繚乱のファンタズマゴリア 30 喪の夜 2
―――景色が塗り替わる。城内の部屋から、暗い夜空の下へと。
同時に、雨が降る前特有のニオイが鼻腔をくすぐる。
セレスを抱き留めたまま、ナシュトは周囲を素早く確認する。
セレスと自分だけが飛ばされるのではと危惧したが、全員が先程と同じ立ち位置でそこにいた。
周囲の景色はよく見覚えがある物。王都の大通り、中央噴水の近くだ。
人の気配はない。魔術師ならば雨の匂いに混じった鼻に突く臭いに、人避けの魔術が一帯に掛けられていることに気付くだろう。
周囲に感じられるのは9人分の気配のみ。そう、9人だ。
ナシュト達7人のものと、もう2つ。すこし離れた場所で彼らへと視線を向ける2つの影のものだ。
視線に込められているものは、殺気。
その正体を知るシーラが、いち早く叫ぶ。
「景弘、それにカーンズ―――!!」
「上出来だグラウディスよ」
影の内の1つ、黒髪の、陰鬱な顔をした壮齢の男が言う。
足元には、影ならぬ漆黒の溜り。
「だが、一人も始末せずに転移してくるとは。手間を掛けさせるなよ」
もう1つの影、周囲に無数の式神を従えた法衣を纏う金髪の男がグラウディスを睨み付ける。
「おや、あなた方は近衛達と戦いたくはないのではないですか?」
ゆっくりと二つの影へと歩みゆくグラウディス。
「我々の最優先目標はセレス姫の確保。姫だけを連れて飛んで来いと命令していたはずだぞ?」
2つの影とナシュト達の、丁度、中間地点にグラウディスは立ち止まる。
「おや……そうでしたっけ?」
ふざけた素振りで首を傾げるグラウディス。
「……ふん。ならば命令を追加しよう。こいつらを排除し、セレス姫を確保せよ」
セレスを指さし、黒髪の男―――景弘が告げる。
その言葉に、ナシュトはセレスを庇うように前に立ち、更にその前にアルトが構える。
「グラウディス―――裏切りの罪、貴様の命で償ってもらうぞ!!」
グラウディスへ向け、怒りを露わにその手に造り出した炎の剣を向ける。
だが、グラウディスはアルト達に背を向けたまま動かない。
「どうした? 今更仲間殺し程度に躊躇いを感じるような女ではないだろう」
「―――うるさいですね」
金髪の男―――カーンズの言葉に、小さく、しかし確かに怒気を孕んだ言葉を返すグラウディス。
そして、静かにグラウディスは剣を向けた。
「―――どういうことだ、グラウディス」
先程まで余裕の表情を浮かべていたカーンズが、顔をしかめる。
アルトもまた、怪訝な顔でその様子を見た。
―――グラウディスが剣を向けたのは、2人の襲撃者だった。
「グラウディス……?」
何が起こっているのか理解できないセレス。ナシュトもまた、状況を把握しきれていなかった。
自分たちを裏切ったというグラウディス。だが、彼女が剣を向けるのは本当の仲間であるはずの襲撃者。
本当は裏切ってなどいないのか? それともただ彼女にとって彼らが気に食わない、ただそれだけなのか?
