える女の財布で。ここでそれを明け透けにすることは

しないが。

 「いえ、僕も上司の奢りで連れてってもらっただけで。あそこの料理は何を食べても

素晴らしかった」

 「おいおい、お世辞かい」

 「そんなんじゃありません。素直な気持ちです」

 「そうかい、それならこっちも素直に受け取っておくよ」

 客は上機嫌だ。男の言葉に気を良くしている。攻めるなら今だ。

 「ただ・・・・・・」

 「何だい」

 「いえ、何でもありません」

 男は言いかけた言葉を噤む。無論、初めからそのつもりで。相手がそれに乗っかって

くれば、ペースはこちらのものだ。

 「途中でやめるなんて気持ち悪いじゃないか。いいから言っておくれ」

 掛かった。人は会話の歯切れの悪さに違和感を覚える。それが自分に関わることなら

尚更のこと。

 「気にしないでください。僕みたいな若僧の思うことなんて、きっと大したことない

ですから」

 「いいや。そういう意見こそ、是非聞いてみたい。教えてくれないか」

 「じゃあ・・・・・・よろしいでしょうか」

 うん、と客は頷く。車はちょうど赤信号で停止した。男は申し訳なさそうに言葉を並

べていく。

 「接客でいくつか気になったことがあります。若い男性店員が髪型を気にして触って

いて。その後、その手を洗うことなく物に触れていたことに幻滅しました。女性店員同

士が談笑している場面も何度か見られました。あれでは、客が声を掛けにくいかもしれ

ません。あと、水を客が頼む前に積極的に注いでくれるのはありがたい心掛けですが、

グラスに水がなくなってから注ぎに来ることが多く見受けられました。どうせやるなら、

水はグラスの半分以下になった頃には注いでもいいと思います。四川料理ですから、水

の減る量も必然として多くなりますし」

 男の発する言葉はどれも的を得ていて、客はその様に引き込まれた。どこの馬の骨か

も分からない運転手の若者が一度来ただけの店をこれほど捉えていることに感心の一手

しか生じてこない。

 信号は青に変わる。男はそれに気づき、車を再び走らせる。

 「すいません。今言ったことは忘れてください」

 「何を言ってる。とても参考になる意見だったよ。オーナーといっても厨房にいるこ

とがほとんどだからね。接客についてはフロアマネージャーに任せてるんだ。君の意見

は大変参酌にすべきものだ。ありがとう」

 客の真っすぐな言葉に男は恐縮する。

 車道の上から伸びる看板が六本木に入ったことを示す。車はまもなく目的地へ着く。

 客は名刺を差し出し、男に感謝を述べる。名刺には確かに先の通りの肩書きがあった。

自分の手を開くには充分の人間だ。

 「またウチの店に食べに来てくれないか。君のような人には是非とも来てもらいたい

んだ」

 「そうですね。ただ、僕みたいな庶民には近づきがたくもありますけど」

 「なぁに、ろくに味も分からないくせに金だけ持ってる人間よりも余程マシだ」

 「ありがとうございます。機会があったら、伺わせていただきます」

 車は目的地へ到着し、料金は表示額より多めの札をもらった。情報提供料だからと、

お釣りはいらないと言われた。遠慮がちに男はそれをポケットマネーへとする。

 「そうだ。君の名前を聞いておこう」

 「僕ですか。大田恵一といいます」

 客は満足気にヒルズの高級観へと紛れていった。男は名刺を片手に揺らしながら雨空

へ掲げる。思わず、奇妙な笑みがこぼれていった。


 仕事が終わった夜中、男は渋谷に向かう。泣き続けた雨雲は、この頃には小降りに変

わっていた。黒傘を差して歩くと、その先から適度に雫が垂れていく。まるで、雨雲に

つられて傘まで泣いているようだ。そうか、お前も悲しいのか。奇遇だな、俺も悲しい

んだ。悲しくて悲しくてたまらないんだ。こんな不定な感情、どこかに捨ててきてしま

いたいけれどダメなんだ。俺はこのやりきれない思いを抱えて生きることを決めたから。

忘れてはならない過去を背負って。

 なぁ、雨雲よ。お前はどうして泣いてるんだ。

