第70話 木簡の四枚〔佐伯の編集ノート〕
五週目、佐伯は資料編の校閲に入った。付録Bに「骸ケ谷出土木簡四枚 最終解読報告書」が綴じられていた。発掘調査で出土した木簡四枚の写真と解読担当者(外部委託)による最終読み下しが記録されていた。冊子の表紙の著者欄は空白だった。著者名の記入がないまま、調査室に送られてきた、と中川は説明していた。
四枚の木簡は形が同じだ。長さが約十八センチ、幅が四センチ。素材は不明。年代も不明。出土層の地層は、深度三・五メートルから七・二メートルまでの幅で、層位的には連続性がない。
読み下しの文章を、佐伯は読んだ。第一枚。「土の下より来たる者 地の名を持ちて至る その名は記録に残らず ただ記録の側に転ぜらる」。 第二枚。「来たる者は記す 記す者は留まらず 次なる者を呼ぶ」。 第三枚。「呼ばれたる者 既に内にあり 知らずして応ふ」。 第四枚。「この手順を記した者も かつては 来る者であった 次に記す者へ伝ふ」。
四枚すべてが最終段階まで判読されていた。佐伯は四枚を、何度か通して読んだ。来る者、記す者、呼ばれる者、そして「この手順を記した者も、かつては来る者であった」。手順を最初に作った者が、かつてその手順の中の一段階にいた、という構文。手順が、世代を超えて引き継がれてきた、という構文。
佐伯は冊子の続きを開いた。報告書の末尾に、別紙が綴じられていた。「本日の現場における出来事(記録)」と表題が付いていた。日付は令和五年七月二十二日。
別紙には、その日の現場の出来事が過去形で記述されていた。「午後二時前後、現場の南西区画にて、調査主査・木口照彦の所在不明。野帳に書きかけの記述あり。『主査として、本日の作業を——』」。
報告書の本文の郵送日は令和五年七月十九日。しかし別紙には、七月二十二日の出来事がすでに書かれていた。佐伯はその別紙をしばらく見た。報告書を書いた者の名前は表紙の著者欄にない。解読担当者の所在は、令和五年七月以降、確認できなくなっていた——と中川は伝えていた。現場には一度も来ていない、とも。
来ていない者が来ない場所の、来ていない時間の出来事を過去形で報告書に書いていた。別紙の最後の段落の見出しは「午後三時過ぎ、現場の所在確認結果」となっていた。その下の本文は印字されていなかった。空白だった。
佐伯は、その空白の意味を考えそうになって、考えなかった。考える前に、自分の手元の編集ノートを開いた。編集ノートには、五週間の校閲作業の中で佐伯が記録してきた事項が断片的に並んでいた。その断片を、佐伯は、改めて、一つずつ確認した。
一 中川の電話応答の定型文。「確認しております」「過去にも同様の事例がありました」「対応は既定の手順で」——本書の本文中の現場日誌に、教育委員会担当者の発言として何度も同じ文言が引用されている。二 校閲跡の傾向。「感覚的記述」「個人名」「時間幅の不確かな記述」を、廣澤校閲が一律に削ぐ。削ぎ落としの基準が項目ごとに一定している。
三 付録Mの人事処理記録。木口・松田両者の退職事由が「一身上の都合」。発令日付の朱書きが両者で同じ書式。四 付録Iの封緘記録。写真の物理的封緘の手順が木口主査の手によって行われたとされる。手順の指示元の記載はない。
五 付録Bの本報告書。著者欄空白。郵送日と別紙の出来事の日付の不整合。佐伯はノートを、目を離さなかった。
五つの断片がそれぞれある「手順」を示唆していた。「教育委員会担当者の応答」「校閲の基準」「人事処理の書式」「封緘の手順」「報告書の郵送と現場の出来事の対応」——これらは、互いに独立した業務上の慣行のはずだった。しかし、五つを並べると共通の構造が浮かび上がる。それぞれの慣行はより上位の「手順書」の各項目に、対応している。
佐伯はその「手順書」を、書庫で探した。書庫の奥の引き出しを、開けた。ファイル番号の振られた書類は整然と並んでいた。「規程集」「業務マニュアル」「報告書様式集」——いずれも、現行の様式で近年の改定日が記入されていた。
「特定類型調査案件 処理手順書」と題された冊子は、なかった。書庫の貸出簿を、確認した。過去十年分の貸出記録を、遡って読んだ。「特定類型調査案件 処理手順書」という名の文書は、貸出記録には、現れなかった。
貸出された記録のない文書は、書庫に存在していたとしても、誰も借りていない、ということになる。誰も借りていない、ということは、誰も読んでいない、ということだ。しかし、現場と調査室の業務は、ある手順に従って、動いていた。誰も読んでいない手順書に従って、業務が動いていた。
佐伯は書庫を出た。自室に戻った。編集ノートに、書いた。「処理手順書は、明示的な文書としては、確認できない。しかし、各業務記録に散在する痕跡から論理的に再構成可能。痕跡の特徴は廣澤校閲の赤鉛筆と紙の繊維への沈み込みの粒度が共通している」。
書いた字を、しばらく見た。書いた事項を、誰に報告するべきかを考えた。報告先はない。報告先がない、とノートに書いた。
「本分析は、本書の編集処理には、反映しない。本ノートにのみ、留置する」。自分の手元にある。