グラウディスはカーンズの問いに、あるいはセレス達の疑念に応えるように言う。
「簡単な話ですよ。私はセレス姫を裏切りましたが、あなた方に付いた訳ではない。―――この状況を引き起こすことだけが、あの人との契約ですので」
「何……?」
「ふふ、理解する必要はありませんよ。―――さあ。セレスさま。疾くお逃げなさいな。これは貴方とその少年に課せられた試練なのですから」
「オレとセレスの試練……? グラウディスさん、あなたは、一体―――」
「―――ナシュト・ケム」
グラウディスが顔をこちらに向ける。その顔から笑みは消え、真剣な眼差しがナシュトへと向けられていた。
「―――姫を守りぬいてくださいよ?」
「……・はい」
「ふん。真意は分からんが―――逃げろと言うならそうしてやろう。ナシュト、姫! 学院へ向かうぞ。あそこならば戦うにしろ守りに徹するにしろやりやすい筈だ」
「はいっ! セレス、乗って!」
ナシュトは頷き、『幻想』フレスヴェルグを作り出しそれに飛び乗る。そしてセレスへと手を差し伸べ、フレスヴェルグの背に乗せ巨鷲を飛翔させる。
この位置から学院へは距離がある。道を進むより、飛んで行った方が速い。
そしてそれに続き、アルト達は建物の屋根へと跳び上がり、屋根伝いに学院へ向けて駆けて行った。
「逃がすかっ!!」
襲撃者2人はそれを追おうとするが、瞬く間に距離を詰めたグラウディスに阻まれる。
「あなた方は行かせませんよ? 彼らにはアレを相手にしてもらわねばいけませんから」
「ふん、我等がこの事態を予測していないと思うたか!!」
声と共に、襲撃者2人の間を翠の影がすり抜ける。
「グラウディス・エスパード!!」
翠の影は叫びと共に手にした長剣でグラウディスへと斬りかかる。
グラウディスはそれを神速の一閃を以って防ぐ。更に一瞬の内に幾度か切り結んだあと翠の影―――翠色の軽鎧を着た、鉢巻を巻いた栗色の髪の青年が飛びずさり距離を取る。
「ラティス、そいつの相手は任せたぞ」
そう言うと、景弘とカーンズは手近な家の屋根へと跳び上がり、セレス達を追撃していった。
「おやおや、逃してしまいましたか。……所であなた、どこかで会いましたっけ?」
その言葉に、ラティスと呼ばれた青年は激昂を露わにする。
「忘れたか、師殺しグラウディス! 我が名は朧月流剣士ラティス・ノーレッジ、かつて貴様と共に剣を学び、今は貴様が殺した我が師の復讐を為す者なり!!」
「―――ああ、思い出しましたよ」
刻薄な笑みを浮かべ、グラウディスは深く腰を落とし構えた。
† † †
「……追って来てるわね、景弘とカーンズ」
屋根の上を走りながら、シーラが後ろを確認する。
「襲撃者はあの2人だけではないはずだ。恐らく別の者に足止めされているのだろう」
「それはどうでしょうか。最早あの女は信用できません。誰に付いたのであろうと、裏切り者は裏切り者ですよ」
吐き捨てるように言うキース。
「グラウディスはこの状況を試練だと言いました。反乱軍の他に、この状況を求める者がいるという事でしょうか」
「いない、と言えば嘘になるな。この国にだって戦争を望む者もいるかもしれんし、あるいはまた別の勢力か……」
セレスの疑問にアルトが答える。
「……ともかく、今は目の前の敵に集中しましょう」
そうは言ったものの、ナシュトの脳裏には幾つもの疑念が渦巻いていた。
この状況を自分とセレスへの試練だとグラウディスは語った。そして、自分達への試練を望む者がいるとも。
何故、そんなことを求める? 誰が、それを求める?
考えても答えは出ない。言った通りに、今は目の前の事態に専念するしかなかった。
「少年の言う通りじゃ。……じゃが、このままでは追いつかれるのう」
フィオーネがちらりと背後を確認する。まだ距離はあるが、このままでは学院に着く前に交戦する事になるだろう。
「―――隊長。やはり僕達が彼らの足止めをします」
「……できるのか?」
キースの提案に、アルトは疑念の目を向ける。
今のキースは封術の刻印により実力を発揮できなくなっている。
本来の実力ならばあの2人を上回るが、今の状態ではかなり分が悪い筈だ。
「……時間稼ぎぐらいはできますよ」
「私も、しばらく足止めするぐらいはできるわ」
「キース、シーラ……」
「なーに悲しそうな顔してんのさ姫さま。今生の別れじゃあるまいし」
「そうですよ。しばらく足止めしたらいったん撤退して合流します。それでは!」
そう言うと、迫り来る景弘とカーンズを迎え撃つために身を翻した。
「行きますよシーラ。…………今更捨てる命などないでしょう?」
