第71話 付録L〔佐伯の編集ノート〕
六週目の半ば、佐伯は付録Lの校閲確認を行った。付録Lは外部分析機関による角質片の文字痕判読結果を綴じた頁だった。整理員・松田が八月に確認した時点で、当該頁は封緘されていた。封の上に「外部閲覧不可」のスタンプが押されていた。
その封緘は佐伯の編集作業の最終段階まで開かれずに残っていた。佐伯は中川に問い合わせた。「付録Lの内容を確認する権限が編集者にあるかどうか」。中川は数秒、黙ったあと「廣澤校閲のご判断を仰ぐ必要があります」と答えた。
翌日、中川から回答があった。「付録Lの内容は、本書の編集処理上、確認の必要はありません、というのが廣澤校閲のご判断です」
「確認の必要はない、というのは」「内容は、本書の本文には反映されないため、編集者の閲覧を要しない、ということです」「了解しました」と佐伯は答えた。答えたあと自分の席に戻った。戻った机の上に、報告書の付録Lのページが開いていた。佐伯はその頁をしばらく見た。
封緘の上の「外部閲覧不可」のスタンプ。糊の粒子の縁。閉じられた頁の縁。頁を、開けてはいけない、ということを佐伯は判断した。
判断しながら、自分の手が封の縁に伸びていることに気づいた。指先が糊の表面に触れた。乾いた糊の粒子が指先の腹にわずかに付着した。粒子の感触が、紙の繊維の凹凸とは違っていた。粉のような、しかし粉ではない、何か。
封の縁を、指で押した。一ミリ、二ミリ——封の縁がわずかに浮いた。浮いた縁から、内側の紙がわずかに見えた。縦書きの活字が見えた。
最初の頁の一行目の、最初の数文字——佐伯はその文字を読もうとした。文字はほとんど密着した頁の隙間の奥にあった。光の角度を変えた。机のスタンドの位置を、わずかに動かした。
最初の一文字が見えた。「松」のように見えた。
次の文字。
「田」のように見えた。
「松田」。
松田の次に、日付が続くはずだった。松田の最後の所在不明日が令和五年八月二十日と推定されていた。日付の数字を、見ようとした。しかし、日付の桁は頁の奥に隠れていた。封の縁が、それ以上は開かなかった。
佐伯は封の縁をもう少し押した。
もう一ミリ。
封の糊が少し剥がれかけた。剥がれるかどうかの、境目。佐伯は手を止めた。止めた理由を、確認した。
「外部閲覧不可」のスタンプが、封の上にあった。「外部」とは、編集者を含む。本書を編集する者は、本書の付録Lにおいては、外部の存在である。その論理を、佐伯は受け入れた。
受け入れたが、頁を完全に閉じる前にもう一度内側を見た。次の頁の最初の数文字を、確認しようとした。次の頁の一行目——「佐」のように見えた。しかし「佐」の続きが、見えなかった。「佐」のあとの一文字が、紙の重なりの奥に半分だけ隠れていた。
「佐」。
佐藤、なのか。佐々木、なのか。佐久間、なのか。あるいは——佐伯、なのか。
佐伯志保。
自分の姓の一文字目が、付録Lの内側の、二頁目の一行目に印字されている、かもしれない。その予感が佐伯の意識の中央に来た瞬間——予感が形を取る前に、別の何かが佐伯の意識の中を流れ込んだ。報告書の誤字脱字チェックリスト。編集者として、十年以上、本能的に運用してきた手順だった。「漢字の表記揺れ」「数字の半角全角」「句読点の統一」「固有名詞の表記」「用語の統一」「数値単位の整合性」——順序立てて、各項目を頭の中で確認していく業務手順。
いま、その手順が勝手に起動した。佐伯の頭の中で、「佐」の一文字に対して、誤字脱字チェックの項目が順番に適用された。「佐」——固有名詞の表記。本書中の他の固有名詞との整合性、要確認。 「佐」——前後の文字組との空白幅、要確認。 「佐」——フォント指定、本書の本文書体と整合、確認済み。 「佐」——前頁の最終行との改行処理、確認の必要なし。
業務上の編集処理が佐伯の意識の中で順番に進行した。その間、「佐」の一文字が、自分の姓の一文字目かもしれない、という予感は編集処理の業務工程に上書きされた。恐怖の位置に、業務手順が流れ込んでいた。佐伯は編集処理の手順を続けた。
「佐」の校閲上の処理は、現時点では、確定できない。次頁以降の活字との照合が必要。しかし次頁は封緘されている。封の縁から覗いた範囲では、判別不能。よって、本字に関する校閲処理は保留する。
保留と判定した。判定した瞬間、付録Lの内側の二頁目の一行目の最初の一文字「佐」は、佐伯の編集処理の中でただの「一文字」として、業務上の処理対象になった。予感の位置にあったものは、もう、ない。予感は編集判断として留置された。
佐伯は封の縁を強く押し戻した。糊が、再びページを留めた。糊の粒子が佐伯の指先に増えていた。手を、机のスタンドの光に近づけた。
左手の指先の爪の縁が薄く色を持っていた。糊の粒子が爪の縁に薄く残っていた。白い、と確認できない状態だった。佐伯はその爪をしばらく見た。
見ながら、編集ノートに書こうとして書かなかった。書く内容がまだ確定していなかった。「付録L、二頁目に『佐』の一文字を確認」と書くべきか、「付録Lの内容は編集者の権限外と判断」と書くべきか——どちらを書くべきかが、判断できなかった。書かないことを、判断した。
ノートを閉じた。付録Lのページを、ファイルに戻した。封の縁を、もう一度確認した。封は、閉じている。糊の粒子が爪の縁にある。
爪の縁に残る粒子を洗い落とすべく、佐伯は席を立って廊下を進み、突き当たりの洗面所へと向かった。蛍光灯の白い光が均一に満ちる空間で、左手を水道の蛇口の前に差し出す。続けて、右手で冷たい金属の栓に触れた。──しかし、栓を回そうとした刹那、手の動きが不自然に凍りつく。
自身の意思で止めたのではない。手の側が動作を拒絶したのだ。栓を回す動作——その業務に何の意味もない、生活のごく普通の動作——が佐伯の右手の中で出てこなかった。手の中の筋肉がその動作を覚えていないように見えた。
佐伯はその止まった手を長く見つめた。動かしてみようとする。手は、栓のすぐ手前まで動いた。しかし、栓を握る最後の動作だけが欠けていた。
欠けている動作の代わりに、佐伯の中で別の業務手順が起動しようとしていた。「爪の縁の粒子は、本書の編集処理上、確認の対象外である」。その判定が頭の中で形を取り始める。形を取りきる前に、佐伯は洗面所を出た。
爪の縁の粒子は洗わなかった。洗わなかった、というよりは——洗う動作が出てこなかった。その日の終業まで、爪の縁の粒子は爪の側に残ったままだった。翌朝、もう一度爪を確認した。粒子はまだ残っていた。
白い、と言える状態では、なかった。




