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第69話 紀北の冊子〔佐伯の編集ノート〕

 廣澤との対面の翌週、佐伯は書庫の奥に薄い冊子が一つ、立てて収められていることに気づいた。それまでの五週間、佐伯は書庫を何度も使っていた。出土品の参照、過去の調査記録の照合——いずれも、書庫の手前の棚で済む業務だった。書庫の奥までは、用事がなかった。


 しかし、その日佐伯は何かの拍子に書庫の奥の棚に目を向けた。視界の端に、薄い冊子の背表紙が入った。背表紙には、「二〇一三年 和歌山県紀北 山岳信仰遺跡予備踏査 野帳記録抄」と書かれていた。骸ケ谷の案件とは、無関係の冊子だった。千葉県北東部の埋蔵文化財調査と和歌山県紀北の山岳信仰遺跡踏査——案件として、何の接点もない。場所も、時代も、対象遺跡の性質も、別個だった。


 佐伯は、編集者として無関係の冊子を業務時間中に開く根拠を、持たなかった。しかし、手が、棚から冊子を取り出していた。冊子は薄かった。十数枚程度。背表紙の紙が長年の埃でわずかに灰色を帯びていた。表紙に指を触れると、書庫の奥に堆積していた埃の感触が指の腹に残った。紙の縁が、長年棚の中で立てて置かれていたためか、わずかに反っていた。


 最終頁に、踏査担当者の野帳の最後の頁の写しが添付されていた。担当者名:樋口さとみ。野帳の最終頁には、墨文字で「明るすぎる」と一語だけ書かれていた。それ以前の頁の整然とした踏査記録の質感と明らかに異なる筆跡だった。


 頁の余白に、赤い波線が一本、入っていた。波線の下に、朱書きで一語、書き込まれていた。


 「順序」。


 佐伯はその朱書きを長く見た。骸ケ谷の校閲の第一日目に、本書の冒頭の頁の余白で発見した、最初の朱書き——同じ筆跡だった。同じ粒度。同じ赤鉛筆。


 二〇一三年から、二〇二五年まで。十二年。その十二年の間に、同じ筆跡の「順序」が、千葉県の遺跡と和歌山県の遺跡の、両方の調査記録に入っていた。冊子の奥付の校閲者欄を、佐伯はもう一度確認しようとした。


 奥付の校閲者欄は、コピーの経年劣化により、文字がかすれていた。「廣澤 文」までは、辛うじて読めた。その先の文字は、紙の繊維のような濃淡が残るのみで、判別の方法がなかった。「廣澤 文」。


 「彦」と続くはずだった文字が、ない。佐伯は冊子を書庫の奥の棚に戻した。戻す手がわずかに止まった。止まったことを、自分でも認識した。なぜ止まったのかを、考えようとした。


 考える前に、編集判断として保留した——本紀北の冊子は本骸ケ谷案件の編集処理に直接の関連はない。よって、本紀北の冊子に関する事項は、本案件の編集記録には、反映しない。そう判断した。判断した内容を、編集ノートには書かなかった。


 書く理由が、本書の編集処理上、認められなかった。書庫を出る前に、もう一度奥の棚を見た。冊子は棚の奥に立てて収められていた。いつから、そこに収められていたのか——確認の方法はなかった。


 書庫を出て、自分の編集室に戻る前に佐伯は廊下の途中で右手を目の前に挙げた。冊子を手に取った時に触れた、表紙の質感の余韻が指先に残っていた。人差し指の腹に、薄く黒鉛のような色がにじんでいた。佐伯はその色をしばらく見た。


 冊子の表紙に、鉛筆の跡はなかった。手で触れて色が移るような印刷は施されていなかった。しかし、指先に、色が、ある。ハンカチで拭いた。


 色はハンカチに移らなかった。色は、指の側に残ったままだった。佐伯は編集室に戻った。机に座って、もう一度指先を見た。


 黒鉛の色はまだある。爪の縁の糊の粒子と別の場所に、別の色として薄く残っていた。いつから自分の指先にあったのか、確認しようとして確認できなかった。

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