0065.チェス × ベートーヴェン × 空飛ぶじゅうたん
チェス世界王者アルバトロスは、超高層複合施設ディープサファイアの127階で暮らしていた。
全高2300メートル。851階建て。
深海を思わせる濃紺のガラス外壁が、砂漠の陽光を受けて昏く輝いている。人類が建てた建築物の中で、最も空に近い場所だった。
最近の楽しみはランチタイムだった。851階屋上。全面にペルシャ絨毯が敷き詰められた展望広場。
人々はそこを「空飛ぶ絨毯」と呼んでいた。雲より高い場所で食べるランチは格別だった。
ただし、弁当だけは別だ。正直冷たい。正確には、温まり切らない。
アルバトロスは日本の加熱式駅弁が好きだった。紐を引く。待つ。湯気が出る。蓋を開ける。
その儀式が好きだった。だが空飛ぶ絨毯では違う。湯気は出る。容器も熱い。しかし米の芯だけが冷たい。牛肉はぬるい。毎回だ。
最初は製造不良を疑った。次は輸送を疑った。最後は自分の舌を疑った。だが何十個試しても同じだった。
ある日、行きつけの寿司屋の店長が言った「それなら鳥津製作所ちゃいますか」
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大阪、東成区。従業員十二名。鳥津製作所。
社長の鳥津耕一は話を聞き終えると「ほな、一個送って」と言った。
三日後、鳥津製作所の会議室。分解された駅弁が机に並ぶ。耕一は資料を見ない。
弁当を見る「加熱剤は仕事しとるな」「はい」娘の葉月が答える。「蒸気も出ています」「でも飯はぬるい」「はい」
耕一は黙った。加熱剤を手のひらに乗せて、しばらく眺めた。それだけ見ていた。
「葉月」「はい」「これ、どこのや」
葉月は一瞬止まった。加熱剤のパッケージを裏返す。「中東向けの加熱材のようです」
耕一はそれを机に置いた。「ほな、現場見てこい」
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ドバイ、ディープサファイア。
地上から見上げると、ビルは空に溶けて消えていた。濃紺の外壁は高度を上げるにつれて青みを深め、雲を突き抜けた先では夜と見分けがつかなかった。
葉月は851階まで上がった。エレベーターの表示は延々と数字を刻み続ける。612。701。784。829。そして851。
扉が開いた瞬間、葉月は思わず息を止めた。
目の前には雲海が広がっていた。地平線が丸く見える。太陽がひとつ、雲の上にある。
もうひとつの太陽のような光が、眼下の雲海に映っていた。風はない。この高さでは、空気そのものが静止しているように感じた。。。
空飛ぶ絨毯。ペルシャ絨毯の緻密な模様だけが、雲の白と空の青の静寂に浮かんでいた。
葉月は朝から弁当を食べ続けた。気温を測った。湿度を測った。気圧を測った。この高さの空気は、もはや高山そのものだった。
加熱剤は正常に動いている。問題は加熱剤ではなかった。平地を前提に設計されていることだった。
この気圧では水は低い温度で沸騰する。蒸気は早く逃げる。熱は十分発生しているのに、米の芯まで届かない。
夕方、雲海が橙色に染まりはじめた頃、葉月はノートを閉じた。
アルバトロスが待っている。「原因は?」
葉月は答えなかった。空飛ぶ絨毯の端まで歩いて、眼下の雲を見た。それから振り返る。
「やるだけやってみます」
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帰国後、耕一はレポートを一通り目を通した。「ほな、作るか」
──4か月後
試作品一号:弁当用気圧調整弁付き弁当
加熱時に弁当内部の圧力を制御し、蓋を開ける瞬間まで平地に近い環境を維持する。
気圧が高まれば沸点も上がる。熱は逃げにくくなる。見た目は何も変わらない。ごく小さな弁だった。
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空飛ぶ絨毯。
夕暮れの雲海が、深紺に変わりはじめた時刻だった。アルバトロスは紐を引く。待つ。
──ポーン。
小気味よい音が響き、弁当弁が作動した。蓋を開ける。白く濃密な湯気。そして目の眩むような米の香りが、雲上の冷えた空気に広がった。
一口食べる。二口食べる。三口食べてから、アルバトロスは弁当箱をじっと見た。それから眼下の雲海を見つめ、静かに微笑んだ。
「チェスも弁当も、ポーンが重要なんだな」
何も言わなかった葉月が、その時だけ小さく口元を緩めた。アルバトロスは残りを静かに、最後まで食べた。
空飛ぶ絨毯には風が吹いていた。弁当の香りだけが、しばらく残った。
ディープサファイアの外壁が、夜の色に沈んでいった。
弁当用気圧調整弁→通称:弁当弁 →ベートーヴェン
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