第62話 校閲跡〔佐伯の編集ノート〕
佐伯志保が報告書の編集校閲に着手したのは十月の初旬だった。千葉県特別埋蔵文化財調査室の三階の角部屋を、編集作業のために借りた。窓が二つある部屋で、片方が西を向いている。午後の日差しが、長い時間、机の上に伸びる。佐伯はその光の角度を、毎日少しずつ覚えていった。
原稿は紙で渡された。調査員が現場で書いた野帳の写し、整理員が整理室で書いた台帳の写し、過去の調査記録の抜粋、廣澤の民俗調査記録の編注済み稿本、行政文書、外部分析機関の報告書、写真資料の凡例——全体で千百ページを超えていた。
原稿はすでに一度、校閲を経ており、校閲者の欄には「廣澤」とだけ書いてあった。下の名前が記載されていないことは、契約職員台帳の規定外だった。しかし契約職員台帳そのものを、佐伯はこの調査室で見せてもらえなかった。「廣澤校閲は本調査室の慣例に基づいて長期に従事しております」と中川が説明した。それ以上の説明はなかった。佐伯はそれ以上の確認を、職務上、しなくてよいと判断した。
判断したことを、佐伯は手帳に書いた。「廣澤校閲、契約形態確認せず。職務上不要と判断」。書いた字を見て、自分の左手の薬指を確認した。
爪が白い。整っている。子供のころにその指を扉に強くぶつけて以来、その爪の形を確認する習慣がある。三十年以上の習慣だ。佐伯にとって「自分の爪を見る」という行為は、自分が自分であることの確認だ。
白い。
今日も白い。
原稿を開いた。最初のページの本文の余白に、赤鉛筆で線が一本、引かれていた。下に小さな字で「順序」とだけ書かれていた。文字の上下を変える指示でも、段落を入れ替える指示でもなかった。「順序」とだけ。
佐伯はその「順序」の文字を、長く見た。編集室の空気には印刷インクと和紙、そしてかすかな朱肉の匂いが、層になって漂っていた。十年以上、編集室で過ごしてきた佐伯にとって、慣れた匂いだったが、骸ケ谷の原稿を開いた瞬間、その匂いの組み合わせが、いつもより、わずかに濃いように感じられた。赤鉛筆の線が紙の繊維にわずかに沈み込んでいた。普通の赤鉛筆の跡ではない。インクが粉のように、繊維の凹凸に乗っているような線だった。指先で軽く触れた。粉のような感触はなかった。しかし見たとき、粉のように見えた。
指の腹に、ごくわずかな油の感触が残った。赤鉛筆の芯から出る、通常の油ではなかった。もっと古い——古紙の油のような、別の油の感触だった。佐伯は赤鉛筆を取り出した。自分の校閲用の赤鉛筆だ。同じように紙に線を引いてみた。佐伯の線は紙の表面に乗っていた。沈み込んでいない。
二つの線を並べて見ると違うものだ、と佐伯は思った。しかし、それを誰に報告すべきかは見当がつかなかった。報告すべきことではない、と編集者としての職業意識が告げた。校閲者の鉛筆の粒度を、編集者が問題にすることはない。
手帳に書いた。「廣澤校閲、赤鉛筆使用。インク・粒子に違和感」。書いた字を見て、指を確認した。
白い。
作業を始めた。




