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私とGPTさんの千夜一夜物語  作者: テスト


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70/73

0070.ビリヤード × リュート × 三国志(実験してます)

パターン1:

「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10――落とします」


静寂が支配するセンターコートに、三国燎原の低く平坦な声が響いた。


その一言は、あまりにも小さかった。マイクを通した実況の声でもなければ、観客に向けたパフォーマンスでもない。テーブルの脇に立つレフェリーへ向けて、ごく当然の手続きとして告げられた、ただのコールだった。だが、その言葉が会場の空気を叩いた瞬間、ジャパンオープン決勝の熱は、一度、完全に凍りついた。


東京湾沿いの大型ホールは、夜になってもまだ昼間の熱を抱え込んでいた。天井には無数の照明が吊られ、センターコートだけを白く鋭く照らしている。観客席は満員。ビリヤード特有の静けさを保とうと、誰もが息を潜めていたが、その沈黙の底には、今にも沸騰しそうな熱気が沈んでいた。湿った空調の風。革靴の擦れる微かな音。誰かの喉が鳴る音。遠くで紙コップの氷がかすかに崩れる音。すべてが、異様なほど大きく聞こえる。


それは10ボールの国際大会、ジャパンオープン決勝の最終ラックだった。


10ボールは、コールショットが義務付けられている。狙う球の番号と、それを落とすポケットの位置を事前に宣言しなければならない。偶然に入った球では、勝利は認められない。精度、判断、制御。そのすべてを突き詰める競技である。


だが、ブレイクショットだけは違う。


ゲームの最初、10個の球が強固な三角形に組まれた状態から放たれる一打。手球がラックの頂点へ激突し、球たちは互いにぶつかり合い、跳ね返り、回転し、ポケットの縁で弾かれ、あるいは吸い込まれていく。そのすべての軌道を完全に読むことなど、現代のいかなる計算機にも不可能とされている。摩擦、湿度、ラシャの癖、球のわずかな汚れ、ラックの締まり、撞点の百分の一ミリのずれ。それらが無数に絡み合い、未来は一瞬で霧散する。


それなのに、三国は宣言した。


ラックに固まった10個の球、そのすべてを、1打で、しかも1番から10番まで順番通りに沈めると。


「……正気か? ミスター・ミクニ」


対戦相手であるアメリカのトッププレイヤー、ライアン・ブレイクは、信じられないものを見る目で三国を凝視していた。彼はこれまで、世界中の怪物たちとテーブルを挟んできた。どんな難球にも怯まない男、見えないコースを通す男、観客の呼吸さえ支配する男。だが、いま目の前にいる日本人は、そのどれとも違っていた。


三国燎原は、静かだった。


黒のベストは汗ひとつ吸っていないように見えた。白いシャツの袖口は整い、キューを握る右手にも震えはない。髪の先が照明を受けてわずかに光り、横顔には、勝利への興奮も、挑発の笑みも、狂気の色も浮かんでいなかった。ただ、次に起こることを、すでに見終えている人間の顔だった。


客席が遅れて爆ぜた。


「何だ今の」


「全部って言ったか?」


「ブレイクで?」


「1から10まで?」


ざわめきは波のように広がり、二階席の奥まで駆け上がった。スマートフォンを握りしめた観客が身を乗り出し、スタッフが慌てて静粛を促す。大会スタッフの腕章が照明の下で揺れ、レフェリーの白手袋がわずかに強張る。誰もが、この瞬間をどう扱えばいいのか分からずにいた。


実況席では、マイクが解説者の動揺した息を拾っていた。


「いま、三国氏……ええ、間違いありません。1番から10番まで、すべてを落とすとコールしました。これは通常のコールショットの範疇を超えています。ブレイクショットで全球の軌道を制御するなど、理論上、いや、実戦上は完全に不可能です。いくらゾーンに入っているとはいえ、これは……これは一体、何を見ているのでしょうか」


「レフェリーは確認しています。宣言として成立させるのか、いま確認が入っていますね」


レフェリーが三国へ歩み寄った。老練な男だった。数多くの国際試合を裁き、怒号も、抗議も、奇跡のようなショットも見てきた。その彼でさえ、ほんのわずか、声が低くなっていた。