 渋谷の高級マンションの一室に着くと、合鍵を使って中に入る。そう、この部屋は男

のものではない。所有者は今は不在なのは知っている。男は荷物をリビングに置き、体

をシャワーで洗い流していく。一日の膿を落としながら、自己と見つめ合う。外部の汚

れが消え、現れる内部の本性。その卑しさが本物の自分であることの確認。

 俺は汚い。心の曲がった歪な人間なんだ。

 風呂上りに硬水を口に含ませ、窓から外観を見下ろす。すでに明け方となり、辺りは

白く透けた世界が芽吹きだしている。毎日変わらず訪れる世界、不秩序で不調和な欲望

の彷徨う世界。俺はここで生きている。そして、俺も例外になることなく危険な世界の

一片となっている。ただ、一片だけで終わる人生など送るつもりはない。俺はこんな廃

れた集団に埋もれる逸材なんかじゃない。一片どもを踏み倒し、伸し上がるべき人間な

んだ。

 「あっ、来てたんだ」

 インターホンとともに、女は部屋に入ってきた。男を視界におさめると、表情は急に

明るくなる。女はこの部屋の所有者だ。二十五歳、男よりも年下になる。それが何故、

こんな身分不相応と取れる部屋に住んでいるのか。答えは簡単だ。それに見合った金を

持っているから。

 「ずいぶん変わった趣味の男とご帰宅だったな」

 「違う。あれはアフターに強引に誘われたから。結構良いボトルとかオーダーしてく

れる人だし、断りきれないの。そうでなけりゃ、誰があんなもっさい奴なんかと一緒に

いるのさ」

 女はキャバクラで働いている。それも、そこそこ有名といえる高級店で。その業界に

どっぷり浸かってしまってる人間なら、おそらく名前を知っているであろうレベルだ。

女はその店でナンバーツーの座に就いている。元々持ち合わせている美貌に加え、甘え

上手の聞き上手。女性関係に苦労している男性ならば、一発で勘違いしてしまうだろう。

そして、今さっきマンションの下で女の隣にいた奴もその中の一人になる。見た感じは

五十代、スーツから窺うに役員クラスの会社員といったところか。収入はそこそこにあ

るし、家族も養えているが、異性に対しての胸の疼きがどうにも欲しい年齢なのだろう。

男としての機能、その最後の悪あがき。惨めな分、哀れみで許してやりたくなる。

 女は後ろから近寄り、男の裸の背中に身を寄り添わす。

 「私が愛してるのは恵一だけだから」

 息を吹き掛けるような柔な声を背に伝える。頬をそっと擦りつけ、唇を何度かつけ、

男の体に回した両腕の指先で胸から腹部あたりを摩る。愛撫に入ろうとする女の両腕を

掴み、解いて下げる。

 「疲れてるだろ。無理しなくていいよ」

 「そんなことないよ。恵一がして欲しいんなら頑張るし」

 そう言い、男の乳首を捏ねくる。女は異性の乳首が好きらしい。遊んであげれば素直

に反応し、突起してくる様が愛らしいと言っていた。自身についても、そこが性感帯と

主張している。なので、性交渉の時には入念に攻めることにしてる。女はなんとも言え

ない喘ぎ声を届けてくれる。性器も同じ変化を起こすが、過去の経験から嫌気が伴って

いるようだ。女はキャバクラの前に泡姫としても働いていた。数ヶ月の期間だったが、

毎日数人の性器を感じさせることが嫌になって辞めたらしい。元来、そんなところに格

好のいい男性なんて来るわけもない。応対するのは年齢もいき、不潔さも備わった奴ら

ばかりだ。そんな性器を触り、舐め、口に含むことに抵抗感を憶えるのは普通といえる。

女はそれから本番のないキャバクラの仕事に移り、そこで成功をおさめた。泡姫時代の

客も来てくれるようで、出だしから女の成績は伸び続けたようだ。

 「仕事の後は眠った方がいい。休みになったら、いくらでもしてあげるさ」

 「はぁい」

 不貞腐れぎみな女の頬を手のひらで撫で、唇を奪う。強気に押しつけていくと、気が

高揚したような声をあげていた。女を手なずけるぐらい簡単なものだ。異性としての武

器を最大限に使えばいいだけのこと。


 男は仮眠をとり、七時前には女の部屋を出た。自宅にも戻らず、会社に向かうため。

