聖剣
「なかなかの見世物だったのぉ……」
アインを抱き締め、咽び泣くゼロの背後。
雨音に混じって、粘りつくような声が響いた。
そこに立っていたのは、漆黒の法衣を纏った異形の老人だった。
「あのリヒト様と互角に立ち回るとは……惜しい! 実に惜しい死よ。カカカッ!」
老人はただ、嘲笑っていた。
エリシャの滅亡も、一国の将軍の最期も、彼にとっては極上の娯楽に過ぎないのだと言わんばかりに。
「なんだ……テメェは」
ゼロはアインの亡骸を、崩れた壁際にそっと寄りかけさせた。
自分の上着を脱ぎ、泥に汚れないよう優しく彼女の肩にかける。
その手つきは驚くほど穏やかだったが、瞳の奥には底知れぬ漆黒の火が灯っていた。
「姉貴……。ちょっとだけ、待っててくれ。すぐに終わらせるから。そしたら、一緒に家に帰ろう」
「聖剣ゼロ」を握りしめ、ゆっくりと立ち上がる。
正面から老人と対峙するゼロの全身からは、静かな、しかし狂おしいほどの殺気が立ち上っていた。
「美しかったでのぅ。儂の傀儡にでもして、永遠に踊らせてやろうかと思ったのじゃが……」
老人はゼロの存在など羽虫ほどにも留めぬ様子で、淡々と冒涜的な言葉を吐き続ける。
「テメェ……斬られたいのか? それとも、細切れになりたいのか?」
姉から譲り受けた漆黒の刃を片手に、ゼロは野獣のような鋭い眼光で老人を射抜く。
「カカカッ! お主に何ができる? 魔力も持たぬ『欠陥品』が、姉に劣るその稚拙な剣技で、我らを討とうというのか……?」
渇いた笑いと共に、老人が枯れ木のような掌をゼロへと向けた。
《呪縛の鎖……!》
詠唱が響いた瞬間、ゼロの足元から漆黒の鎖が這い出し、その蛇のような動きで彼の身体を締め上げ始めた。
じくじく、じくじくと、それは肉に食い込み、魂を侵食するような不快な感触を伴って這い上がっていく。
「……っ! なんだ、これ……っ!」
狼狽えるゼロの姿を、老人は安い見世物でも眺めるかのような、冷めきった視線で見下ろした。
「もう少し抗えばよいものを……つまらぬ。安い、安いのぉ」
吐き捨てるような罵声を浴びながら、ゼロは奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。
鎖はすでに肩口まで達し、全身の自由を奪っている。
魔力のないゼロにとって、それは絶対的な檻だった。
「カカカ! 無駄じゃ。これは濃密な魔力の鎖。儂を上回る魔力の持ち主でなければ、断ち切ることは叶わぬ。……魔力の『ま』の字も感じぬお主に、何ができる? お主を殺し、姉弟揃って儂の可愛い人形で埋めてやろうぞ……」
気味の悪い笑みを浮かべ、老人はトドメの一撃を放とうと指を鳴らす。
「死ぬ前に、冥土の土産として儂の名を教えてやろう。儂は――」
「うるせえよ、クソジジイ」
老人がその名を口にするより早く、ゼロの低い声が戦場を圧した。
「要は……テメェより高い魔力があれば、その腐った鎖をブチ切れるんだな?」
ゼロは持っている。
今、その手に。
魔力を持たぬ自分を愛し、守り、そして最期にその命のすべてを託してくれた、比類なき魔力の結晶を。
「行くぜ……聖剣ゼロ!! 姉貴の力を、舐めんじゃねえッ!!」
「行くぜ……聖剣ゼロ!!」
ゼロがその名を叫ぶ。
呼応するように、漆黒の刀身が内側から溢れ出すような目映い光を放ち始めた。
ゼロは今、かつて経験したことのない不思議な感覚に身を委ねていた。
(なんだ……? 温かくて、ひどく心地良い……。まるで、姉貴に抱きしめられているみたいだ)
直後。
――シュパッ! 肉を蝕んでいた漆黒の鎖が、剣の光に触れた箇所から、脆い糸屑のように容易く霧散した。
「何だと……!? 馬鹿なッ!」
老人が驚愕に顔を歪める。
自身の絶大な魔力が込められた呪縛の鎖。
それが、魔力など微塵も持たなかったはずの、眼前の「欠陥品」によっていとも容易く断ち切られたのだ。
「……この儂の魔力を、矮小な人間ごときが凌駕したというのか!?」
狼狽する老人を尻目に、ゼロは自由になった身で再び地を踏みしめた。
「おい、クソジジイ。姉貴を愚弄した罪……その命で、きっちり償ってもらうぜ」
剣を構え、老人を射抜くゼロの視線。
それは、獲物を確実に仕留めるまで決して逃がさない、飢えた狼のそれであった。
「小癪な! 《猛毒の矢》!」
老人が防衛本能のままに魔法を連射する。だが――。 「《光の盾)》! 続けて……《裁きの炎》!」
ゼロの口から、澱みのない詠唱が漏れ出す。
立て続けに放たれた攻防一体の魔法が、老人の毒矢を焼き払い、その身を襲う。
老人は邪悪な気を纏う盾を必死に展開し、辛うじてそれを防いだ。
驚いたのは、老人だけではない。
自分自身だった。
今まで一度として扱えなかった魔法の知識が、泉のように溢れ出し、次から次へと脳裏に浮かんでくる。
『次は、この魔法』
『この間合いなら、これを使って』
まるで耳元で姉に導かれているような、確かな手応え。
「殺してやる! お主のような小童に、儂の魔法衣は斬れぬわッ!」
逆上した老人が、禍々しい大魔法の長い詠唱を開始した。
魔導師が勝利を急ぎ、大魔法に頼る時――。
かつてアインが、弟に繰り返し説いた実戦の鉄則が、ゼロの脳裏で鮮やかに蘇る。
『ゼロ、覚えておいて。魔導師が最大火力を求めて詠唱に没頭した瞬間……そこが、彼らの最大の隙になるのよ』
「《神速の風》!!」
ゼロは自らの脚に爆発的な加速を付加すると、一蹴りで雨を切り裂き、老人との距離をゼロにした。
「な、んっ……!!」
大魔法を解き放つ寸前、老人の眼前にゼロの漆黒の刃が迫る。
対策を講じる暇など、刹那も残されてはいなかった。
「――おせーんだよ!」
上段から振り下ろされた聖剣が、袈裟斬りに大気を断つ。
「たわけめ! この法衣は魔力を持たぬ刃など……あ、が……ッ!?」
老人の肩口から腰まで。
ゼロが全力で振り抜いた一撃は、魔力の加護を誇った法衣を紙細工のように切り裂き、その下の肉体をも一気に両断した。
「な……ぜ、だ……。この、儂が……」
斬り口から、制御を失った老人の魔力が激しく爆ぜる。
何が起きたのかさえ理解できぬまま、異形の魔導師は絶望の中で絶命した。
「ちっ……。ジジイを殺すのは、寝覚めが悪ィぜ……」
ゼロが深い吐息と共に集中を解くと、漆黒の聖剣は役目を終えたように、静かに光の粒子となって消えていった。




