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私とGPTさんの千夜一夜物語  作者: テスト


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0069.腕時計× 鉱石 × 宇宙論

とある十月の午後、東都理科大学の第三講義棟は、雨に濡れたコンクリートの匂いを薄くまとっていた。四階の大講義室では、後期課程の選択科目「現代宇宙論特講」が始まっている。教室は古く、固定式の木製机には何代もの学生が残した鉛筆の傷があり、背もたれは体重を預けるたびに小さく軋んだ。蛍光灯は白く冷たく、黒板の上部だけをやけにはっきり照らしていた。


黒板の前に立っているのは、白髪まじりの理論物理学者、黒瀬遼一教授だった。痩せた肩に濃紺のジャケットを引っかけ、袖口からは使い込まれた銀色の腕時計が覗いている。チョークを持つ指先は乾いており、爪の際には白い粉が入りこんでいた。黒瀬は学生の顔を見ているようで、実際にはその背後、黒板のさらに向こう側にある何かを見ているようだった。

「宇宙の寿命について、考えたことがありますか」


その声は大きくない。だが、妙に遠くまで届いた。ざわついていた講義室が、少しずつ静かになっていく。前列の学生がペンを持ち直し、後ろの席で伏せかけていた学生が顔を上げる。雨粒が窓を叩く音だけが、うっすら残った。


黒瀬は黒板に白い横線を一本引いた。始まりと終わりを示すような、ただの線だった。

「私たちは、宇宙にも始まりがあると教わってきました。ビッグバンです。そして、いつか終わりが来るかもしれない。熱的死、ビッグリップ、ビッグクランチ。呼び名はさまざまです」


彼はそこで一度、チョークを置いた。教室の端から端までをゆっくり見渡す。その目は、眠そうにも、疲れているようにも見える。ただし、その奥だけが濡れたヘマタイトのように硬かった。

「では、宇宙が一度きりでないとしたら?」


学生の一人が、ノートに走らせていたペンを止めた。黒瀬は再びチョークを取り、最初の線の終点から、今度は丸く膨らむような曲線を描いた。膨張し、縮み、また膨張する波。その波は黒板の左から右へ、呼吸のように続いていく。

「生まれて、消えて、また生まれる。反復を繰り返すたびに、何かがわずかに受け渡されていく。そんな宇宙のモデルを、聞いたことがありますか」


黒板には、Cycle、Entropy、Bounce、Gravitational Wave、CMB Polarization といった英単語が、互いに細い矢印で結ばれていった。文字の並びは難解だったが、黒瀬の手つきは不思議なほど穏やかだった。まるで長年失くしていた人物の顔を、記憶だけでなぞっているようだった。

「サイクリック宇宙論。循環する宇宙。始まりと終わりを別々のものとしてではなく、ひとつの現象の異なる局面として扱う考え方です。宇宙は膨張し、希薄になり、ある条件のもとで次の相へ移る。収縮、反転、再膨張。ビッグバンは絶対の始まりではなく、バウンス、つまり前の宇宙から次の宇宙へ移る境界面だったのかもしれない」


後方で誰かが小さく咳をした。黒瀬は気にせず続けた。

「腕時計をお持ちの方は、一秒を数えてみてください」


何人かの学生が、反射的に自分の手首を見た。スマートフォンの画面を点ける者もいた。黒瀬自身も、左手首の時計に視線を落とす。銀の秒針が、何の感慨もなく、ひとつ進んだ。

「一秒」


彼はそう言って、少しだけ間を置いた。

「私たちにとって一秒は、まばたきより少し長い時間です。退屈な講義なら、なおさら長く感じるかもしれない」


教室のあちこちで、控えめな笑いが漏れた。黒瀬は微笑まなかった。ただ、チョークの先で黒板を軽く叩いた。

「では、その一秒を、プランク時間で割るとどうなるか。プランク時間は約 5.39 × 10⁻⁴⁴ 秒。物理学で意味を持つとされる、極限に近い時間の単位です。つまり、一秒の中には、およそ 1.85 × 10⁴³ 個のプランク時間がある」


黒瀬は数字を書いた。1.85 × 10⁴³。巨大すぎて、かえって実感のない数だった。教室の空気が少し変わる。誰も、その数字を日常に置き換えられなかった。砂粒、星、細胞、どれを持ってきても足りない。ただ、その途方もなさだけが、冷たい水のように机の上へ広がっていった。