「……当然」
† † †
「キースさん、シーラさん……大丈夫かな」
フレスヴェルグを操りつつ、小さく不安を口にするナシュト。
二人が十分強いことは知っている。全力を出せずとも、時間稼ぎという目的は果たせるだろう。
けれども、別れ際に見せた表情が気になった。
あれは覚悟を決めた者が見せる顔だ。死してでも目的を果たさんとする者の表情。
「―――大丈夫です。きっと」
背に掴まるセレスが答える。
セレスも二人の表情には気づいていた。そして彼女もまたナシュトと同じ不安を抱いていた。
それでも「大丈夫」と言うしかなかった。自分たちがどれ程心配しようとも、キース達にとってそれは何の助けにもならないのだ。
ならば気休めだとしても二人は大丈夫だと自分に言い聞かせる他ない。
そのやり取りを聞いたアルトは、二人の心配を取り除く様に言う。
「舐めるなよ、小僧。『魔人』の名は伊達ではない。それに―――奴らを殺すなど、神でもなければ不可能だ」
「アルトさん、それはどういう……」
「―――小僧共、止まれ!!」
ナシュトの問いは、突如制止の声を上げたフィオーネによって遮られた。
慌ててフレスヴェルグを制止させるナシュト。
既に学院の目と鼻の先といった距離だ。何故フィオーネが制止させたのか、疑問に思いナシュトとセレスは顔を見合わせる。
「フィオーネ、どうしたのですか?」
「小僧め、妙な事を言いおってからに……洒落にならんもんが現れたぞ!!」
「―――!! 確かに洒落にならんな、あれは……。小僧、計画は変更だ。貴様らだけでネロ・ノートリアスの屋敷へ行け」
二人の視線は校庭の一点に向けられていた。
「アルトさん、一体何が―――」
ナシュトがその視線を目で辿る。その先には、1つの人影があった。
「―――!!?」
"ソレ"を視認した途端、ナシュトは背筋が凍るような感覚に襲われた。
―――何だあれは。
驚愕に目を見開くナシュト。
その姿ははっきりとは見えないが、幻想存在だという事は分かる。
それも、並の幻想存在ではない。
気配を押し殺している為気付かなかったが、一度気付いてしまえばはっきりと分かる。成竜程ではないが、それでも恐ろしい程強大な力を持つ幻想存在。
―――『幻想の王』。
生まれながらにして強大な力を有するか、或いは『穢れ』の蓄積により変異し更なる力を得た幻想存在を指す言葉。
少なくとも、そう人里に現れる存在ではない。ましてや、王都という人口の多い場所になど現れるなど。
現れたとして、もたらされるのはまず災厄のみ。
そして今。視線の先に、『幻想の王』はいる。
そんなものすら味方につけているのかとナシュトは戦慄した。
「嘘……どうして、あの御方が……!」
「セレス、アレを知っているの?」
「ええ……だってあの御方は、ユグドラシルの域を信仰する者にとって―――」
「話は後だ、早くここから離れろ! "アレ"は貴様の手におえる相手ではない!!」
異様な焦り様を見せるアルトに戸惑いつつ、フレスヴェルグをネロの屋敷がある場所へ向ける。
「アルト、お気を付けて!」
去り際にセレスが残した言葉すら、アルトは気にかけている余裕はなかった。
見据えるのは学院の前に立つひとつの影。幻想の王。
それはアルトも良く知るものだ。否、アルトのみならずアドネス帝国の者の大半がその名を知るだろう。
御伽噺の登場人物。あるいは英雄譚で語られる偉大なる武人、いや武神として。
―――その手に握るは一振りの戦鎚。彼の者を象徴する比類なき得物。
「成程、貴方が味方に居るとなればいれば民もゴスペルを支持するかもしれんな……」
『…………』
影から、向けられただけで死に至りかねない程の圧倒的な殺気が込められた視線が向けられる。
「「戦王トール……!!」」
† † †
「二人だけになってしまいましたね……」
フレスヴェルグの背で、ぽつりとセレスが呟く。
「うん……。でも、まだ油断しちゃいけないはずだ」
周囲に警戒を払いつつ、フレスヴェルグを飛ばすナシュト。
―――状況はかなり悪化していた。敵の足止めの為とはいえ、皆と分断されてしまった。
完全に敵の術中に嵌まっている状態と言えるだろう。もし自分がいなければ、今頃セレスだけで逃走していたであろうことを考えると、ナシュトはぞっとした。
とはいえ、自分がいれば安心だとも思わない。幻想の王すら現れたのだ、これ以上強い敵が現れないなどと誰が断言できようか。
しかも敵がもし1人につき近衛隊1人をセレスから引き離そうと考えていたとしたら―――少なくともあと1人、セレスを捕らえる為の敵がいるはずだ。
