0062.グラフィティ × 旧石器時代 × ピザ
ヤカは朝まだ暗いうちに目が覚める。獣皮の寝床は硬く、背中に石の冷たさが染みている。起き上がるとすぐに石斧を腰に差して、集落の外へ出る。息が白く凍る。
水場までは岩場を上り下りする道が続く。足の裏は厚く角質化しているが、それでも尖った石が時折刺さる。獣皮袋を肩にかけ、片手で岩を掴みながら進む。遠くで牙獣の低い唸りが聞こえるたび、ヤカは身を低くして息を殺した。
水を汲む。
冷たい水が袋に染み込み、重くなる。帰りは下り坂でも、肩が悲鳴を上げる。腕の筋肉が引きつり、指先が痺れる。それでもヤカは袋を下ろさない。集落の誰もがこれをやっている。やらないと死ぬ。
今日は”大切な日”だった。
ピッツァの日。
年に一度、平石の上で丸い生地を焼き、祖先へ捧げる祭り。かつて人々が毎日食べていたという、失われた食べ物の記憶だ。ヤカは本物を見たことがない。壁画でしか。
帰り道、ヤカの目がふと、塔の壁に残る赤い円へ留まる。
風化して色は薄れているが、あの赤だけは今でも妙に鮮やかだった。
丸い焼き物の上に散らばる、小さな赤い実。
古代人はいつも、それを乗せて笑っている。
ヤカは理由もなく、その赤に強く惹かれる。
喉の奥が熱くなる。
舌の根が疼く。
口の中に、甘酸っぱく濃厚な汁の感触が蘇る――そんな記憶など無いはずなのに、身体が勝手にそれを欲しがる。
赤い実。
熱い石の上で焼かれた丸い食べ物から、滴るように溢れる赤い実。
ヤカは無意識に唾を飲み込んだ。
集落では木の実も獣肉も食べる。だが、壁画の赤だけは違う。見ているだけで、腹ではなく、もっと古い場所が飢える。
まるで血そのものが、
「あれを知っている」
と囁いているようだった。
ヤカは首を振る。
そんなものは夢だ。
今は水がある。それだけで十分だ。
それでも唇を舐めると、なぜか舌がざらつく。
水袋の重さが肩に深く食い込む。ヤカは傾いた白い塔を、今日だけは見上げた。
崩れかけた巨大建造物。
無数の落書き。
赤い円盤。
誰も知らない。
ここがかつて、“ピサの斜塔”と呼ばれていたことを。
そして人類は、石器時代に戻ったのである。
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