「もしも、宇宙の誕生と死が、私たちの想像する時間尺度ではなく、もっと根源的な単位で起きているとしたら。もしも、私たちの一秒の底で、無数の宇宙が生まれ、ほどけ、次の宇宙へと情報の影だけを渡しているとしたら」


黒瀬の声が、わずかに低くなった。

「私たちは、どの宇宙の何秒目を生きているのでしょうか」


誰も答えなかった。答えを求める問いではないことを、学生たちはどこかで感じていた。窓の外の雨が強くなる。講義室の天井裏で、古い配管が微かに鳴った。


黒瀬は黒板の端に LIGO と書いた。その横に、CMB-S4、LiteBIRD、PTA と書き添える。さらに、青い傾斜、Bモード、非ガウス性、と続けた。学生の半分はもう追えていない。だが、誰も席を立たなかった。

「一年前、重力波観測網による確率的重力波背景の詳細分析から、奇妙な偏りが見つかりました。個々のブラックホール合体ではありません。宇宙全体に薄く残っている、重力波のざわめきです。最初はノイズと考えられた。装置の癖、解析手法の偏り、銀河系内の前景信号。そう疑うのが科学として正しい。けれど、消えなかった」


チョークが途中で折れた。乾いた音が講義室に響いた。黒瀬は折れた先を拾い上げ、何事もなかったようにまた書き続ける。

「その揺らぎには、低い周波数より高い周波数のほうがわずかに強い、青い傾斜があった。普通のインフレーション宇宙論が期待する形とは、少し違っていた。さらに、CMB、つまり宇宙マイクロ波背景放射の偏光データにも、同じ方向を指す小さな歪みが見つかった。単独なら偶然です。単独ならノイズです。ですが、重力波背景、CMBのBモード偏光、銀河分布の大規模構造、その三つを重ねたとき、ばらばらだったはずのノイズが、同じ旋律を奏で始めた」


最前列の女子学生が、少し身を乗り出した。黒瀬は黒板に一本の矢印を書いた。収縮期→バウンス→再膨張。

「サイクリック宇宙論では、ビッグバン以前に収縮する宇宙があったと考えることができます。その収縮期で作られた密度のゆらぎや時空のしわが、バウンスを越えて次の宇宙に受け渡される。もちろん、何もかもが保存されるわけではありません。記憶がそのまま残るわけでもない。けれど、完全に消えるわけでもない。前の宇宙の最後の低い唸りが、今の宇宙の最初の光に、かすかな傷として残る可能性がある」教室は静まり返っていた。黒瀬の声が、雨音の中でゆっくり沈んでいく。


「証明、という言葉を軽々しく使ってはいけません。物理学における証明とは、数学の定理のようなものではない。観測が積み重なり、別々の装置が同じ結論を指し、競合する理論が次々と退いていく。その末に、私たちはようやく、たぶん宇宙はこうなっている、と言うことを許される」


彼は振り返り、学生たちを正面から見た。

「昨年の解析で見つかったのは、サイクリック宇宙論を完成させる最後の断片ではありません。ただ、長年『ありえない』と片づけられてきたモデルに、観測の側から初めて手が伸びた。そう言うべきものです」


黒瀬はそこで少し息を吸った。言葉を選ぶように、黒板の白い粉で汚れた指を見つめる。

「それでも、宇宙が一度で終わらないという考えは、人間の孤独を少しだけ変える。私たちの存在が繰り返されるという意味ではありません。死んだ者にまた会えるという意味でもない。ただ、消滅が完全な無ではなく、次の形へ移る過程かもしれない。そう考える余地が、物理の中に残されている」


教室のどこかで、シャープペンシルの芯が折れた。黒瀬は腕時計を見た。講義終了まで、あと三分だった。

「今日の講義はここまでにします。次回は、エントロピーの増大と周期宇宙モデルの矛盾について扱います。レポート課題は、大学ポータルに上げておきます」


その瞬間、いつもの講義室に戻った。椅子の脚が床をこする音、鞄のファスナーを閉める音、スマートフォンを確認する音。学生たちは少し名残惜しそうに、しかし次の予定へ追われる顔で席を立っていく。黒瀬は黒板消しを手に取り、先ほどまでの宇宙を端からゆっくり消していった。Cycle も、Entropy も、Bounce も、1.85 × 10⁴³ も、白い粉になって落ちていく。積もったチョークの粉は、乾いた星屑のようだった。