ぽつりぽつりと降り始めた雨は、瞬く間に土砂降りとなり二人を濡らす。
「セレス、大丈夫?」
「ええ。この程度なら何ともありません」
とはいえ、それなりの速度で飛んでいるのだ。雨粒が痛い程体を打ち付ける。
ナシュトは目を開けるのも精一杯だった。
―――だから、気付くのが遅れてしまった。前方に、あり得ない"横に流れる雨"があることに。
その空間に入ったフレスヴェルグの動きが突如がくんと動きを止める。そして横へ吹き飛ばされた。
いや、吹き飛ばされたのではない。何かしらの力によtって引き寄せられているのだ。
「くそっ、何だ!?」
フレスヴェルグを操作して必死に力の束縛から逃れようとするが、逃れるどころかどんどん引き寄せられる速度は速くなっていく。
「こ、これは―――!!」
何かに気付いたのか、セレスが驚愕の表情を浮かべる。
目前に迫ったネロ邸から見る見るうちに引き離され、そして遂には2人は王都の城壁を越えてしまう。
更に王都から引き離され―――王都の城壁が少し小さく見える場所でようやく引き寄せている力が消えた。
―――辿り着いたその場所には、一人の男が立っていた。
全身黒づくめの、無精ひげを生やした服装と同じく黒い髪の男。
その体格は威風堂々の一言。ただでさえ高い背に加え、一切の無駄のない筋肉が服の上からでも見て取れる。
「―――ゴスペル・ゲオルギウス!!」
セレスが叫ぶ。男の名に、ナシュトは驚愕した。
ゴスペル・ゲオルギウス。帝国で起きた反乱の首謀者。アルトが英雄とまで呼ぶ男。
その男が、目の前にいた。
「……お久しぶりです。セレス姫。貴方をお迎えに上がりました」
セレスへ向けて右手を差し出すゴスペル。その声も、仕草も、纏う空気も、その全てが重々しく相対する者に圧倒的な威圧感を与えるものだった。
「……お前にセレスは連れて行かせない!!」
フレスヴェルグから飛び降り、ゴスペルへ向けてバーストを構える。
(フレスヴェルグ、セレスだけでも逃がしてくれ!)
心の内で、フレスヴェルグに命令する。
未だセレスを乗せたままのフレスヴェルグは反転し、ゴスペルから遠ざかろうとする。
だが。
「この私が、みすみすそうさせると思うか」
声と共に、3人を取り囲むように周囲の地面が一瞬にして2m程陥没した。
「なっ!?」
フレスヴェルグを制止させようとするが、間に合わない。フレスヴェルグが、その輪の上へと入ってしまう。
セレスは咄嗟に飛び降りて難を逃れるが、フレスヴェルグは瞬く間に墜落してしまう。
否、墜落どころではない。凄まじい力によって、原型すらとどめない程に押し潰されたのだ。
「これは―――異能!?」
「ええ。ゴスペルの異能……『重力』です」
重力。物体への加重と軽減。或いは、引力と斥力。ゴスペルの異能は、それを操る。
しかも、それは恐ろしいまでに研ぎ澄まされている。先程ナシュト達をここまで引き寄せた射程距離も、一瞬にしてフレスヴェルグを押し潰した威力も。
一瞬でも気を抜けばその力とプレッシャーに身も心も押し潰されそうだと、ナシュトは全身に気を張り詰める。
「―――逃げる事などできませぬ。姫様、どうか大人しく私と共に来てください」
そう言ってゴスペルは再びセレスへと右手を差し出す。
「何故―――何故、貴方はこんな事を!?」
「…………」
セレスの問いにゴスペルは答えない。ただ静かな、感情の読み取れない顔をセレスへ向けるのみ。
「貴方は、そこまでして戦争がしたいのですか!?」
尚も問うセレス。
「…………そうだ、と答えれば貴女は納得するのですか」
「それは……。私は今でも信じられないのです。どんな理由であれ貴方が部下を、民を傷付けるような行動をするなどとは!」
「ならば貴女は私という人間を見誤っていたのでしょう。私は―――高潔な騎士などではありません。ましてや、英雄などでも」
まるで感情など無いかのように表情を変えず言うゴスペル。
しかしセレスだけは気付いた。彼の言葉にほんの僅かな逡巡があることを。そしてナシュトもその言葉に疑問を抱かざるを得なかった。
「ゴスペル。貴方は今自分は高潔な騎士などではないとおっしゃりましたね。―――ならば何故、貴方はヴァルハラへの信仰を掲げるのですか!」
セレスは更に問い質す。
ゴスペルは異能の域ユグドラシルを深く信仰していた。そして、その信仰にあるのは「誇り高き騎士は戦死した後、輝ける宮殿へと召し上げられる」というもの。
ならば―――それを信奉する者が、己が誇りを貶めるような行為を進んで行うだろうか?
