第72話 白樺写真工芸〔佐伯の編集ノート〕
六週目、報告書本体の編集校閲を完了した。千百ページの原稿は佐伯の手元でほぼ最終形に近づいていた。あとは印刷会社への入稿準備だけだった。中川から、印刷会社の名前が渡されていた。「株式会社 白樺写真工芸」。指定業者である。所在地は東京都板橋区。電話番号と担当者名が内部の発注書に記入されていた。
佐伯は発注書の手順を進めた。まず電話で印刷会社に連絡を入れる。仕様の確認と納期の調整を行う。それから入稿する。これは編集者として何度も繰り返してきた手順だ。
電話番号にかけた。呼び出し音が鳴った。三回、四回、五回——応答がなかった。
切った。
番号を間違えたかと思って、発注書の控えを見た。番号は合っていた。もう一度かけた。呼び出し音が鳴った。応答がなかった。
切った。
佐伯は、印刷会社の所在地と代表者名を、登記情報で確認することにした。編集の業務として、こうした基礎照会は普通に行う。法務局のオンライン登記情報提供サービスにアクセスして、「株式会社 白樺写真工芸」を検索した。検索結果が出た。
「株式会社 白樺写真工芸(解散) 令和三年八月二十日付 代表清算人による解散登記完了」。佐伯は、画面の文字を、最初は数秒、読み違えたものとして受け取った。同名の別会社かもしれない。地番が違うかもしれない。
しかし、住所も、代表者名も、発注書の記載と一致していた。解散の理由欄には、「事業所火災による事業継続不能のため」と記載されていた。今は令和五年十一月。二年と三か月前に、解散登記が完了している会社。
火災で、消えている。その印刷会社に、今調査室が発注しようとしている。佐伯は電話を切った。受話器を置いてから、それが電話ではなく印刷会社の発注書だったことに気づいた。発注書を、机に置き直した。
席を立った。
階段で一階下りた。中川の席まで歩いた。中川は席にいた。書類を処理していた。佐伯が立ったことに気づいて、顔を上げた。
「印刷会社の件で」と佐伯は言った。「白樺写真工芸の電話に応答がありません。法務局の登記情報を確認したところ、二年前に火災で解散しているようです」中川は数秒、黙った。その数秒の間、中川の表情は変わらなかった。佐伯が言った内容を理解しているのか、していないのか、判別できなかった。中川の手は書類の上に置かれていた。手の角度が佐伯が話し始めたときから変わっていなかった。
「処理手順書に記載の業者です」と中川は言った。
「処理手順書に」
「はい。長く取引のある業者です」
「しかし解散登記が完了しています」
「処理手順書に記載の業者です」中川は、同じ文を二度繰り返した。二度目のとき、中川の声の質感が一度目とまったく同じだった。間合いも、語尾の上下も、強弱も、同じだった。録音を再生しているのかもしれない、という考えが佐伯の中に一瞬よぎった。よぎった瞬間に、その考えを処理した。
処理する筋肉が自分の中にあった。いつから自分の中にあったのか、確認できなかった。
「了解しました」と佐伯は言った。「発注を進めます」「お願いします」と中川は言った。佐伯は自分の席に戻った。階段を上がっている間、自分の足音だけが聞こえた。庁舎の階段の踏み面に、自分の靴が乗る音。一段、また一段。十段ごとに踊り場があった。踊り場で一度、止まった。止まったことを、確認した。
止まった理由を、確認しなかった。
席に戻った。
発注書を取り上げた。「株式会社 白樺写真工芸」と書いてある。電話に応答しない印刷会社、二年前に火災で解散した印刷会社、しかし処理手順書に記載されている長期取引業者。発注書に判子を押した。
書類は内線ポストの「外部発送 業者向け」の箱に入れた。翌週、印刷会社から「受注確認書」が返ってきた。封筒に入って、佐伯のポストに直接届いた。差出人欄に「株式会社 白樺写真工芸」と印字されていた。受注番号、納期、仕様、納品数、すべてが妥当な内容だった。
佐伯は受注確認書を見た。二年前に火災で解散した印刷会社から、受注確認書が届いた。書類の形式は完璧だった。佐伯は書類を編集ファイルに綴じた。




