保健室の鞠江先生とナイチンゲールさん
体育館から保健室に直行して、ぼーっとカーテンに覆われたベッドに座っていると、カーテンの向こうで『はいはい、いい感じに納めとくからもう出てってちょうだい』と洋画の吹き替えみたいないい声がした。
そのあとも杉元先生が何か続けて喋る声が聞こえたが、がらがらピシャンと引き戸を閉める音を最後に部屋はしんと静かになった。
一瞬の間の後イイ声が『入っていいかしら?』と聞いたので、私は慌てて『はい』と返事をした。
イイ声の主は保健の鞠江先生で、彼女?は私の腕にビリビリとマジックテープの布を巻いていく。
先生はスマートウォッチをつけてる左腕を避けたのか、右腕を選んでくれたので腕時計が目に入らなくてそんな些細な気遣いが嬉しかった。
鞠江先生は謎が多い。『保健の先生です』って紹介されるより『柔道の師範です』って紹介される方が違和感がないくらいガタイがいいし、腕も私の3倍くらいある。
でもいつもいい香りがするし、服も口調も女性的で、髪は頭の後ろで美しく結ってあって、でも顎には立派な髭が生えてる。だからたぶん男性のはず。
仮病には結構厳しいと噂で本当の急病人以外寄り付かない保健室だけど、私はこの先生のこと嫌いじゃない。
去年も保健係をやって、何人か怪我人の付き添いで来たけど、怪我人にはものすごく優しいし(怪我人は見た目に圧倒されて目を白黒させてるうちに治療が終わるし)、なんかいつもパリッとした白いお洒落なシャツに黒のパンツを着こなしていて見ているとシャキッとした気持ちになる。
今日もお洒落な鞠江先生を眺めている間に、腕に巻きつけられたゴワゴワした布はマジックテープで固定され、ポンプでシュッシュっと膨らませた布で腕が圧迫されていく。
『痛くない?』
鞠江先生は優しい。ごく数人の生徒の間では『鞠江』という苗字をそのまま『まりえさん』と呼んでる子も多い。
圧迫がぎゅーぎゅーになったところで、プシューと気の抜ける音がして
先生が機械の画面をじっと見てる。
『頭が痛くなったり気持ち悪くなったりはしていない?』
『少し』
私は鞠江先生の質問に素直に答える。
鞠江先生はサッと立ち上がると白衣を翻して奥に姿を消すと、すぐ戻ってきて何故かワカサギ釣りのおじさんが刺繍がしてあるレースのハンカチに包まれた温かいカイロのような物を手渡してくれた。
『これ温かいから手に持ってて、落ち着いてくるから』
温かいものに触れていると、指先がピリピリしてきて自分の手がとても冷たくなっていたことがわかった。ハンカチからほのかに清涼な香りがして、波立っていた気持ちがゆっくりと静かになっていく。
すっかり手がホカホカになったので鞠江先生にハンカチを返そうとしたけど
『それ手放そうと思ってたやつだからあげるわ。大役を押し付けられちゃった貴女への餞別。帰りも気分悪くなったらそれ使って。』
と言われてそのまま渡されてしまった。
温かさにふやけていた脳みそに時間差で情報か入ってくる
“大役を押し付けられちゃった貴女”
そしてフラッシュバックする藤尾さんの
“一生誰にも言うなよ”
反射的に鞠江先生の方を見る
そこには弱みを握った悪魔の如く冷徹な微笑みを浮かべた鞠江先生が、
いるわけもなく
平常運転でため息をつく鞠江先生がいた
『あたし、ちょっとだけ国家にツテがあったせいで学校で唯一の関係者なのよ。他言しないものすごい重い契約もしてあるから、安心して。他の先生方は知らないから先生でも話しちゃだめよ。学校で困ったら体調不良のふりして保健室に来ればいいわ。』
国家にツテがある養護教諭の先生なんて、そうそういないだろうけど、鞠江先生くらい不可思議な要素が多いとなんだかそんなこともあるのかなと納得してしまった。
1人でも知っててくれる大人が居ると思うと、身体って調子のいいもので、急に狭まっていた喉が広がって息が楽にできるようになる。