「ミスター・ミクニ。確認します。あなたのコールは、ブレイクショットによって1番、2番、3番、4番、5番、6番、7番、8番、9番、10番を、この順序でポケットする、ということでよろしいですか」


「はい」


「すべてのポケットも、あなたは指定しますか」


三国はテーブルを見た。


緑のラシャの上、ラックに締められた球たちは沈黙していた。白い照明の下で、赤、青、橙、紫、黒、黄、緑、茶、縞、そして10番の青い帯が、硝子玉のように冷たい艶を返している。三国の瞳には、そのひとつひとつがもう動いていた。まだ静止している球の中に、衝突後の未来が折り畳まれている。ラシャの起毛。クッションの反発。球同士が触れる音の順番。ポケットの奥へ落ちるまでの角度。すべてが、白い線となって彼の脳裏に浮かんでいた。


「指定します」


三国は、順にポケットを告げた。


その声は淡々としていた。南西コーナー、サイド、北東コーナー。聞き慣れた言葉のはずなのに、観客たちには、それがもはやビリヤードの宣言ではなく、何かの呪文のように聞こえていた。実況席の解説者は途中で言葉を失い、ライアンは腕を組んだまま、唇を噛んだ。


「……本当にやる気か」


ライアンの声には、怒りよりも畏れが滲んでいた。


三国は答えなかった。


もう、周囲の音は届いていなかった。


32歳の肉体と精神が、極限の集中――ゾーンの最深部で完全に融け合っていた。視界の端で揺れる観客の顔は、遠くの水面に映った影のように曖昧になり、実況の声も、空調の唸りも、二階席のざわめきも、すべて薄い膜の向こうへ遠ざかっていく。残ったのは、テーブルだけだった。


テーブルは、もはや長方形ではなかった。


それは一枚の地図だった。あるいは、まだ誰にも読まれていない楽譜だった。緑のラシャの上に、球たちがこれから描く未来の軌道が、幾何学的な純白の線となって浮かび上がっている。1番が弾け、2番に触れ、手球がわずかに逃げ、4番がクッションから戻り、8番が影のように隙間を通る。数えきれない衝突が、ひとつの静かな秩序を持っていた。


三国はキューを構えた。


ウッドシャフトが照明を細く反射する。彼の左手がラシャの上に橋をつくり、指の間にキューが滑り込む。親指の付け根に、乾いたチョークの粉がかすかに残っている。タップの先端は、手球の芯よりほんの少しだけ上。ほんの少しだけ右。だがその「ほんの少し」が、世界のすべてを分ける。


「チェック」


短く呟いた。


レフェリーが一歩下がる。会場が息を止める。照明が唸る。観客席の誰かが、祈るように両手を握りしめる。


次の瞬間、三国の右腕が動いた。


時速40キロメートルを超える、彼の人生で最も苛烈なブレイクショット。引き絞られた弓のようにしなったシャフトが、凄まじい風切り音とともに手球の芯を撃ち抜いた。


――カギィィィィン!!


静謐な空間に、鼓膜を破らんばかりの衝突音が炸裂した。


手球がラックの頂点へ激突し、10個の球が爆発したように四方へ散る。球と球がぶつかり、クッションが鳴り、ポケットの縁が硬く震える。乾いた音、湿った音、鋭い音、低い音。無数の音が重なり、センターコートの空気が一瞬で砕けた。観客席の全員が立ち上がりかけ、実況が叫び、ライアンが目を見開く。


その激しいプラスチックの悲鳴を背中で聞きながら、三国は突き終えたフォームのまま、まだ前方を見ていた。


次の刹那、音が消えた。


「……え?」


自分の声だけが、いやに近く聞こえた。


緑のラシャも、色鮮やかな標的球も、観客のどよめきも、照明の熱も、チョークの匂いも、すべてが一瞬にして掻き消えていた。さっきまで全身を包んでいた会場の熱気が、まるで濡れた布を剥がされるように消え、肌の上には温度のない空白だけが残った。


気がつけば、三国は見たこともない白い部屋の真ん中に立っていた。


壁も、床も、天井も、すべてが境界を失ったかのように純白だった。影がなかった。光源もなかった。だが、明るい。自分の足元さえ床に接しているのか分からず、上下の感覚がひどく曖昧だった。手には、まだ突いた瞬間の微かな振動が残るカスタムキューが握られている。右手の皮膚にだけ、現実がかろうじて残っていた。


