0064.オリエント急行 × スペイン × 赤ずきんちゃん(実験的)
赤ずきんちゃん(26才)が、人狼ハンターになっているという話し
Specter in the Moonscar
1926年11月 ──
パリ東駅は、濡れた獣の毛皮のような夜気に包まれていた。
蒸気が低く這う、白い煙はホームを滑り、黒い鉄骨へ絡みつき、ランプの光を乳色に滲ませている。
遠くでベルが鳴るたび、人々の輪郭は煙の奥で曖昧に崩れた。
そしてその中心に、オリエント急行はいた。
青い車体、金の装飾、磨き抜かれた真鍮。
古代の巨大な蛇が眠っているようだった。
女は立ち止まる。
赤いフード付きコートの裾が、冷たい風にわずかに揺れた。
そう赤、だが若い娘のための色ではない。
乾いた薔薇、古いワイン。あるいは、時間の経った血の色。
「ご乗車券を」
車掌の眉がほんの僅かに動いた。
細長い黒ケースそして狩猟銃。
女は無言で切符を差し出す。
*"Miss Hood"*
東方行き、終点近くまで。
「ルーマニアまでとは……珍しい」
女は答えなかった。
-~~~
個室へ入り、扉を閉める。
外の冷気とは別世界の空間。
深紅の絨毯、ニスの香る象嵌のある木壁、ランプの琥珀色の灯り。
香水、葉巻、ブランデー、ヨーロッパの腐りかけた上流階級が、そのまま密閉保存されているような匂い。
女には分かる。
この列車には、死臭が染み込んでいる。
塹壕、泥、腐肉、毒ガス、そして狼。
彼女の左腕が疼いた。
ズキン
コートの下、手首から肘へ走る古傷が、赤黒く光りながら熱を帯びる。
*Moonscar*(月傷)
そこから出る呪いを彼女は「スペクター」と呼んだ。
~~~
女は、旅行鞄を開き、黒布からそっと精巧な銀細工を取り出す。
それは、分解された特殊ライフル。
長い銃身、磨かれたボルト、複雑な古代文字が書かれている。
彼女は慣れた手つきで部品を並べる。
カチャ
カチャリ
金属音が小さく響く、確認する、清める、組み上げる。
これは儀式ともいえるほど、厳かにそして精緻な作業。
そして別の木箱の蓋を開ける。
銀の弾丸が並んでいた。
六発。
ランプの光を受け、墓石のような冷たい輝きを返している。
女は一発を摘み上げる。
その瞬間、左腕が激しく脈打った。
ズキン ズキン
赤黒い光が古傷を走る。
彼女は薄く息を吐く。手袋を外す。古傷が露わになる。
普通の傷ではない、裂け目のそこが見えない。
ほんの一瞬だけ鏡を見る。
鏡の中の自分の瞳孔が、獣のように細く見えた。
銀弾を一発、指の間で転がし
「鎮まれ」
古傷が、それでも脈打つ。
「……スペクター」
名前を呼ぶと、少しだけ熱が引いた。
気のせいかもしれない。
彼女は儀式に戻り、弾を装填していった。
贖いの血、六発分。
カチリ
カチリ
カチリ
カチリ
カチリ
カチリ
契約は、まだ終わらない。
~~~
列車は東へ走る。
ウィーンを越え、ブダペストを越え、文明の灯りが薄れていく。
そして数日後。
カルパチア山脈
雪
黒い森
夜
人狼は逃げていた。
巨大な影が雪原を駆ける。
灰色の毛皮、異様に長い四肢、裂けた口。
だが完全な獣ではない。
人間の面影が残っている、それが余計に醜悪だった。
銀弾が肩を貫いている。
傷口から黒い煙が立ち昇る。
赤ずきんは追う。
雪を踏み砕きながら。
赤いフードが吹雪の中で揺れる。
左腕は、もはや焼けた鉄みたいに熱かった。
ズキン ズキン
*こっちだ、とスペクターが言う。*
*もっと速く、とスペクターが言う。*
彼女は走る。
スペクターに従いながら、スペクターを憎みながら。
-~~~
人狼が振り返る。
金色の目、その口が裂ける。
「なぜ追う」
声は獣と人間の中間だった。
「お前も同じだろう」
赤ずきんは答えない。雪の中で立ち止まる。
白い吐息。
銀のナイフを抜く、月光が刃を青白く染める。
人狼は笑った。
「聞こえるはずだ」
森の奥から遠吠え、群れ、血、狩り。
人狼が両腕を広げる。
「人間など皮に過ぎん」
ズキン
視界が歪む。
骨の奥から声がする。
*裂け。喰らえ。狩れ。*
それはスペクターの声だった。
それとも、自分自身の声だったか。
人狼が一歩踏み出す。
「お前の中にもいる」
赤ずきんは静かに顔を上げた。
フードの奥。
その目は、もう完全な人間のものではなかった。
左腕の古傷が赤黒く脈打ち、光る。
「……ええ」
低い声、ほとんど囁き。
「だからスペクターが訴えるのよ」
雪が舞う、銀の刃が月光を裂く。
「お前を殺せって」
次の瞬間、白い雪原に黒い血が散った。
Specter in the Moonscar → スペクター・イン・ザ・ムーンスカー → 略してスペイン
ズキン ズキン 赤ずきん




