最終話
北方の岩塩鉱山では、春になっても坑道の風が冷たかった。
オルドリックはつるはしを持ち上げ、壁へ打ちつけた。
先端が跳ね返り、手のひらの傷が開く。
柄を離すと、隣の囚人が黙って脇へ寄った。仕事を代わってくれる者などいない。
「私は、伯爵だぞ」
誰に言うでもなく呟いた。
初日にそれを叫んだ時には、笑う者がいた。
今は誰も振り向かなかった。
食事の鐘が鳴り、オルドリックは列へ並んだ。
薄い煮込みと黒パンを受け取る。器を傾ける手が震え、少しこぼした。
慌てて口を寄せたところへ、別の作業場から戻ったシセルが現れた。
爪は割れ、塩を選り分ける指には布が巻かれている。
「お父様、手紙の返事は?」
オルドリックは答えなかった。
「お姉様なら、将軍に言えるでしょう。私たちを出してって。もう、何度も書いたじゃない!」
「うるさい。誰の贅沢のために、こうなったと思っている」
「私のせいにしないでよ!」
シセルが父の袖を掴んだ。
父が振り払った拍子に、彼女のパンが泥へ落ちた。
二人とも、しばらくそれを見ていた。
先にかがんだのはシセルだった。
表面の泥を指でこすり落とす。手の傷に触れて顔を歪めても、パンは捨てなかった。
オルドリックが手を出すと、胸へ抱え込んだ。
「私のよ!」
父は空の器を見下ろした。
娘を怒鳴っても、誰かを殴っても、もう食事は増えなかった。
休息の終わりを告げる鐘が鳴った。
シセルは動かなかった。
看守が名を呼ぶと、唇を震わせたまま立ち上がる。
「いつまで、こんなことを」
返事を待つ必要はなかった。
判決の言葉を思い出し、彼女はその場にしゃがみ込んだ。
明日も、その次の日も。いつも彼女の言いなりになっていた父も、今は隣で自分のつるはしを拾っていた。
父とシセルが刑に服しているという報告が届いたのは、私たちの結婚式から一月ほど経った頃だった。
身内からの嘆願書も来ているが、読む義務はないとセルジュは言った。
私は少し考えてから、受け取らないことにした。
「返事も、しません」
「承知しました」
封書は、そのまま彼の書類袋へ戻された。
机の上には、今朝ヴォルフラムが置いていった花がある。
私は花瓶の水を替え、庭へ出た。
帝都の将軍邸には、もう初夏の風が吹いていた。
「イネスッ!」
小道の段差へ靴先を引っかけた途端、背後から声がした。
よろけた腰を、大きな腕に支えられる。
「危ないだろうが!」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。少し引っかかっただけ」
ヴォルフラムは私を立たせてから、足元の石を睨んだ。
「この道を、全部敷き直させる」
「やめて。浮いている一枚を直せば済むでしょう!」
彼はまだ石を見ていた。
庭師を呼びかけた口を、私が袖を引いて止める。
「滑らかな大理石にすればいいというものでもないわ。雨の日には滑るもの」
しばらく考えてから、彼は頷いた。
「一枚だけだな」
「ええ」
ようやく話がまとまったところへ、決裁の束を取りに戻っていたセルジュが来た。
「今日の決裁です。石畳の張り替えでしたら、まず庭師とご相談を」
「もう済んだ」
「奥方様との相談は、早く済むようになりましたね」
ヴォルフラムが眉を寄せたが、言い返さなかった。
私には、それが少し可笑しかった。
東屋へ入ると、彼は私から手を離し、書類に目を通した。
指輪をつけた手で一枚ずつめくり、不明な箇所をセルジュへ確認する。
一枚を脇へ置き、次の書類の数字を指でたどった。
「これは戻せ。補給の数が合わん」
「修正を頼んでおきます」
仕事を終えたセルジュは、用意された二人分のカップを見て笑った。
「では私は、お二人のお茶が冷めないうちに」
彼が去ると、ヴォルフラムは待っていたように私の椅子を引いた。
私が座ると、彼も触れ合うほど近くへ腰を下ろした。
「近すぎない?」
「まだ離れている」
彼は平然と答え、私のカップを手元へ寄せてくれた。
銀のポットには、野苺の茶が入っていた。
旧領の店から、乾燥させた葉と実を定期的に送ってもらっている。
私は彼のカップへ注ぎ、砂糖を二杯入れた。
「足りなければ、自分で足してね」
「これでいい」
彼は飲んでから、もう一度言った。
「美味い」
それだけで嬉しくなるのだから、私も単純だ。
「甘すぎるとは言わなくなったわね」
「まだ言うか」
「全部飲んでいたくせに」
ヴォルフラムはカップを置き、私を見た。
「嬉しかったんだ」
思いがけない返事に、こちらが黙ってしまった。
「十年経っても、覚えていたから。俺が、どんな茶を飲んでいたか」
私は膝の上の手を見た。
薬指に光る指輪は、二人で選んだものだ。
彼のものと同じ、飾りの少ない金の輪。
「忘れなかったわ」
「ああ」
「あなたも、覚えていてくれたでしょう。手が震えていたこと」
彼の右手が伸びてきた。
私から掌を重ねると、指の間に彼の指が入った。
すべて忘れたわけではない。
大きな物音に身体が強張る日はあるし、雨の夜、彼の肩が痛むこともある。
そんな日は薬を塗る。
私が夢にうなされれば、彼が名前を呼ぶ。
落ち着くまで待って、お茶を飲んで、また眠る。
苦しかった十年を、よかったことにはできない。
それでも、今朝どんな夢を見たかより、今日のお茶に何を添えるかを考える日が増えた。
「イネス」
ヴォルフラムが少しかがんだ。
「愛している」
まだ、聞くたびに照れる。
頬を隠す代わりに、私は彼の手を引いた。
「私もよ」
触れるだけの口づけのつもりだった。
けれど、離れようとしたら彼が名残惜しそうな顔をしたので、もう一度だけ、自分から唇を重ねた。
「お茶が冷めるわ」
「淹れ直す」
「次はあなたが?」
「ああ。砂糖は一杯だろう」
私は笑って頷いた。
あの時、あなたを崖から突き落としたのは私です。
そう告げるしかなかった日に、こんな午後が待っているとは思わなかった。
ヴォルフラムが湯を頼もうと立ち上がる。
私は繋いだ手を、少しだけ引いた。
「お茶は、後でもいいわ」
彼が振り返る。
その嬉しそうな顔を、今度は見逃さなかった。
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