タクシードライバーは勤務時間が長い。実働だけでも一日で十五時間近く、事務や洗車

なども含めれば大した重労働になる。運動量は少ない職種だが、あの座席にそれだけの

長さを過ごすのも労力は問われる。慣れないうちは気が滅入ることも多い。それでもこ

の仕事を続けるのは相応のメリットもあるからだ。昨日の一件が例になろう。ヒルズの

明天家のオーナーシェフ、あんな出会いはそうそうあるもんじゃない。男が平穏に普通

の人生を送っていれば、おそらく無かったであろう関係だ。不思議なもので、物事とい

うのは強い信念に共鳴されるところがある。普通の男には普通の人生があり、そうでは

ない男にはそうではない人生がある。男の願いには数奇な巡り合わせが必要だ。そして、

それを強固に望む人間にそれは訪れる可能性が高い。

 男は過去を秘密にしている。隠すべき過去がある。悲惨な人生を送り、選び、二度と

そこに戻らぬことを決めた。環境による拒否権のない己への罰、自らの手で下した他へ

の罰。それを忘れず、心に刻んだまま生きてきた。忘れようにも忘れることなど無理だ。

だから、深く深く刻みつけた。傷の深さがバロメーターとなり、この体の内側を幾度と

なく叩く。伸し上がれ、どんな手を使ってでも。そう叫んでいる。

 悪魔に魂を売った男に恐いものなどない。男を踏み、女を抱き、人間を騙す。選択肢

は少なくていい。進むべき道は決まっているのだから、余計な迷いは必要ない。知恵と

情報に長け、残酷な判断を下せる者に勝者の切符は渡る。下手な正義感を翳し、聖者の

フリをしている者が勝つことのできない不条理な世であることぐらい悟っている。その

道を渡るために、今は地味な仕事を地道にこなす日々を選んでいるのだ。


 白い靄を粧し込み、太陽が光っている。我を主張するその様は悪くない。民衆に期待

されながら、雲に邪魔されることも多い。主役だが絶対的ではない。弱さを見せること

は好感を呼ぶ。太陽が女だったら惚れてるかもしれない、そう思った。おそらく、男を

惑わす存在のはずだ。自分に通ずるものがあり、共感が生まれる。

 連なる建物の数々の流れは気持ちを固くさせる。都会はこんなにも刺激的なのに、ど

こか中身の無さも感じる。執拗に飾りすぎ、内容が伴っていない部分もある。様々な関

係が詰まってるのに孤独感も否めない。楽園の集合体のような場所なのに不快でもあり、

情報が飛び交っているのに不都合でもあり、それぞれが自己をこれでもかと発信してる

のに不思議でもあり、ありとあらゆる物が揃っているのに不自由でもあり、大抵が底を

つくような生活を送っていないのに不機嫌でもあり、普通な望みなら大概が叶えられる

のに不平不満を漏らす。全員が独りぼっちなんだ。単体が複数いるだけの淋しい世界、

そうでしかない。我光ると燃える太陽だってそうなんだ。

 そう考えてると、大通りの左手から適度なアピールをする姿が見受けられた。客だ。

女性二人、一方は五十歳代とみられ、一方は四十歳前後とみれる。前者は全身を高級品

でどうだと言わんばかりに着飾った貴婦人のようで、後者は適度に洒落込んだ洋服だ。

明らかに、前者が主役、後者が引き立て役。それを両者ともが理解し、納得している。

 タクシーに乗り込んでくる様で存在感の強さが分かりうる。前者の醸し出す気は一般

のものとは違う、奇抜で重みもある静かなものだ。後者は前者になぞらえるようにし、

前者の存在をおろそかにしないための振る舞いをする。この女は一流だ。男はそう直感

を働かせた。

 「どちらまで」

 行き先を軽く促す。

 「東京駅まで行ってちょうだい」

 言ったのは後者の女の方だった。そうだろう、それは引き立ての役目だ。前者の第三

の手足となり、第二の頭と目を利かせる。完璧な裏方になる事で能力を際立たせ、前者

を投影した縁に自身を映し込む事で己の存在を確立させる。曲折的ではあるが、こんな

人間はごまんといる。上に立つ者の参謀としての役割を担い、それに全力を投じ、そこ

