↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
65/78

第61話 次の記録者〔野田の野帳〕

 報告書の刊行が四月に予定されていた。刊行後、野田に出向の辞令が来た。千葉県特別埋蔵文化財調査室・調査員。期間は当面、無期限。発令日:令和六年四月二十三日付。


 辞令を受け取って、野田は中川の席に行った。「これからは野田さんに引き継いでいただきます」と中川は言った。野田は口を開いた。「お断り——」と、声に出した。


 最初の三音だけが出た。その続きの「します」が、口から、出てこなかった。業務上、上位の課長補佐から正式に発令された出向を、調査員が口頭で「お断りします」と返す——という応答が、業務手順の中にないからだった。「お断り」という三音は、業務上の語彙として続きの「します」を、伴うことができなかった。


 あるいは——「断る」という動詞そのものが、本調査室の業務手順の中に存在しないからだったかもしれない。野田は口を閉じた。「お断り——」という三音は、調査室の空気の中に消えた。中川はその三音を聞き取っていない様子だった。中川の表情は辞令を渡した瞬間と変わっていなかった。


 あるいは、聞き取っていたが、業務手順の中に「お断り」という応答項目が、ないため、応答として処理しなかったのかもしれない。判別できなかった。判別できないままに、野帳には落とさなかった。野田は「何を」と聞かなかった。


 聞こうとしたかどうか、自分でもわからなかった。気がついたら、聞いていなかった。聞いていない、という事実だけが手元に残った。


 席に座った。


 机の上に、一冊の冊子が置かれていた。「特定類型調査案件 処理手順書」。野田はそれを開いた。手順書の各項目を読んだ。「来訪者の取り扱い」「現場での申告事項の整理」「整理員の精神状態の把握」「退職処理の手順」「外部問い合わせへの対応」「報告書の校閲と編集」。


 各項目が極めて具体的に記述されていた。起案者の欄に、「廣澤」と書いてあった。起案日は記入されていなかった。野田はその手順書を閉じた。


 閉じた手順書の上に、手を置いた。手の下に手順書。手順書の下に机。机の下に床。床の下に建物の構造。構造の下に地面。地面の下に——。


 その順番が揺らがないことを確認した。調査室の窓の外に、光があった。四月の午後の光だ。雲が高い。


 次の案件が来るまで、することはない。しかし来るかどうかはわからない、と野田は思った。思ったその瞬間、その思いがどこから来たのかを、確認しようとした。確認できなかった。


 手帳を開いた。一枚目の余白に、自分の手で書いた。「野田彩乃、千葉県特別埋蔵文化財調査室に出向。発令日:令和六年四月二十三日」。


 書いた字を見た。自分の字だった。確かなことだった。「次の記録者はすでにこれを読んでいる」——その一文を、野田は思い浮かべた。


 思い浮かべたが、書かなかった。書く必要がなかった。手帳の次のページに、「樋口」と一語だけ書いた。書いた瞬間、その文字を見た。樋口さとみ。十年前、紀北の山中で消えた友人。野田は、十年間、その名前を書類に書かなかった。十年間、樋口の名前を業務上の記録に残さなかった。


 今、初めて書いた。書いてから、誰のために書いたのかを考えようとした。野帳には、落とさなかった。手帳を閉じた。


 仕事を、始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。