「ここは……どこだ?」


三国が動揺して声をあげたその時、背後から、聞いたこともない乾いた弦の音が響いた。


ぽろん。


それはギターではなかった。ハープでもない。もっと古く、もっと細く、もっと遠い時代の空気を震わせるような音色だった。音は白い部屋の中を渡らず、直接、三国の胸の奥に沈んできた。心臓の裏側に、冷たい指先で触れられたような感覚があった。


三国は、ゆっくりと振り向いた。


白い部屋の奥に、いつのまにか一脚の椅子が置かれていた。椅子もまた白かった。だが、この境界のない空間の中で、その椅子だけは輪郭を持つことを許されているかのように、静かにそこに在った。


その椅子に、ひとりの女が腰かけていた。


長い耳。淡く透けるような金の髪。人間離れした白い指。女は膝の上に抱えたリュートの弦を、爪の先でかすかに弾いていた。古い物語から抜け出してきたエルフのようだった。いや、三国の頭が、そう理解するしかない形を勝手に選んでいるのかもしれなかった。


女は何も言わなかった。


ただ、視線を向けてきた。


来い、と言っている。


言葉ではない。唇も動いていない。だが、三国にはそう分かった。まるで、次に撞くべき球の軌道が見えるように。まるで、手球の行く先が、あらかじめラシャの上に白く引かれているように。


三国はキューを握ったまま、おもむろに足を運んだ。


一歩。


白い床は音を返さない。


二歩。


距離感が狂っていた。女は十メートル先にいるようにも、一歩先にいるようにも見える。歩いても歩いても近づかないようでいて、瞬きをするたびに、その輪郭だけが鮮明になる。リュートの木肌、椅子の脚、女のまつげ、弦に触れる指先。現実ではありえないほど細部だけが浮かび上がっていく。


三歩目を踏み出したところで、女の指が弦の上で止まった。


「三国燎原」


初めて、声がした。


それは人の声というより、古い記録紙をめくる音に似ていた。乾いていて、静かで、それでいて、抗いようもなく耳に残る声だった。


「あなたは、成しました」


「……何を」


「ブレイク10」


女はそう言って、リュートを抱いたまま、ゆっくりと微笑んだ。


三国は眉をひそめた。


「まだ結果を見ていない。俺は撞いた。だが、その後は――」


「見なくても、結果は記録されています。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。すべて、あなたの宣言通りに落ちました」


その瞬間、三国の指先に、遅れて震えが走った。


歓喜ではなかった。恐怖でもなかった。ただ、あの一打が本当に成立したという事実だけが、脳の奥で硬い音を立てて噛み合った。何万時間も握ってきたキュー。何百万回も見てきた球の動き。勝利、敗北、集中、失敗、修正。そのすべてが、いまひとつの点に収束していた。


「ありえない」


「ええ。ありえません」


女は静かに頷いた。


「だからこそ、ここへ来ました」


「ここはどこだ」


「記録の余白」


「……記録?」


「私は、10ボールにおけるブレイク10のミーム」


女の声に合わせて、白い空間の奥で、かすかに球の衝突音がした。遠い。だが確かに、それはビリヤードの音だった。どこかの酒場。どこかの練習場。どこかの地下室。どこかの大会会場。無数のテーブルで撞かれた無数のショットが、白い部屋の外側で、薄い膜越しに鳴っている。


「10個の球が、ひとつのブレイクによって、宣言された順序のまま、すべてポケットへ沈むという概念。その発生を待ち、その痕跡を保存し、その達成者へ褒賞を渡すもの」


三国は、すぐには返事をしなかった。


言葉の意味は分かる。だが、理解は追いつかない。世界のどこかに、自分の一打を見ていた誰かがいるという話ではない。これはもっと奇妙だった。競技そのものが、記録そのものが、誰にも語られていない伝説そのものが、人の形をして目の前に座っている。