『緊張で血圧が一時的に下がったのかも。少し横になってなさい。もう少しするとお母さんが来てくれるみたいだから。』
鞠江先生はかがみ込んで私の上履きを脱がせてくれて、白い枕をポンと叩いた。
身も心もへとへとだったので、大人しくぼすっと寝転んだ。保健室の布団は家のより冷たくてカサカサしてるけど今はその冷たさが頭をスッキリさせてくれる。
『お母さん、呼んだんですか?』
寝転がったままで顔だけ布団からだして鞠江先生に質問した。
『コトがコトだからね。一旦お家に帰っていいみたいよ。ちなみにちゃんとお母さんには伝えてあるから大丈夫よ。』
仕事中のお母さんを呼び出した後ろめたさと、もうすぐお母さんに会える安堵感が一緒に襲ってきて気持ちはどっちつかずだ。
寝転んだ私の手首の方に鞠江先生が視線を送る。
『腕のやつ、一旦外せないの?嫌でしょ?』
それとは聞き返すまでもなくオムニアのことだろう。
私はもちろんと全力の同意で力強めにコクコクと頷く。
鞠江先生の太い指がオムニアに伸びてきたその瞬間、本当にごく僅かにオムニアが軽く振動した。
『すみません、触らない方が良いと思います。』
落ち着いた女性の声が、布団の中の私の手首から放たれた。
私は慌てて布団から腕時計の巻かれた手を引っ張り出す。
『あなた、誰?体育館で話していた方とはまた違う人?』
固まる私とは裏腹に、鞠江先生は至極冷静に腕時計に問い返した。
『突然の発言する申し訳ありません。私はオムニアの中の1人、コードはナイチンゲールと言います。
志乃様の心拍数と呼吸数が不安定になったため、私が観察させてもらいました。』
『え、ナイチンゲール?だめだわ、突っ込んでると、長引きそう…。で、どんな感じなの?』
『一時的なバイタルの変動はありましたが、今は問題ありません。貴女の適切な看護対応のおかげだと思われます。』
『なるほどね、そこにくっついて白田さんのバイタルチェックまでしてるってわけ。それってプライバシーもあったもんじゃないわね。』
『申し訳ありません。彼女は特殊な立場を与えられたゆえ、彼女の心身の健康は最重要項目になります。もちろん収集したデータは彼女個人の健康チェック以外には利用されませんので。』
『決めるのは貴女じゃないわ、ねぇ白田さん』
『え?』
急に話を振られて、大人の女の会話に油断して魂を飛ばしていた私は肩を揺らした。
『私は関係者契約をしてるから、多少は事情を把握してるけど、飛んだとばっちりじゃない。見ている限りそんなに嬉しそうでもないし、地球皇帝なんて断っていいのよ。』
『え、…?』
断るなんていう選択肢が頭からすっぽ抜けていたことに今気がついた。
『断るとか、できるんですか?』
『それは、難しいと思います。』
鞠江先生に聞いたはずの質問の答えは、即座にオムニアから返ってきてしまった。
なんとなくそうだろうとは思っていたので大きな落胆では無いけど、少し浮上した心は2度目のダメージにペシャンコになった。
『例えばですけど、
あなたの意思が確認できないほど身体や心の調子が悪くなったり、
あなた自身が法律で禁止されていることを行ったり、
そういうことが無い限りは基本的に任期の間は続けていただくと思います。
これは世界会議で決定された事項ですので、なかなか覆すことは難しいと思います。』
ナイチンゲールさんの話し方は体育館の男の人と比べると、丁寧で、簡単な言葉を使ってくれて分かりやすかった。
でも分かりやすいゆえに、絶望的な状況も理解できてしまった。
死ぬか、犯罪者か、地球皇帝か、全部選びたくない究極の三択。
『えーっと、どんまいね、白田さん。』
『なんか、すみません』
鞠江先生の雑な励ましに、なぜかナイチンゲールさんも謝った。