「否。信じるからこそ、誇りを捨ててでも成さねばならぬことがあるのです。さあ、これ以上お話しすることなどありません。私と共に―――」
「―――ウォーライオン!!」
採算に渡りセレスへ手を差し伸べたゴスペルに、空中で形成された紺色の獅子が落下の勢いのままにその爪を振るう。
狙うはその首、躊躇なき殺意の一撃!
「邪魔だ!」
しかしゴスペルは身動ぎひとつしない。ただ先程フレスヴェルグを押し潰した圧倒的な重力で襲い掛かるウォーライオンを叩き落とすのみ。
だが、ナシュトは動じずウォーライオンへ意識を集中させる。
「―――あなたこそ!!」
声に応じ、ウォーライオンが高重力の中立ち上がる。
元より膂力に優れた幻想、2、3倍程度の重力下ならば多少動作は緩慢になれど致命的な程ではない。
高重力によって速度を増した雨粒が獅子の身体を穿つが、獅子を止めるには至らない。
ほう、と関心の声を漏らすゴスペル。
だが、それだけだ。そこに動揺は欠片も見えない。
まるでそれがどうしたとでも言わんばかりに。
それも当然だ。ゴスペルにとって高々2、3倍の重力を広範囲に発生させつつさらにウォーライオンにピンポイントで同程度の重力を課すなど、それこそ片手間にできる事なのだから。
ナシュトもそれは感じ取っていた。
(だからといって!!)
それでもなお、ナシュトはウォーライオンを操りゴスペルへと挑みかかる。
―――勝機はあるかと尋ねられたら、ナシュトは可能性は低いと答えるだろう。
だが、それは0ではない。切り札たる可能性変生が僅かでもゴスペルの未だ計り知れぬ実力を凌駕すれば、或いは。
そうでなくとも、せめて周囲に展開されている重力場を解除されることができれば、セレスを逃す事ができるかもしれない。
既に後がない状況なのだ、分の悪い賭けとて負けるわけにはいかないのだ。
その鋭い爪を有する屈強な右前脚を振るう紺の獅子。
しかしその前脚はゴスペルとの間の発生した重力壁に阻まれ、届かない。
「オオオオオオオオオオオッ!!」
気迫と共に、『幻想』の力を獅子の右前脚へと収束させる。
収束した『幻想』は右前脚を覆う鎧となり、またその爪をさらに鋭いものとする。
―――徐々に、獅子の脚が重力壁へと食い込んでいく。それを見たナシュトは更に『幻想』を収束させる。今のナシュトの全力。
しかしその一方で、身体からは力が抜けていく。ただでさえ失血が深刻なのだ、『幻想』に意識を集中する代償に、ナシュト自身は立っている事すらやっとのことだった。
(せめて、一撃―――!!)