に才能を見い出す者もいる。それは時として、上を脅かすほどの仕事をやってのける場

合もある。そう、人間は決められた日々を脱却し、逆転をする可能性も秘めている。だ

からこそ、人生というゲームは面白い。

 「十三時二十分発の新幹線に乗ります。しばらく時間が空くので、駅で昼食を摂りま

しょう。あと、先方様へのお土産も何か買っていきましょう」

 後者の女の言葉に、前者はそうねと返す。言い慣れたようなやり取りに、常日頃の二

人の会話なのだろうと察する。新幹線で行くのは大阪か福岡だろうか。それ以外もあり

うるが、そこら辺が考えやすいところだ。

 男は女のことを知っている。無論、前者の方を。過去に交流があったわけじゃない。

男が一方的に女のことを知っているだけだ。女の方は男のことなど知る由もない。映像

を通し、女の記憶が脳にインプットされているのだ。女は役者をしている。年齢からも

予測できるだろうが、熟練の域に達した位置にいる。ミーハーな面のない男でも一発で

分かりえるだけの大物女優だ。作品にのみ限らず、情報番組や報道番組でも顔を見たり

する。男はどちらかといえば、そっち側で女を拝見する事が多い。点を突くような発言

は聞いていて口角を上げさせられる。

 この女を手なずけさせたい。男はそう腹を動かした。表には出さぬ悪考が蠢き、全身

に漲っていく。こんな、またとない好機を見逃すわけにいかない。この短時間の密室な

空間の中で勝負を決す。おそらく、相手は中々に手強い。ただ、そんなことに怯む自分

じゃない。やってやる、決めてこその咲花だ。

 「ねぇ、お兄さん」

 きっかけは意外にも女の方からだった。どう攻め出していくかと倦ねる中、手は相手

から差し出された。

 「はい。何でしょう」

 語調は普通を心掛けた。接客業における普通は幾分か足される部分もあるが、過ぎる

ことのない程度の爽やかさで。緊張はしていない。映像で目にしていた人物を車に乗せ

ている事ぐらいで浮かれたりはしない。そんな事をした時点で、そこに明らかな優劣が

出来てしまう。自ら墓穴を掘るようなマネはしない。

 「タバコを吸ってもいいかしら」

 「はい、もちろん。そんな事、お聞きしないでいいですよ」

 「そう。吸われるのが嫌な人もいるだろうから、一応聞いてみたの」

 「そうですか。すいません、お気遣いいただいて」

 バックミラー越しに女と目が合う。少しばかりの笑みも付属されていた。女は後部窓

を開け、タバコに火をつける。その行為は女の体に馴染んでいて、その姿は様になって

いた。

 男はタバコを吸う女が嫌いだ。男が吸うべきものと差別するつもりはないが、女性に

はどうにも合わない気がする。格好をつけてるようにしても、様にはならない。それは

元々に備わっていない要素なのだと思う。長髪の合う男性、筋肉質の女性、そんな感じ

に需要も供給も少ない。例外も当然にある。格好がよければいい。それを満たす者には

一切の文句はない。そして、女はそこに適っていた。

 「お兄さん、タバコは吸うの」

 次の一手を考えていると、また女からの手が伸びてきた。都合よく事の進む状況に男

も惑うが乗らない手はない。流されないよう、流れに着いていく。

 「気分次第ですね。吸う人と一緒にいれば吸いますし、吸わない人となら吸わないし。

一人でいる時もそのときの心持ちで変わります。あまりタバコに執着はないんで、無い

なら無いでも構わないっていうぐらいですかね」

 この言葉に嘘はない。男にとって、タバコは気休めか武器ほどでしかない。吸ってる

様に色気を感じるという女が相手なら何本でも吸うし、明日から法律で全面禁止される

というなら特に意見はない。

 「そう。似合いそうだから、もっと囚われた方がいいわよ」

 「そうですか」

 「そうよ。お兄さん、中々綺麗な顔立ちしてるじゃない。もう少しワイルドに男臭く

したり、格好つけたりしたら結構良い男になると思うわよ」

 「そんな・・・・・・俺なんか全然ですよ」

 わざと萎縮してみせる。相手のペースに巻かれてるフリをし、こちらの間合いに入れ