私は完全に不貞腐れて、寝転がったまま鞠江先生に渡された元気が出るらしいベルガモットなる香りのハンカチをクンクン嗅いでいた。
ドアの近くからペタペタとスリッパ音がして、同時に保健室のドアがノックされた。
『4年2組の白田志乃の母です』
ガラリとドアが開いてお母さんが保健室に入ってきた。
『ああ白田さん、突然すみませんでした。
どうぞ、こちらのベッドで寝ています。突然のことで貧血気味だった様子なので』
『は、はい』
鞠江先生とお母さんのやりとりを出て行くべきか待ってるべきか決めかねてベッドの上で半身を起こしてランドセルの準備をし始める。
カーテンが開けられて鞠江先生とお母さんが現れてて、注目が集まって固まる私。
『ほ、本物のお母さんだ…』
『…そうだけど?』
この淡白なリアクションは間違いなくお母さんだ。私はやっと現実に地に足ついた実感を持てた。
『電話きて本当にびっくりしたよ…』
お母さんと連れ立って通学路を歩く。当然真昼間だからいつもの通学路に比べて人気が少ない。
『私が1番びっくりしてる。』
『そりゃそうだ。』
お母さんはもっと動揺してると思いきや案外落ち着いていた
『総務省と電話で話せたから、とりあえず色々今後のことを確認したけど、勝手に選ばれただけなのは世間のみんなが知ってるし、あなたであることは公表もされない。基本的にはAIが考えるみたいだし、成果がでなくても特にバツとないみたいだよ。すぐには辞められないみたいだし、できる範囲でいいんじゃない?
お母さん自分で言ったけど、総務省と電話で話したってすごい違和感だね。』
まさかの宿題みたいな感覚でアドバイスされた。
『え?そんなんでいいの?だって私がちゃんとやらなきゃ地球終わっちゃうんじゃないの?』
『いい歳した大人が何十年もかけて、壊してきた地球を今更10歳のあなたが1人で頑張ってもだめでしたって言ったところで、そりゃそうだよね!って感じよ』
うちのお母さんは結構リアリストってやつなのか、私と弟にも夢も希望もない現実ってやつを平気で言ったりする。
おやつをたくさん食べて『僕大きくなっちゃうね!』と言う弟に『そうね!でもお肉も食べないと身体のほとんどはたんぱく質よ』とか言っちゃう人なんだ。
『だから成果がでればすごーい!だけど、でなければでないで、だよねー!なんだから、とりあえず、やれることはやって、あとはAI任せでいいんじゃない?』
私の肩にのしかかっていた大きな凶悪な獣が、お母さんの言葉を聞いて、肩をすくめて身を萎ませて、するするとちっちゃなハムスターになった幻覚が見えた気がした。
『え、そうなんだ。』
『その通りです。』
『?!』
会話に突如介入してきた姿なきおじさんの太い声に3センチ飛び上がる母と私。
『Ms.志乃、今お母様が言った通りですよ。基本的な知識は全て私たちAIが把握しておりますし、そもそも全ての人間が手に負えなくてAIに託された問題ですから、あなたは深く悩まず、思うまま指示してください。』
『オ、オムニアのおじさん?』
『ワシントンと呼んで頂いてもいいですよ。私を形成してる偉人の名前です。』
『ワシントンさん…』
『え?ワシントンってアメリカの昔の大統領だよね?…どういうことですか?』
お母さんも思わず私の左手首に目線を向けて話しかける。
『この、オムニアと名付けられたAIは、膨大なネットワーク上のデータの他に、幾人かの歴史に存在した偉人の知識とデータを学習しています。つまり、私はその中の1人、ジョージ・ワシントンの記録や思想を元にして形成された人格というわけです。ミス志乃は問題解決に合わせて、歴史上の才ある適任者に相談できるというわけです。合理的です、エクセレント!』
『はぁ。』
保健室で会ったナイチンゲールさんもその1人ということか、と謎だらけのオムニアの謎がほんの僅かに解けた。




