↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
72/78

第68話 廣澤〔佐伯の編集ノート〕

 五週目の終わり、佐伯は廣澤と初めて、直接対面した。それまでの五週間、佐伯は廣澤と一度も対面したことがなかった。原稿は佐伯の机の上に届けられ、校閲跡は夜の間に追加されていた。修正は佐伯の知らない経路で進んでいた。


 しかし、五週目の金曜日の午後、書庫から原稿を取り出して戻る途中、廊下で立っている人物に出会った。廊下の中央、書庫のドアと佐伯の作業部屋のドアの、ちょうど中間の位置だった。佐伯はその人物の前で足を止める。「廣澤校閲、ですか」と佐伯は聞いた。


 「廣澤です」と人物は答えた。声が、低かったか、静かだったか、佐伯には判別できなかった。判別する余裕が、その瞬間にはなかった。廣澤はグレーの上着を着ていた。下は黒のスラックス。靴の色は判別できない。視線を下げて足元を見ることが、その瞬間の佐伯にはできなかった。


 顔はこちらを向いていた。しかし、目が合ったかどうか、佐伯には見分けがつかなかった。「校閲のお仕事について、お礼を申し上げたく」と佐伯は言った。「いえ」と廣澤は答えた。


 「波線指示が大変的確で、編集の助けになっております」


 「お役に立てて何より」佐伯と廣澤の会話は、それだけだった。会話の中身は礼儀の往復にすぎず、実質的な内容はほぼなかった。しかし、佐伯はその場で観察したことを、頭の中で整理していた。廣澤の肩の角度、手の位置、頭の高さ、足元の影、呼吸の周期——後でノートに整理するつもりだった。


 ノートに整理する、ということは、対面の場で観察を行った、ということでもあった。観察を行ったことを、廣澤は気づいたかどうか、佐伯には判然としない。会話のあと佐伯は作業部屋に戻り、ノートを開いた。


 書いた。


 「廣澤校閲、五週目に廊下で対面。観察事項:・身長:百七十センチ前後(編集者の身長との比較による推定)。 ・服装:グレーの上着、黒のスラックス。靴の色は確認できず。 ・肩の角度:水平より、わずかに左下がり。 ・手の位置:両手を、体の前で軽く組んでいた。 ・頭の高さ:佐伯の視線より、わずかに高い位置。 ・足元の影:確認できなかった。蛍光灯の角度的に、影が出るはずだが視認できなかった。 ・呼吸の周期:確認できなかった。胸郭の上下動を、視認できなかった。 ・声の質:区別がつかなかった」。


 書いてから、書いた事項を八つ並べたことに、気づいた。八つのうち、五つは見たことを書いていた。三つは見えなかったことを書いていた。見えなかったこと——足元の影、呼吸の周期、声の質。


 五週間、廊下で立っていた人物の、足元に影があったかどうか、佐伯は思い出せなかった。胸郭が、上下に動いていたかどうかも、思い出せなかった。声の高低も、思い出せなかった。見えなかったのではなく、見たという記憶が形を取らなかった。


 通常、五週間にわたる近距離の対面の中で、これら三項目がすべて記憶から脱落するというのは起こりにくい。しかし、廣澤との対面では、観察されなかった。佐伯はその「観察されなかった」事実を、ノートに書いた。書いてから、その記述の意味を自分の中で整理しなかった。


 整理する気が起きなかった。ノートの末尾に、別の一行を書いた。「廣澤校閲の存在の物理的不確実性について、報告は行わない」。書いた字を、しばらく見た。


 手元にあった。左手の指先を、確認した。爪は、整っていた。整っているのに、白すぎた。


 子供の頃に扉にぶつけて変形した縁の凹凸が、今日に限って、消えていた。爪の表面が紙のように平らに見えた。その「整っている」状態が、いつからの状態なのか——もう、すぐには思い出せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。