↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
70/78

第66話 七月二十二日付にて退職〔佐伯の編集ノート〕

 三週目の半ば、佐伯は退職処理記録の校閲に入った。付録Mに「人事処理記録」が綴じられていた。退職者の氏名、退職日、退職事由、後任配置、引き継ぎ事項。木口主査と松田整理員の二件が記録されていた。


 形式は整っていた。退職日:木口は令和五年七月二十二日、松田は令和五年八月二十日(推定)。退職事由:両者とも「一身上の都合」。その下に、廣澤の校閲跡があった。


 赤鉛筆の波線ではない。今回は修正の朱書きだ。木口の退職処理書類の最終確認欄。日付の欄に、「令和五年七月二十二日付にて退職」と朱書きで書き込まれていた。


 書類の発行日付の欄は「令和五年七月二十五日」となっている。中川の名前で押された確認印の日付も「七月二十五日」だ。しかし朱書きの「七月二十二日付にて退職」が、書類全体の上に被るように書かれている。佐伯は書類のページを、何度かめくり直した。


 手元のスキャン画像と比較した。昨日まではこの朱書きはなかった。朱書きが入ったのは昨日の夜から今朝までの間だ。しかしその時点で、木口が消えたのは七月二十二日だ、ということは、佐伯は知っている。退職処理書類が発行されたのが七月二十五日なのも知っている。書類の上では、退職の確定日は二十五日のはずだ。


 二十二日付で退職、という朱書きを誰が入れたのか。二十二日に、木口が消えた——という事実を、誰が事前に知っていたのか。あるいは木口が消える前に退職処理が用意されていたのか。佐伯は朱書きの文字を、指でなぞった。


 乾いた粉のような感触があった。第一日目に「順序」と書かれていた赤鉛筆の線と同じ粉の感触だった。インクではない。鉛筆の芯ではない。赤い色を持ち、しかし普通の筆記具とは違う材質の何か。


 書類のページを置いた。窓の外を見た。十一月の午後。日差しがすでに低い。書類の上に、自分の手の影が落ちていた。指の影が朱書きの「二十二日付にて退職」の上を覆っていた。


 手をどけた。


 朱書きが紙の上にある。佐伯はその朱書きを、編集ノートに記録した。「七月二十二日付にて退職、朱書き、日付改竄の可能性。発行日付(七月二十五日)と矛盾」書いてから、その記録を誰に渡すべきかを考えた。


 中川に渡す。中川は「廣澤校閲の手順の中で」と答える。佐伯はそれ以上、追わない。追わない、ということを判断したのは佐伯自身だ。


 佐伯は編集ノートを閉じた。ノートを閉じる手が少し止まった。止まったことを、自分でも認識した。なぜ止まったのかを、考えようとした。


 ノートの中に、佐伯が記してきた一行たちが並んでいた。「廣澤校閲、契約形態確認せず。職務上不要と判断」。「廣澤校閲、赤鉛筆使用。インク・粒子に違和感」。「修正履歴を保存」。「七月二十二日付にて退職、朱書き、日付改竄の可能性」。


 これらの記録の蓄積が、何を示しているのか——を、佐伯は職務上、追わない。追わない、と判断した編集者は自分が自分であることをどこで確認するのか。左手の薬指を確認した。爪の形は変わっていなかった。子供の頃に扉にぶつけて変形した形のまま、自分の指の先にある。


 その爪を見ている自分が自分であることが確認できる。確認できる、と判断した。その夜、佐伯は早めに帰宅した。電車の中で、手帳を開いて昨日の記録を読み返そうとした。読み返さなかった。読み返すと職務上の判断を超えた領域に入る、と感じた。感じたことを、編集判断として保留した。


 帰宅して、夕食を作った。鮭の切り身を焼いた。冷蔵庫から取り出した鮭は白い包装紙に包まれていた。包装紙の隅に、小さな印刷があった。「株式会社 白樺写真工芸」。佐伯は一瞬、手を止めた。印刷会社が食品を扱うはずがない——しかし、手順書のどこかに「指定業者の包装資材は編集室の備品として使用可」と書かれていた気がした。


 佐伯はその印刷をしばらく見た。白樺写真工芸は本書の指定印刷業者である。佐伯は業務としてその社名を知っていた——はずだった。「使用可」とだけ書かれた一行が、先に脳裏で読み上げられた。


 いつ、誰が、この鮭を自分の冷蔵庫に入れたのか——佐伯は思い出そうとして思い出せなかった。近所のスーパーで、買った覚えがなかった。配達を頼んだ覚えもなかった。しかし、鮭は、冷蔵庫にあった。白樺写真工芸の包装紙に包まれて。


 包装紙を、ゴミ箱に捨てた。焼きながら、なぜ今夜、鮭にしたのかをもう考えなかった。冷蔵庫にあったから、というのが理由だ。それで十分だった。


 箸を持って食べた。左手で茶碗を持った。指が、茶碗の縁に触れた。


 白い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。