込む。上下関係は成立している。車内の二人の女性のように。ただ、それをどう利用す

るかは本人次第だ。牙を剥き、上を食ってのける逸材の下位もいることを心得ていなけ

れば、それは下にとってはやりやすい限りになる。

 「お兄さん、モデルか演技の経験は御有りかしら」

 「いえ、そんなのあるわけないじゃないですか」

 「勿体ないわね。折角の素材なのに活かさないとダメよ」

 男は魅力的な顔をしている。世の人間の十中八九は彼を男前と判断するに違いない。

それも、周辺にいるような仲間内のレベルではない。この男には何かがある、と思わさ

れてしまうものがあるのだ。それはこうした一般社会の中に紛れていようと、分かる者

には分かってしまう。感性の鋭い人間は同じ類の者を察知する嗅覚があるものだ。

 「ありがとうございます。お客様にそんなことを言っていただけるなんて光栄です」

 「なにもお世辞で言ってるんじゃないのよ。私、そういうことを言うの好きじゃない

から。お兄さんはこんなタクシードライバーなんかでいちゃいけないわ。どうかしら、

芸能の仕事に興味は」

 「芸能・・・・・・ですか」

 「私のこと、知ってるでしょ」

 「はい、存じてます」

 女の名前は久留米雀だ。今まで気づいてる様子は出さなかったが、最初からもちろん

認識している。客のプライバシーを詮索することはしない。相手から開放するまでは。

 女は二本目のタバコに火をつけた。後者の女は前者の女の話に口を挟んではこない。

暗黙の中で二人には通じている何かがあるのだろう。出るべきところ、そうではないと

ころ、それが出来上がっている。

 「あなたは磨けば光る。だから、お兄さんにその気があるなら私がサポートしてあげ

るわ。人脈は広いから心配しないで」

 男は言葉を失くす。返答は決まっている。あくまで、悩んでいる仕草をバックミラー

越しに女に届けているだけだ。流れる会話の一つにすぎないが、それは男の人生を左右

させるだけのこと。即答などするはずはない。そんなことするのは、余程の自惚れ屋か

頭の悪い人間だろう。

 「すいませんが、今すぐに返事できる内容じゃないというか」

 「まぁ、そうね」

 言いあぐねる男の気持ちを察したように女は早い言葉を投げた。女の側からしても、

放った餌に難なく引っ掛かる素材に用はない。自分が名の通った女優だから安心だろう、

と楽観した人間に興味はそそられない。

 前者の女は後者の女に言い、久留米雀の名刺を男に渡させた。

 「返事はいつでもいいわ。気が変わったら、そこの電話番号に掛けてちょうだい」

 女から要求を受け、男も自分の名刺を渡した。

 「大田恵一ねぇ、普通の名前だこと」

 「すいません」

 「いいのよ、自分で決めるものじゃないんだし。私もね、芸名なの。本名は教えない

けど、いたって普通よ。親からみても、子供の一生に係わる事だから無難な選択をする

んでしょ」

 車は目的地へと到着した。伝統的で古調な建築と未来的で新調な建築が周囲に並んで

いる。人の往来は激しく、平日の昼間とは思いがたい。その渦の中へ、後部座席へ乗っ

ていた女二人が巻き込まれていく。都会の人間はよくもあんな不規則な流れに対応して

いけるな、と思う。あの中に放り込まれれば、男なら吐き気を催す。いつからか、孤独

に身を寄せる生活を安息としてしまっていた。抜け出すのは困難な絡みに嵌って。抜け

たいと思ったことなどないが。

 女は去り際、催促の言葉を残していった。男はそれに作り笑いで応える。当然に似た

展開だが、全て男の思い通りに事は運んでいた。回答を先延ばしにしたのは次の展開へ

繋げるため。結果、女の名刺を手に入れることが出来た。並みの暮らしを続けていて、

こんな転機の出会いをする可能性など皆無に等しい。大物女優と会い、スカウトの誘い

を受け、連絡先を知る事など。

 男は自らの成果に笑みをこぼし、太陽へそれを向けた。



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