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第67話 稿本〔佐伯の編集ノート〕

 四週目に入って、佐伯は廣澤の民俗調査記録の編注済み稿本に入った。別冊として扱われている稿本だった。表紙に「骸ケ谷民俗調査記録 廣澤文彦著 編注済稿本」と書いてある。「編」の文字の下に小さく「廣澤」と入っている。著者が廣澤で、編者も廣澤、ということだ。


 稿本の本文は大正期の口述記録や民俗事象の聞き取り、廣澤自身の現地観察の記述で和文タイプ印刷のような書体で組まれていた。本文の余白に、別筆の書き込みが多数あった。別筆は廣澤の校閲跡の朱書きとは違う筆跡だった。鉛筆書きで、字が小さく、丁寧でしかし速度の遅い字。佐伯はその字を見て、「迷いを記録する字」だと思った。誰の字なのか、すぐにはわからなかった。


 別筆の書き込みのほとんどは本文への補足や疑問だった。「この語の出典は不明」「この記述は別地域の事例と混同の可能性あり」「以下、再聞取り要」「裏付け資料未確認」。民俗学の研究の常識として、こうした書き込みは編注を入れる過程で出版前の編者が原稿に直接入れる作業跡だ。後に活字化される段階で、書き込みは整理されて編注本文に統合される。


 しかしこの稿本は、書き込みが残ったまま、整理されていない。書き込みがすべて、残されている。佐伯は最初から最後まで、書き込みを読んだ。各書き込みは廣澤本文への「疑い」を記録していた。一つひとつは小さな疑い。「この語は別地域の事例ではないか」「この日付は誤記ではないか」「この口述者の名前は伏字にすべきではないか」。


 しかし疑いが積み重なって、最終ページの近くで別筆の語気が変わった。最終ページから二枚目の、廣澤本文の末尾部分。「骸ケ谷民俗信仰の本質は土地と人との関係において記録という行為がもつ重さに集約される」という一文の下に、別筆が書いていた。「谷は、探すものではない。


  "それ"が届いたとき、既に入っている。」別筆の最後の書き込みは、廣澤本文への補足ではなかった。誰かが、廣澤本文を読みながら、本文とは別の何かを書き残していた。別筆の字を、佐伯は何度か見直した。


 誰の字か——という確認は容易にできた。その字を、佐伯は別の場所でも見ていた。現場日誌の中に、同じ字があった。木口主査の字だ。


 木口の字が廣澤の稿本の余白に書いてあった。日付の記録はなかった。木口がいつこの稿本を読んだのか、確認できなかった。佐伯は稿本を閉じた。


 閉じた稿本の表紙を、見た。「骸ケ谷民俗調査記録 廣澤文彦著 編注済稿本」。編注を入れたのは廣澤自身だ。しかし余白に書き込みを残したのは、廣澤ではない。


 稿本の中で、二つの筆跡が同じ紙の上に並んでいた。大正期の編者・廣澤文彦の本文と令和五年の主査・木口の余白書き込み。その二つの筆跡が同じ紙の上に並んでいる、ということを——佐伯は編集者の職務としてどう処理すればよいかわからなかった。わからないまま、稿本を本棚に戻した。


 その夜、佐伯は中川に電話しなかった。しないと判断したのは佐伯自身だ。判断を、手帳に書かなかった。書く気が起きなかった。


 書く気が起きないことを、編集判断として保留した。

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