―――だが、ナシュトは1つ大きな過ちを犯していた。
それは、ゴスペルの実力はナシュトの想像を遥かに凌駕していること。
ふと、ウォーライオンを襲っていた高重力が消える。
否、消えたのではない。……反転したのだ。
「―――!?」
先程とは一転、急に浮かび上がりそうになるウォーライオン。ナシュトは獅子の爪を地面に突き立てそれを防ごうとする。
だが、それが致命的な隙となった。
ゴスペルがウォーライオンへと静かに歩み寄る。その腕には―――漆黒の巨大な籠手。恐らく異能で形成した物。
そして静かに右拳を腰に構え―――ただ静かに、正拳突きを放った。
本当に静かな、ゆっくりとさえ感じる動き。殺気すらも、ナシュトは感じ取れなかった。
しかしもたらされた威力は絶大。打ち砕く、などという言葉すら生温い。文字通り、獅子は粉砕された。
「―――なっ」
一瞬唖然にとられるナシュト。仮にも自身の全力を込めた『幻想』、それがただの一撃で粉微塵に砕かれたのだ。
集中が途切れ、片膝を突くナシュト。
自分の能力がゴスペルの足元にも及ばないという事実を思い知る。
しかしナシュトはすぐに気を持ち直す。荒い息をなんとか整え、ふらつきながらも立ち上がる。
―――ほんの僅かだが。勝機を、見出した。
今の自分の全力はゴスペルに通用しない。そしてゴスペルもそれを認識したはずだ。
ならば切り札による奇襲を以って畳み掛ければ、あるいは。
(……光明は、ある)
「ナシュト……?」
緊張と失血で脂汗を流しながらも僅かに笑みを浮かべるナシュトに困惑し、彼の名を恐る恐る呼ぶセレス。
なにか危うい事―――本当は今の状況自体が存分に危ういのだが―――をしようとしている。
そう感じさせるなにかが、彼の表情から読み取れたのだ。
「セレス、オレから離れないで」
「……はい」
―――やめて、とは言えない。言える立場ではなかった。
共にいる為の名目とはいえ、ナシュトは守る側、セレスは守られる側なのだ。
仮にそんな名目がなくとも、きっとナシュトはどんな手段を使ってでもセレスを守ろうとするだろう。
(私に、今出来る事は……)
見守ること、そして……。
「―――諦めろ、少年。貴様にできる事など。何も、ない」
「―――あなた、こそ」
ナシュトは『幻想』を極限まで研ぎ澄ます。
何としてでも、この切り札を通さねばならない。
しかも、時間制限まであるだろう。ただでさえ体力を失った状態、例え肉体を変生させたとしても元の体力が戻る訳ではない。
その上針に糸を通すような戦いを全力でしなければならないのだ。恐らく変生が維持できる時間はそう長くはない。
全身全霊、この切り札に賭ける。
「オレは諦めない。少なくとも、セレスの前では」
―――上る、上る、螺旋階段を上る。遥か眼下には無窮の沙漠、踏みしめる螺旋階段は煉瓦造り。
それはかの少年の心象風景。それはかの少年の渇望螺旋階段。
―――上る、上る、螺旋階段を上る。駆け抜けるように。しかし一歩一歩確実に踏みしめて。
「ならば、これ以上容赦はせん。私は貴様を敵と認識する」
「だから、オレは貴方を倒す。セレスを渡したりなんかしない」
そして―――
また―――
一歩一歩―――
歩み往き―――
「その想いは結構。しかし勇気と蛮勇は違うぞ」
「蛮勇で結構。想いに勝るものなんてあるものか」
巨大な籠手を纏った腕を構えるゴスペル。まるで巨大な山岳が目の前にあるかのような錯覚を受ける。
(構うものか。その山―――削り、砕く!!)
「可能性変生―――『善なる影』!!」
刹那、紺の光に包まれるナシュト。そして、光の中から彼の、しかし彼の者ではない腕が現れ―――
「―――ナイト・オブ・キャロル!!」
纏っていた光が収束し、踊り出でたるは白き駿馬、白き鎧、白き槍、白ずくめの騎士!
「むっ!?」
ゴスペルが僅かながらも驚きの表情を見せる。少年の変貌、其処に立つ長身痩躯の『影』に。
そして僅かに、しかし刻薄な笑みを浮かべ―――
「―――面白い!」
―――こうして。降りしきる雨の中、戦いの火蓋は切って落とされた。




