0061.キリスト教 × 夕焼け × 実験室
夕焼けが、実験室のガラス壁を赤く染めていた。
キリストは焦っていた。
提出物が、まだ出来ていなかった。
机の上には、未完成の「最後の審判」資料。開きっぱなしのノートPC。冷えたコーヒー。試験管の中では、人工培養された”魂”が淡く発光している。
地球キリスト教実験。
提出期限は神の時間で一年。
人類時間に換算すると、およそ二千年ほどになる。
本来なら、もっと早く終わる予定だった。紀元三世紀には「そろそろ再臨する」と言われていたし、千年紀にもかなり空気は出ていた。だが結局、ローマが滅びても、ペストが流行っても、世界大戦が起きても、
「まあ次でいいか……」
を繰り返しているうちに、期限当日になってしまったのだ。
キリストは椅子にもたれ、天井を見上げる。
「……まあいいか」
誰に言うでもなく呟く。
「もういいや」
遠くで実験機材の駆動音だけが響いている。
「出来ないものは、出来ない」
試験管の中の”魂”をぼんやり見ながら、キリストは小さく笑った。
「だってもう、アンコントロールだもん」
SNS。
株価。
戦争。
生成AI。
陰謀論。
多様化した倫理。
無数に分岐した価値観。
二千年前なら、まだ世界は単純だった。
善と悪。
救済と堕落。
羊と山羊。
だが今は違う。
「信仰は死んでるし」
夕焼けがさらに濃くなる。
キリストは赤い空をぼんやり見つめた。
「今は多様性の時代だし」
しばらく黙ったあと、小さく肩をすくめる。
そして、一番言いたくなかった言葉を、誰もいない実験室に向かって呟いた。
「……そもそも、もう求められてる感じしないし」
声は機材の駆動音に吸い込まれ、消えた。
キリストはしばらくそのまま動かなかった。試験管の”魂”だけが、返事のように、かすかに揺れた。
「――それが答えか?」
声が響いた。
実験室の空気が変わる。
機械音が止まり、蛍光灯が一斉に明滅した。
キリストがゆっくり振り向く。
そこに、“デウス”が立っていた。
白衣でも法衣でもない。輪郭そのものが、夕焼けの逆光に溶けている。男にも女にも見える。老人にも少年にも見える。視認するたび、存在定義がずれていく。
キリストは目を逸らし、小さく肩をすくめた。
「……頑張ったんですけどね」
デウスは机の上の資料へ目を落とす。
『最後の審判計画』
『魂定着率』
『信仰維持シミュレーション』
どれも未完成だった。
沈黙が落ちた。
キリストはその沈黙に耐えられず、小さく付け加えた。
「……向こうが変わりすぎたんです。僕じゃなくても、たぶん無理でした」
デウスは何も言わなかった。
ただ、一枚の書類を静かに取り上げた。
表紙にはこう記されていた。
『地球キリスト教実験結果
―イエス』
デウスはキリストを見た。
一秒。あるいは永遠。
その目に、怒りはなかった。失望もなかった。
あったのは――何だろう。キリストには最後までわからなかった。
デウスは無言のまま、赤いハンコを押した。
実験失敗
夕焼けが、ガラス越しに滲んでいた。
「求められてる感じがしない」と言ったあの瞬間、デウスはすでにそこにいたのだろうか。キリストには、確かめる術がなかった。
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