第二章 一話
今日も魔王城のあちらこちらから、ほうきで床を掃く音、雑巾で磨く音、洗濯する音が聞こえてくる。
「ウッス。魔物の皆さん」
「マルコ様、オハヨウゴザイマス!!」
廊下を磨いていたオークが、慌てて背筋を伸ばした。大きな身体に似合わず、その動きは妙にきびきびしている。
その前に立っているのは、人間の男だった。
柔らかな黒いくせ毛は前髪が長く、目元を隠している。人間にしては背が高く、くたびれた作業着の上に洗いざらしのエプロンをまとい、手には使い込まれたモップを持っていた。
「様ってつけなくていいッスよ」
「ナリマセン。マルコ様ハ、魔王フィニア様ノ婿君。スナワチ、コノ城ニオケル最重要掃除指導者デアリマス」
「掃除指導者ッスか?」
「我ラ一同、日々ゴ指導ヲ胸ニ、汚レナキ魔王城ヲ目指シテオリマス」
「魔物の皆さんって、礼儀正しいッスね」
「モッタイナキオ言葉!!」
オークは感動したように頭を下げた。
マルコは持ってきたモップを構える。
「さ、今日も掃除洗濯するッスよ」
「ハッ! 本日ノ床磨き部隊、配置ニツイテオリマス!」
オークが重い家具を動かし、ゴブリンがほうきでほこりを払い、マルコがモップで床を磨き上げる。
「掃除はいいッスね」
「心ガ洗ワレマス!!」
朝から気持ちのいい汗を流し、魔物たちは皆、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。
ひと仕事終えたマルコが魔王の間へ入ると、魔王フィニアは、相変わらずソファーにだらりと寝そべっていた。
長く美しい金髪が、ソファーの背もたれからこぼれている。大きな赤い瞳は、けぶるような長いまつ毛に縁どられ、見る者を惹きつけずにはおかない。
小柄ながら女性らしい丸みを帯びた身体には黒のドレスをまとっていたが、その裾はだらしなく乱れていた。
「妻さん、ここにいたッスか」
「その『妻さん』と呼ぶのをやめいと言うとるじゃろ」
「でも妻さんは、俺の妻さんじゃないッスか」
「だ、だって、お主はわらわの……」
そこまで言って、フィニアは言葉を詰まらせた。
「妻さんだって、俺のこと『お主』って言ってるッスよ」
珍しいマルコの反撃に、フィニアはぷうと頬を膨らませた。
「わらわの入り婿は可愛くないのう」
「妻さんは可愛いッスよ」
さらりと返された言葉に、フィニアは耳まで真っ赤になった。何か言い返そうと口を開くが、ぱくぱくと動くだけでとっさに声が出ない。
「……お主、そういうところじゃぞ」
「何がッスか?」
きょとんと首を傾げるマルコに、フィニアはソファーの上で小さく丸まった。
拗ねるフィニアをそのままに、マルコは雑然と物が詰め込まれた棚の整理に取りかかった。
古い布、割れた飾り皿、用途の分からない魔道具。ひとつずつ取り出して分類していくうち、奥の方から黒い封筒が滑り落ちた。
「妻さん、これ何ッスか?」
マルコが拾い上げると、封蝋には大きな角を持つ魔王家の紋章が押されていた。
「それは我が父、大魔王からの手紙じゃ」
「封も開いてないッスよ」
「どうせ呼び出しじゃ」
「何通もあるッス。もしかして急ぎの連絡かもしれないッスよ」
「気にせんでよい」
フィニアが興味なさげに手を振る。
マルコは手紙の束を見下ろした。
どの封筒も、差出人はすべて大魔王。
封も切られないまま重なった封筒は、埃をかぶっていた。
「……妻さん」
「なんじゃ」
「俺、ちょっと行ってくるッス」
そう言うと、マルコは手紙の束を手に取り、広間を出ていった。
「待て!! 待つのじゃ!!」
しかし、マルコはもう扉の向こうへ消えている。
「わらわを置いていくでなーい!!」
フィニアはソファーから転がるように飛び起き、慌ててマルコを追った。
「待つのじゃ!!」
廊下の先で、フィニアがようやく追いつき、マルコの腕を引っ張った。
「妻さん?」
「行くって、父上の城へか!?」
「そうッス。こんなに手紙が何通も来てるのは、なにか理由があるッス」
「いかん。行ってはならん」
「でも俺、まだご実家に挨拶もしてないッス」
「魔界は人間界と風習が違う。挨拶など必要ないのじゃ」
「でも行くッス」
「ならん!!」
強く引き止めるフィニアに、マルコは向き直った。
「妻さん、何か俺に隠してるッスね」
「うっ……」
「妻さんに隠し事されるなんて、俺、悲しいッス」
その言葉に、フィニアはうつむき、消え入りそうな声で何かをつぶやいた。
「……のじゃ……」
マルコは腰をかがめ、フィニアの口元へ耳を近づける。
「もう一回お願いするッス」
「……父上は」
「ウッス」
「父上は……片付けられない、大魔汚有と呼ばれておるのじゃ!!」
大魔汚有。
その言葉を聞いた瞬間、長い前髪に隠されたマルコの目が、きらりと光った。
「いいッスね。腕が鳴るッス」
「そう言うと思ったから、言いたくなかったのじゃ~!!」
フィニアは必死にマルコのエプロンにしがみついた。
だが、掃除夫の足は止まらない。
小柄な魔王をずるずる引きずったまま、マルコは廊下をずんずん進んでいった。
─ 続 ─