講義室を出ると、廊下はひどく寒かった。古い校舎特有の、日が入らないコンクリートの冷えが足元から上がってくる。廊下の窓には雨に濡れたキャンパスが映り、遠くの中庭では、傘を差した学生たちが点のように行き交っていた。黒瀬はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、不在着信が三件。すべて海外からの番号だった。


そのとき、再び着信音が鳴った。廊下にいた学生が、ちらりと振り返る。黒瀬は一歩だけ壁際に寄り、通話ボタンを押した。

「黒瀬です」


電話の向こうから、最初に聞こえたのは息遣いだった。次に、英語の声。落ち着いているが、抑えきれない熱を含んでいた。

“Professor Kurose, can you hear me?”

「ええ、聞こえています」


廊下の蛍光灯が、かすかに瞬いた。黒瀬は何も考えず、窓の外を見た。雨粒がガラスを伝い、ひとつの線になり、途中で別の粒と合流して、また下へ落ちていく。

“Congratulations. The committee has decided.”


黒瀬の指が、スマートフォンを握ったまま止まった。

相手は続けた。ノーベル物理学賞。確率的重力波背景の解析。CMB偏光観測との一致。サイクリック宇宙論に関わるバウンス因子の理論的予言。長年にわたる理論物理学への功績。いくつもの言葉が、順番に耳へ入ってくる。だが、黒瀬にはそれらが少し遅れて届いた。遠い宇宙の光が、何億年もかけて地球に辿り着くように。

「……そうですか」


それだけ言うのが精一杯だった。

電話の向こうで祝福の言葉が続いている。黒瀬は小さく礼を言い、公式発表の時間を確認し、いくつかの手続きについて頷いた。通話を切ったあとも、彼はしばらくスマートフォンを耳に当てたままだった。もう何も聞こえない。聞こえるのは雨と、遠くの教室から漏れる学生の笑い声だけだった。


黒瀬はゆっくり腕を下ろした。窓ガラスに、痩せた自分の顔が映っている。白髪の増えた頭、深くなった目尻、何年も眠りが浅かった者の頬。その背後には、さっきまで講義を受けていた学生たちの残像が重なって見えた。

「先生?」


声をかけたのは、講義の最前列に座っていた学生だった。藤堂真帆という、大学院一年の学生である。手にはノートを抱えている。黒瀬が振り向くと、彼女は少し困ったように眉を下げた。

「今の講義、すごく面白かったです。あの、最後のところ……前の宇宙の傷が、今の宇宙の光に残っているかもしれないっていう話」


黒瀬は、まだどこか現実に戻りきらない目で彼女を見た。


「詩のようでしたか」

「いえ」


藤堂は少しだけ考えた。

「怖かったです。でも、少し安心もしました」


黒瀬はその言葉を聞いて、初めてほんの少し笑った。口元だけの、疲れた笑みだった。

「それなら、今日の講義は成功です」


藤堂は何か言いかけたが、黒瀬の手の中のスマートフォンがまた震えているのを見て、言葉を飲み込んだ。画面には新しい通知が次々と浮かんでいた。海外の研究所、共同研究者、大学本部、知らない報道機関。世界が急に、黒瀬遼一という一人の老いた物理学者を見つけたかのようだった。

「先生、何かあったんですか」


黒瀬はすぐには答えなかった。廊下の先では、清掃員がモップで床の雨跡を拭いている。窓の外の銀杏が、風に揺れている。腕時計の秒針が、また一秒を刻んだ。その一秒の底に、数えきれない時間が沈んでいる。

「少しだけ」


黒瀬は言った。

「宇宙が、こちらを振り向いたのかもしれません」


藤堂は意味がわからず、瞬きをした。黒瀬はスマートフォンを内ポケットにしまい、廊下の向こうへ歩き出した。足音は静かだった。受賞の歓喜というにはあまりに控えめで、勝利というにはあまりに寂しい歩き方だった。


だが、その背中には、講義室で語られた宇宙の反復が、かすかな余韻としてまとわりついていた。生まれて、消えて、また生まれる。ひとつの理論が、長い年月をかけて嘲笑され、忘れられ、再び観測の中から息を吹き返す。黒瀬にとって、その知らせは栄誉である前に、宇宙が長い沈黙のあとで返してきた、たった一度の返事のようだった。


功績こうせき鉱石こうせき

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