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第64話 「変だと思った」が消えた〔佐伯の編集ノート〕

 四日目の朝、佐伯は前日の原稿を再確認した。前日、第二部の現場日誌の校閲を進めていた。木口主査の日誌の十数ページに、廣澤の波線が複数入っていた。「変だと思った」「気がした」が、それぞれ六箇所と八箇所。佐伯はその箇所を編集ノートに書き出していた。「変だと思った」一箇所、「気がした」一箇所、と。


 今日、原稿に戻った。昨日「変だと思った」と書かれていた箇所の一つに、その語がなかった。原稿のそのページは佐伯の手元の机の上にあった。昨日の夕方、作業を終えて積み重ねた原稿の中の一枚だ。誰も触らない。鍵のかかる机ではないが、佐伯以外の人間がこの部屋に入って原稿に触る理由がない。


 しかしその一枚の、「変だと思った」が、なかった。該当箇所が「主査として記録する」になっていた。「変だと思った」と「主査として記録する」では、字数が違う。前者は七文字、後者は十文字。しかし原稿のレイアウトを見ても、改行の位置が変わっていない。前後の段落の長さが変わっていない。「変だと思った」が「主査として記録する」に置き換わっただけで、ページ全体の組版が成立していた。


 佐伯は昨日の編集ノートを開いた。昨日書いた「変だと思った」の出現箇所のメモが、ある。十六行ほどの一覧。それぞれにページ番号と行番号が振ってある。


 該当箇所のページと行番号を確認した。原稿の現在のページの、該当行を見た。「主査として記録する」。メモには「変だと思った」と書いてある。


 メモは佐伯の手書きだ。昨日、佐伯が書いた。書いた瞬間を覚えている。「ヘ」「ン」「ダ」「ト」「オ」「モ」「ッ」「タ」と、八つの音をペンで紙に刻んだ。


 しかし原稿には、その語がもうない。佐伯は他の十五箇所も確認した。いずれも「変だと思った」が、別の語に置き換わっていた。語の選択は箇所ごとにわずかに違う。「主査として記録する」、「主査として留置する」、「主査として処理する」——三つの定型表現が、状況に応じて、的確に振り分けられていた。


 振り分けたのは誰か。昨日の佐伯ではない。昨日の佐伯はそれぞれの箇所を「変だと思った」のまま、原稿に残していた。しかし、いま振り分けは完了している。


 「気がした」の八箇所も、同様に確認した。こちらは五箇所と三箇所に分けて置き換わっていた。五箇所は「申告として記録する」、三箇所は「客観事象として確認した」。「気がした」という主観の表現が、申告と客観事象という二つの業務カテゴリに、過不足なく、振り分けられている。


 全二十二箇所の修正は廣澤の波線指示の傾向と寸分の狂いなく一致していた。寸分の狂いなく、というのが——佐伯の中で引っかかった。編集者が二十二箇所を手作業で修正すれば、必ず、いくつかは指示と微妙にずれる。完全な一致は人の手作業の結果として出にくい。


 しかし、今回の修正は寸分の狂いなく一致していた。誰が、いつ、どうやって——という確認はできない。佐伯は手帳を出した。「廣澤校閲、夜間の修正可能性あり」と書こうとして、書かなかった。


 書く前に、書庫の方を見た。書庫は廊下を挟んで反対側にある。廣澤が出入りすることがある。しかし鍵を渡された記録はない。


 書庫の手前の壁に、廣澤の校閲用の赤鉛筆の鉛筆削りカスが床に落ちていたことがあった。先週、佐伯はそれを見た。見ただけで、誰のものかを版面上の処理に反映しなかった。手帳に書いた。「修正履歴を保存。原稿は毎晩スキャンする」。


 その日から、佐伯は作業を終える前にその日進めたページをすべてスキャンするようになった。翌朝、スキャンしたページと原稿を比較した。数字の上では、変わっていない。しかし読みやすくなっていた。


 「気がした」「変だと思った」を含む文章は、読みにくい。主観が混じる。校閲後の文章は読みやすい。客観的だ。


 読みやすくなった、と佐伯は判断した。その判断を、手帳に書いた。

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