第1話 数字に出ない仕事
通勤電車の向かいの席に座った迷宮探索者の男は、あと二回ほど無理をして深層に潜れば、膝に限界が来るだろう。
見ようと思って見たわけではない。霧島透は迷宮に潜らない。装備の擦れ方、左膝をかばう癖、背嚢の重心――目に入っただけで、会ったこともない探索者がどこで動けなくなるか、頭が勝手に当てはめてしまう。長く査定士をやっていると、もう抜けない癖だった。
この国に迷宮が口を開けてから、地下へ潜る探索者は珍しくもない通勤客の一人になった。攻略には保険がかかる。透はその保険を査定する側の人間だ。どの探索者が、どこで、いつ死ぬか。逆に、どこで止めれば死なせずに済むか。それを机の上で割り出して値をつけるのが、透の仕事だった。車内に揺れる吊り広告にも「その攻略保険、補償は足りていますか」と刷ってある。潜らずに人を生かす数式だけが、透の手元にはあった。
だから透が数えているのは、迷宮の死者数ではない。死なずに済んだ人間のほうだ。それは、誰の目にも映らない数字だった。
勤め先のテオリア攻略総研に着くと、月曜の朝礼が始まっていた。三十人ほどの査定士と営業が、誰も座らずに立っている。窓の外は雨。ガラスに灰色の街が滲んでいた。
「霧島さんの仕事はね、数字に出ないんだよ」
取締役事業本部長の沢渡健吾が、フロア全員に聞こえる声で、わざわざそう言った。
透は自分の名が呼ばれてからも、まだ一言も発していない。
「去年、君が撤退勧告を出した攻略は四十一件。そのうち実際に死亡事故が起きたのは、ゼロだ」
沢渡はタブレットの縁を爪でコツ、と叩いた。それから返事を待たず、続けた。
「立派だよ。本当に立派だ。だが、その四十一件、もし攻略を続けさせていたら、いくらの売上になっていたと思う」
問いのかたちをした宣告だった。沢渡は答えを欲しがってなどいない。
「七千二百万。うちが取りこぼした七千二百万だ。君が止めたせいでね」
フロアの後ろで若い営業が小さく笑った。透は振り返らない。三年もいれば、誰がどんな顔で笑うかは見なくても分かる。
沢渡の声に苛立ちはなかった。穏やかで、それが一番たちが悪い。彼はタブレットの縁をもう一度叩いてから、ほんの一拍、言葉を切った。じき四半期の投資家説明会が控えている。その沈黙が、誰のために数字を作らねばならないかを、言葉より雄弁に告げていた。
「いいか、よく聞け。起きなかった事故は、起きなかったからこそ、誰の目にも映らない。映らないものは、評価できない。だが取りこぼした七千二百万は、四半期の数字にはっきり残る。投資家は数字を見る。私も見る。会社とは、そういう場所だ」
沢渡は微笑んだ。
「霧島透という査定士がこの会社に残した実績は、マイナス七千二百万。それが現実だよ」
「事故を防いだ実績は、計上されないんですか」
透が初めて口を開いた。低く、平らな声で。
「防いだ事故は起きていない。起きていないものは、計上できない。君は、起きなかったことに給料を払えと言っている。経営は、そういう感傷では回らない」
正論だった。この会社の評価軸の上では、一文の隙もない正論。だが透にはずっと不気味だった――隙がないのではない。何人を死なせなかったか、その目盛りが、最初からこの物差しには刻まれていないだけだ。
人事の女性が、伏し目がちにA4のファイルを置いた。退職合意書。競業避止。そして「業務上知り得た査定基準等の私的利用を禁ずる」誓約書。サイン欄には日付だけが印字されていた。準備のいいことだ、と腹の底で笑いそうになるのを、透は奥歯で止めた。三年だ。三年、誰も死なせなかった三年が、紙一枚で取りこぼしの数字に化けようとしていた。胃の底が冷たく強張った。
「円満退職という形にしておくよ」沢渡は言った。
「事故率は社内資料としては優秀だ。推薦状もつける。ただし、うちの査定の手法は持ち出さないでくれ。あれは会社の資産だからね」
透は誓約書を一枚ずつめくった。第一条、第二条、第三条――条文を一字ずつ目で追う。査定士の癖だ。書いてあることより、書いていないことを探す。保険の穴はいつも、書かれた場所ではなく、書かれていない余白に開く。
そして第三条の末尾、「会社が起案・保有する査定の手法」という一行で、指が止まった。起案し、保有する。会社が。透は、そこに書かれていない名前を一つ、頭の中で補った。
列の端で、救護担当の蓮見詩織が半歩前に出かけた。何か言おうと口を開きかける。現場で誰より早く「撤退」を叫んできた人だ。彼女だけは、透の四十一件が何を意味するか知っている――三年前、自分の撤退勧告を握りつぶされかけたとき、たった一人それを査定の数字で裏打ちしてくれたのが、この男だったことも。
沢渡が、彼女のほうを見もせずに言った。
「蓮見さんは午後の出動シフトだったね。準備があるだろう」
詩織の足が止まった。それ以上は、出てこなかった。出せば次は彼女の番だと、この場の全員が分かっていた。
透はペンを取り、サインした。迷いのない署名だった。それからファイルを閉じる前に、最後の一行で指を止め、立ち上がった。
「ありがとうございます。ひとつだけ、お伝えしておきます」
沢渡が、初めてわずかに眉を動かした。
「この誓約書――御社が私を縛るには、一箇所、致命的に足りていません。いまは申し上げません。ご自分で気づかれたほうがいい」
「……何の話だ」
「お世話になりました」
軽く頭を下げ、踵を返した。フロアを出るとき、誰も声をかけなかった。同情の視線が背中に当たるのは分かる。気の毒に、運がなかったな、と。だが視線は給料を払わない。沢渡の言うとおりだ。見えないものは計上されない。同情も、防いだ死も。
エレベーターの扉が閉じる寸前、詩織がこちらを見ていた。何か言いたげな、けれど現場のシフトに縛られた、宙ぶらりんの顔で。透は会釈だけ返した。
地上に出ると、雨が強くなっていた。透はビルを振り返らず、傘もささずに低くひとりごちた。昔、救護テントで何度も自分に言い聞かせ、いつのまにか誰も褒めなくなった、たった一つの信条を。
「今夜も、誰も死なせない」
それが仕事だったはずだ。数字には、出ないけれど。




