第73話 覚書〔佐伯の覚書〕
報告書の最終校閲が十二月の半ばに完了した。佐伯は最後のページに「校了」の印を押した。判子の朱肉が紙に乗った。乾くのに数秒かかる。乾く間に、自分の手を見た。
左手の指先。
白い。
九週間、毎日、この爪を確認してきた。九週間、毎日、白かった。書庫の整理を行った。借りていた資料を、書庫の元の場所に戻した。最後に、廣澤の編注済稿本を取り出した。本棚の奥に戻すために、表紙を確認した。
表紙の裏に、薄い紙が一枚、挟まっていた。佐伯が編集作業の間、この稿本を何度も開いた。挟まっていた紙には、これまで気づいていなかった。今日、戻すために取り出した瞬間に表紙の裏から一枚の紙片が滑り落ちた。
拾った。
古い和紙だった。縁が褐色に変色していた。書かれている字は廣澤本文と同じ筆跡だった。和文の縦書き。三行だけ。
「記し了へたり。"それ"は次なる者に渡れり。次なる者はすでに"それ"を読んでいる。」末尾に署名があった。
「廣澤 文」。「彦」がなかった。「廣澤文彦」ではなく、「廣澤 文」で署名が終わっていた。「彦」を書こうとして書かなかったのか、書き始めたが完成しなかったのか、最初から「文」までだったのか——判別できなかった。
佐伯は紙片を、見続けた。「次なる者はすでに"それ"を読んでいる」。その一行を、佐伯は読んだ。読んだということは、自分が「次なる者」である、という構文だ。
しかし「次なる者」とは、必ずしも佐伯のことではない。この紙片が稿本に挟まれたのは佐伯が編集を始める前だ。挟んだのが廣澤自身なら、彼が想定した「次なる者」は誰のことか。木口か、松田か、解読担当者か、野田か——あるいは、これから報告書を読む、すべての人か。
すべての人。
佐伯は紙片を、稿本の表紙の裏に戻し、稿本を本棚に戻した。手帳を開いた。書こうとして、書かなかった。書く必要のあることが、すべて、すでに紙片に書かれていた。
手帳を閉じた。報告書の納品準備を進めた。指定先のリストを確認した。千葉県立中央図書館、千葉県教育委員会、文化庁、国会図書館、千葉市中央図書館、地区図書館——リストの中で二十六箇所目に「千葉市立図書館 緑図書館」と記載されていた。
佐伯はその一行に、特に注意を払わなかった。払う理由がなかった。書庫の隅で、廣澤が立っていた。いつから立っていたのか、確認できなかった。本棚の影に、動かずに立っていた。視線が、佐伯の方を向いていたかどうか、判別できない。佐伯は廣澤の方を見て、軽く会釈した。
廣澤も会釈した——ような気がした。頭の動きがあった。確かにあった。しかしその動きが「会釈」なのか、別の何かなのか、佐伯には区別がつかなかった。
判別できないことについて、判断は控えた。報告書は、令和六年三月二十五日、白樺写真工芸より納品予定。各図書館への発送は、四月以降、順次。佐伯の業務はここで終わる。
次の案件が来るまで、することはない。しかし来るかどうかはわからない、と佐伯は思った。その思いの出所を、編集判断として保留した。席を立って、コートを取り、窓の外を見た。雪が降り始めていた。
調査室を出る前に、もう一度左手の薬指を確認した。白い、と判断した。判断したあとで、爪の縁をもう一度見た。糊の粒子が、まだ薄く、残っていた。
付録Lの封の縁を押した時に付着した粒子だった。あの日から、洗面所で何度か手を洗った。しかし、粒子は落ちなかった。いま、爪の縁の粒子は確かにある。
しかし、佐伯が、爪を見て、最初に判断した結果は「白い」だった。粒子の存在を、判断対象に含めなかった。含めなかった理由を、編集者として確認しなかった。確認する必要が、本書の編集処理上、認められなかった。
ドアを開けて、廊下に出た。蛍光灯が均一に光っていた。影の薄い廊下を、佐伯は歩いた。歩く間、自分の足音だけが聞こえた。
廊下の遠くから、別の足音が聞こえたような感触があった。しかし、振り返らなかった。振り返る理由が、本書の編集処理上、認められなかった。歩きながら、本書の本文中で自分自身が、何度か書き、何度か読んだ一行を思い出した。
「書いた字を、しばらく見た」。いま、その一行が頭の中でほどけていた。書いた事実が確かにあったかどうか。書いた手が自分の手だったかどうか。
書いた文字が自分の文字だったかどうか。いずれも、業務記録としては手元にあった。しかし、業務記録の側にしかなかった。確かなことなど、もう、何もなかった。
ただ、本書の編集処理が終わっていた。それだけが業務上の事実として残っていた。