「……エルフか?」


女は少しだけ首を傾げた。


「あなたの脳が、私をそう見ています」


「本当は違うのか」


「本当の姿など、ありません。あなたが理解できる形で、私はここに在ります」


ぽろん、と、ふたたびリュートが鳴った。


音が白い部屋に染み込む。その音色の奥に、三国は一瞬だけ別の景色を見た。煙草の煙が濃く漂う古いビリヤード場。天井の低いアメリカのバー。雨の日のフィリピンの街角。日本の片隅にある、昼間から誰もいない練習場。摩耗したラシャ。曲がったキュー。笑い声。舌打ち。賭け金を握る手。震える初心者の指。老いた名手の背中。


「三国燎原。あなたは、ブレイク10を達成しました。その褒賞として、あなたに歴史を授けます」


「歴史?」


「10ボールのすべての記録。生まれた瞬間から、現在まで。公式戦/非公式戦/名もなき賭場/地下のテーブル/誰にも見られなかった練習台。すべてのショット。すべての失敗。すべての配置。すべての呼吸。すべての後悔」


三国の喉が、かすかに鳴った。


「そんなものを、俺にどうしろと」


「それは、あなたが決めることです」


女の瞳が、まっすぐに三国を射抜いた。


「私は、授けるだけ」


次の瞬間、白い部屋の輪郭が揺らいだ。


遠くから、歓声が聞こえた。最初は水の底で鳴る音のように鈍く、次に壁の向こうから響く雷鳴のように大きくなり、やがて耳を裂くほどの現実味を帯びて押し寄せてくる。熱が戻る。照明の眩しさが戻る。ラシャの匂いが戻る。チョークの粉っぽさが戻る。人間たちの興奮で膨れ上がった会場の空気が、肌へ一気に叩きつけられる。


三国は咄嗟にキューを握り直した。


「待て。俺は――」


女は答えなかった。


ただ、最後にもう一度だけ、弦を弾いた。


ぽろん。


その音が鳴った次の刹那、白は砕けた。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


三国は、センターコートに立っていた。


会場は爆発していた。


観客席は総立ちだった。椅子が跳ねる音、靴底が床を踏み鳴らす音、誰かの叫び声、誰かの笑い声、誰かの泣き声。それらが巨大な熱の塊となって、天井へ向かって渦を巻いていた。照明はさっきよりも眩しく、汗ばんだ観客たちの顔を白く照らし、掲げられた腕の影が壁に幾重にも揺れている。スタッフが制止しようとしているが、誰も座らない。誰も黙れない。誰も、いま見たものを静かに受け止めることができなかった。


実況席では、アナウンサーがほとんど叫んでいた。


「入りました! 入りました! 全部です! 全て入りました! 1番、2番、3番、4番、5番、6番、7番、8番、9番、そして10番! 三国燎原、ブレイクショットで全球を沈めました! これは、これは何ということでしょうか!」


「信じられません……こんなものは、理論では説明できません。いま、私たちは、ビリヤードの歴史の外側にあるものを見ています……!」


ライアン・ブレイクは、口を半開きにしたままテーブルを見つめていた。怒りも悔しさも、そこにはなかった。彼の顔に浮かんでいるのは、ただ、圧倒的な敗北を前にした人間の空白だった。やがて彼はゆっくりと三国を見た。


「……何をしたんだ、ミクニ」


三国は答えなかった。


答えられなかった。


彼の視線は、ゆっくりとテーブルへ落ちていた。


そこには、何も残っていなかった。


手球だけが、ブレイク後の荒れた戦場の中心で、静かに止まっていた。緑のラシャの上に、さっきまであったはずの色がない。1番も、2番も、3番も、4番も、5番も、6番も、7番も、8番も、9番も、10番も。すべて、消えていた。ポケットの奥底に沈み、もう戻ってこない。


レフェリーが震える手で記録を確認する。


会場の熱が、さらに膨れ上がる。


三国は、その中心に立っていた。勝者として。奇跡の達成者として。だが彼の耳の奥には、まだリュートの音色が残っていた。歓声の海の底で、ぽろん、と乾いた弦が鳴っている。


そして三国の頭の中には、見知らぬ誰かが百年前に外したバンクショットの角度が、まるで自分の記憶のように、鮮明に刻み込まれていた。



パターン2:

十月の風は、容赦なく冷たかった。


東都音楽大学の裏手にある古びたトラック(運動場)は、夜の間に降った雨のせいで、一面の芝生がしっとりと濡れていた。濡れたコンクリートと、色づききらない銀杏の葉の匂いが混じり合い、薄い霧のように立ち込めている。


「ほら、しっかり走れ! 燎原りょうげん!」


前方から、いかにも健康そうなオーケストラ科の友人たちの声が響く。彼らは軽快にトラックのコーナーを曲がっていった。


その後方を、息も絶え絶えに走る――いや、辛うじて足を前に進めている男がいた。

三国みくに燎原、28歳。古楽科に籍を置く、リュート奏者である。


「燎原」という、草木を焼き尽くす野火のような激しい名をもらいながら、彼には絶望的なまでに体力がなかった。痩せた肩を小さく揺らし、乾いた唇から白い息を吐き出す。使い込まれた銀色の腕時計に目を落とすと、まだ走り始めてから三分しか経っていない。すでに膝は笑い、肺は冷たい空気を吸い込んで悲鳴を上げていた。


案の定、その日のヤード(運動場)でのランニングでも、彼は圧倒的な「ビリ」だった。


「お疲れ、今日も見事な最下位だな」

走り終え、トラックの隅のベンチでへたり込んでいる三国に、友人たちがスポーツドリンクを差し出しながら笑った。

「お前、いい加減にそのあだ名、定着しすぎだろ」


「……あだ名?」

三国は喉を鳴らしながら、かすれた声で聞き返した。友人たちはニヤニヤしながら頷く。


「そうさ。ヤードのランニングで、いつもビリのお前。人呼んで――『ビリヤードの三国氏』」


緑の芝生ヤードの上で、いつも最後にトボトボとやってくる男。それが、彼が学内で勝ち得た、不名誉きわまりない称号だった。本物のビリヤードのキューなど、一度も握ったことがないというのに。


三国は苦笑いしながら、ベンチの脇に置いてあった茶色い革のケースを愛おしそうに抱え上げた。

中に入っているのは、梨を縦半分に割ったような形の、繊細な古楽器――リュートだ。


夕暮れが近づき、大学の古い煉瓦舎に灯りがともる頃、三国は誰もいない第三練習室にこもった。

窓の外では雨がまた静かに降り始め、ガラスを伝う水滴が、蛍光灯の冷たい光を反射している。


三国はそっとリュートを胸に抱き、その繊細なガット弦(羊の腸で作られた弦)に指を触れた。

彼の指先は白く、乾いており、弦を押さえる爪の際には少しだけ楽器のワックスの粉が残っている。


ぽろん。


爪の先が弦を弾いた瞬間、練習室の湿った空気が、一瞬で中世ヨーロッパの宮廷のような静謐さへと塗り替えられた。


彼には走る体力はなかった。けれど、この繊細な楽器を操るための、ミリ単位の指先の制御力と、複雑な多声法ポリフォニーの楽譜を読み解く冷徹な頭脳だけは、誰よりも研ぎ澄まされていた。


彼の指が動く。一秒。また一秒。

手首の時計の秒針がチクタクと進むその一秒の底で、リュートの弦は一秒間に何千回、何万回という高速のサイクルで、正確な振動を繰り返している。


そのとき、三国の脳裏に、昼間の友人たちの言葉がふとよみがえった。

『ビリヤードの三国氏』。


彼はふっと唇の端を綻ばせ、楽器の響孔サウンドホールに施された、精巧な透かし彫りを見つめた。

球を突くキューの代わりに、自分はこの木製のネックを握り、緑のラシャの代わりに、緑のヤードでビリを走っている。


けれど、この手首の時計の奥で、そしてリュートの美しい音色を決定づけている結晶の中で、ただ実直に振動を続けているもの。それは、地球が途方もない時間をかけて育んできた、クォーツという名のひとかけらの石――。


三国は、静かに最後の和音をかき鳴らした。

その乾いた残響は、雨音の中にゆっくりと、しかし硬質に溶けていく。


仲間たちがからかう彼の「ビリヤード」というあだ名。しかし、彼がこの小さな部屋で孤独に爪弾き、積み重ねてきた音の数々こそが、最も美しい三国の歴史だった。

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