第60話 報告書〔野田の野帳〕
令和六年四月の終わり、報告書が、印刷会社より、調査室に納品された。箱に入って、十二箱が調査室の入口に積まれていた。一箱に二十五冊。総数三百冊。
佐伯志保はすでに調査室を離れていた。納品の受け取りは中川が担当した。中川は、伝票を確認し、納品書に判子を押した。判子を押す瞬間、納品書の発注先の欄に「株式会社 白樺写真工芸」と印字されていることを、確認した。
二年と数か月前に、火災で解散した印刷会社。しかし、納品書はその印刷会社の名前で印刷されていた。納品された報告書も、その印刷会社の名前で奥付に印字されていた。中川は納品書を受領した。
受領した、ということが、業務上、確かなことだった。報告書は、納品リストに従って、関係先に発送された。発送先は二十六箇所。県立図書館、教育委員会、文化庁、国立国会図書館、市区町村立図書館。発送作業は業務委託の郵便事務員が担当した。
その日、現場から戻ってきた野田が調査室に立ち寄った。「報告書、納品されたんですね」と野田は言った。「はい」と中川は答えた。
「拝見してもよろしいですか」
「どうぞ」
野田は箱の中から一冊を取り出した。表紙に、「骸ケ谷逆山遺跡発掘調査報告書」と縦書きで印字されていた。表紙の下半分に、執筆者・編集者・校閲者の一覧が小さく印字されていた。野田はその一覧を読んだ。
調査主査:木口照彦(任期中所在不明により退職)。 調査員:野田彩乃、三宅辰実、塚崎良太。 整理員:松田誠一(任期中所在不明により退職)、今泉麻子。 解読担当者:(伏字)(任期中所在不明により契約終了)。 校閲者:廣澤文彦(在任中所在不明により校閲継続)。 編集者:佐伯志保。 調査統括:中川靖広。
野田は、その一覧の中の、校閲者の項目をもう一度読んだ。「廣澤文彦(在任中所在不明により校閲継続)」。所在不明、と書かれていた。しかし、退職とは書かれていなかった。校閲は継続されている。
所在不明のまま、校閲が継続されている。その記述の意味を、野田はしばらく整理しようとして整理しなかった。整理する根拠が、業務上、なかった。野田は自分の名前を確認した。
「野田彩乃」。名前の横に、注記はなかった。「所在不明により退職」とは、書かれていなかった。今のところ、書かれていなかった。
野田は本のページをめくった。本文の中で、「野田」という名前が何回出てくるかを、目で追った。第二部の現場日誌の抜粋に、十数回。第五部の総括の章に、数回。
いずれも、調査員としての観察記録の主体として、書かれていた。「野田は——」「野田の観察によれば——」「野田の野帳には——」。野田はその記述をしばらく読んだ。報告書の中の「野田」が、自分のことを書いている、という構造を確認した。
しかし、本の中の「野田」は、本の中で完結していた。本の中の野田といま本を読んでいる野田の間には、距離があった。その距離を、野田は確認しなかった。本を、箱の中に戻した。
「ありがとうございました」と野田は中川に言った。「お疲れさまでした」と中川は答えた。野田は調査室を出た。廊下で、自分の足音だけが聞こえた。
その日の夜、宿舎に戻ってから野田は手帳を開いた。書いた。「報告書、刊行。発送先二十六箇所。当方の名前は執筆者の一覧に記載されている。注記なし」。
手元にあった。十年後、二十年後、本の中で、注記を伴うようになるかどうか——を、野田は確認しなかった。確認できない事項を、判断にしなかった。手帳を閉じた。
左手の薬指の爪を、確認した。
白い。
今日も白い。
今日も、と言ったときの「今日」が、何月何日のことを指しているのか——野田はもう確認しなかった。次の案件が来るまで、することはない。しかし来るかどうかはわからない、と野田は思った。来るという確信がある——という思いも、同時にあった。
二つの思いが、同じ手元にあった。




