第65話 このまま進めてください〔佐伯の編集ノート〕
集計の過程で、佐伯はもう一つのことを確認していた。修正の朱書き、十二箇所——すべて、過去案件参照との照合に関する書き込みだった。「過去案件と参照のうえ、本案件の取り扱いを判断されたい」——という意味の朱書き。しかし、過去案件のファイルは、調査室の書庫の奥にあって、佐伯は閲覧の権限を持っていなかった。中川に閲覧を申し入れたが、「廣澤校閲のご判断が必要です」と返され、後日、廣澤の判断は「閲覧不可」と回答された。
閲覧不可の参照先を、報告書の本文に朱書きで引用する。それは、編集者にとって処理不能の指示だった。閲覧できない参照先を、編集処理に組み込むことは、できない。佐伯はその朱書きを編集処理に反映しないことにした。「無視する」と書こうとして、書かなかった。「無視」という語は、校閲者に対して、編集者として強すぎる表現だった。「反映しない」と書いた。同じ意味だが敬意を保持した表現。書きながら、自分が保持している敬意の対象が誰なのかを確認した。確認できなかった。
佐伯は中川に電話を入れた。二週目の終わりだった。校閲跡の処理について、編集者として正式に確認しておきたい事項があった。職務上の手順だ。佐伯は十年以上、編集の現場で働いてきた。校閲者と編集者の責任範囲は契約書で定めておくべきだ。
「廣澤校閲の指示について、修正の権限がどこまで及ぶかを確認したく」と佐伯は言った。「と言いますと」と中川は言った。声が平らだった。「波線指示が多数入っています。これは要確認の意味で校閲記号として使われるものですが、修正案が明示されていません。編集側で修正案を策定して反映する、という運用でよろしいですか」
中川は数秒、黙った。その数秒が、佐伯には長く感じられた。電話の向こうで、中川が何を考えているのかは判断できなかった。考えているのか、書類を見ているのか、別のことをしているのか——音からは、区別がつかなかった。
「廣澤校閲の指示はすでに反映されています」と中川は言った。
「反映されている、というのは」
「校閲指示と修正は同時に行われています」佐伯は受話器を耳に当てたまま、机の上の原稿を見た。原稿の、昨日まで「変だと思った」だった箇所が、「主査として記録する」になっている。「反映されている、というのは、私の手で反映するのではなく、すでに修正後の文章が原稿に入っている、という意味でしょうか」
「はい」
「修正は誰が」
「廣澤校閲の手順の中で」
「手順の中で、というのは」
「校閲者の業務範囲です」言葉が、噛み合っていなかった。しかし噛み合っていないことを、中川は気に留めない様子だった。佐伯の質問に「校閲者の業務範囲です」と答えれば、それで十分だと中川は判断していた。十分ではない、と佐伯が言わない限り、その十分性は維持される。
佐伯は言葉を変えた。
「では、編集側として原稿に手を入れる必要は」
「ありません。このまま進めてください」このまま進めてください。その一文を、佐伯は受話器の向こうから受け取った。受け取って、自分の手元の原稿を見た。「主査として記録する」と書かれた一文を見た。修正の必要はない、ということだ。「変だと思った」を「主査として記録する」に置き換える作業は、すでに完了している、ということだ。誰がやったかは問わない、というのが「このまま進めてください」の意味だ。
あるいは佐伯が問わないようにと。あるいは佐伯が手を出さないようにと。あるいはもっと別のことかもしれない。「このまま進めてください」という日本語は、複数の意味を含む。「このまま放置して進めてください」と聞こえなくもない。「このまま修正しないで進めてください」と聞こえなくもない。「このまま、変だと思わないで進めてください」と聞こえなくもない。
佐伯は黙った。黙ったまま、廊下の方を見た。三階の角部屋から廊下に出るドアの前に、ガラス窓がついている。廊下を歩く人の影が見えるはずだ。しかしその瞬間、廊下に人影はなかった。
「了解しました」と佐伯は言った。「お願いします」と中川は言った。電話が切れた。佐伯は受話器を置いた。
手帳を開いた。書こうとして、何を書けばいいのかわからなかった。書く必要のあることがすでに「処理されている」状態だった。手帳を閉じた。
仕事に戻った。




