第57話 樋口さとみの野帳
九月の終わり、野田は引っ越し作業の中で十年前の段ボール箱を開けた。関西から関東に移った時に荷物として持ってきた箱だった。三つあった。最初の二つには、衣類と書籍が入っていた。三つ目の箱に、関西時代の業務関係の資料がまとめて入っていた。
箱を開けたのは報告書の編集が進む中で現場時代の野帳をもう一度確認する必要があったからだった。野田は当時、関西の埋蔵文化財センターの調査員だった。中世期遺跡の調査記録を、関東に移った後も、稀に参照することがあった。箱の中身を、机の上に並べた。
野帳が年度ごとに分かれてファイリングされていた。二〇〇八年から二〇一三年まで。一年ごとに数冊ずつ。二〇一三年のファイルを、手に取った。
七月のページを、開いた。七月二十一日、紀北の山中での予備調査の野帳がそこにあった。その日のページに、野田の字で踏査ルートと観察事項が丁寧に書かれていた。野田はその日のページを書いた瞬間を覚えていた。樋口と一緒に、宿舎の近くの食堂で夕食を食べた後、宿舎に戻って、野帳に当日の記録を書いた。樋口は隣で、自分の野帳を書いていた。
樋口の野帳——。あの時、樋口が書いていた野帳はどこに行ったのか。野田は思い出そうとした。樋口が失踪した翌日、警察と山岳救助隊が樋口の野帳を回収した。三脚と一緒に、現場の踏査ルート上に残されていた野帳。あれは警察に証拠物として預けられた。捜索が打ち切られた後、野帳は関係者に返却された。返却を受けたのは当時のセンター長だった。野田は返却の現場には立ち会っていない。
しかし、その後の処理について、野田は記憶があった。返却された樋口の野帳は樋口の家族に渡された——はずだった。はずだった、というのは、確認していない、ということだ。野田は自分のファイルの中をもう一度確認した。
ファイルの最後のページに、薄いコピーが一枚、挟まっていた。樋口の野帳の最後のページのコピーだった。いつ、誰が、コピーを取って、野田のファイルに挟んだのか——覚えていなかった。野田自身がコピーを取った記憶はない。当時、関係者の誰かが、業務記録としてコピーを取って、関係者全員に配ったのかもしれない。配られた覚えはない。
しかし、コピーがここにあった。樋口の野帳の最後のページ。日付:二〇一三年七月二十一日。 時刻:午前十時三十二分。
その時刻までの観察記録が丁寧に書かれていた。地表植生の記述、磁針コンパスの方位、踏査ルート上の地形特徴。すべて、樋口の文字。整った、論理的な記述。
最後の一行——「明るすぎる」。その一語だけ、字が崩れていた。他の記述は整った字だった。「明るすぎる」だけ、書いた字の安定がわずかに崩れていた。文字の中心がわずかに右にずれていた。書いた時に、樋口の手がわずかに揺れていた。
野田はその一行をしばらく見た。「明るすぎる」。骸ケ谷の現場で、自分の野帳に書いた「明るすぎる場所で人は消える」という一行を、思い出した。書いた覚えのない一行——あの一行と樋口の野帳の最後の一行が構造的に対応していた。
樋口は「明るすぎる」と書いた。野田は「明るすぎる場所で人は消える」と書いた。樋口の書いた一語を、十年後の野田が文章として完成させていた。野田はコピーをファイルに戻した。
戻しながら、コピーの裏面に何かが書かれていることに気づいた。
裏返した。
鉛筆書きで、薄く、しかし読める字で書かれていた。「これは次の人のための記録です」。野田の字だった。書いた覚えはなかった。
しかし、自分の字だった。その字を読んだ瞬間、野田の右手の人差し指の先に奇妙な感覚があった。指先を、机のスタンドの光に近づけた。指紋の溝が紙繊維のように見えた。
あるいは、紙繊維のように見えるような印象を、持った。指先の腹に、薄く鉛筆の黒鉛のような色がにじんでいた。鉛筆を、握っていない。今日は手帳を開いて見ただけだ。鉛筆に触れた覚えはない。
しかし、指先の腹に、鉛筆の色がある。野田は指先をしばらく見た。見ているうちに、その色が、紙繊維の中から滲み出ているように、見えてきた。指先そのものが薄く紙のようになり、そこから黒鉛が出ている、ような。
数秒、見た。
数秒のあとで、もう一度見ると指先はふつうの指先だった。指紋は指紋の形だった。黒鉛のような色は、薄く残っていたが、紙繊維のようには見えなかった。野田は指先をハンカチで拭いた。
黒鉛の色はハンカチに移らなかった。黒鉛の色は指の側に残ったままだった。拭いたあとも、指先に薄い色があった。その色がいつから自分の指先にあったのかを、野田は確認しようとして確認できなかった。
いつ、書いたのか——わからなかった。わからないということを、確認した。ファイルを閉じる前に、十年前の宿舎の食堂のことを思い出した。樋口さとみと最後の夜に食べた夕食。簡単な定食だった。樋口が、味噌汁を一口飲んで笑いながら、こう言った。
「野田さん、絶対に記録残そうね。私たちが見たもの、書いた物、明日、誰かに渡せるように」。その「絶対に」が、樋口の声でいま頭の中によみがえった。樋口の声は覚えていた。声の質感、語尾の抑揚、笑う時の息の混じり方——いずれも、十年経っても、まだ手元にあった。
樋口の顔は思い出そうとしてぼやけていた。声だけが残っていた。野帳のファイルを、閉じた。その夜、野田は新しい手帳を出して、書いた。
「樋口さとみの最後の一行は、『明るすぎる』であった。私の最近の野帳に、『明るすぎる場所で人は消える』とある。これは私が書いた」。手帳の余白に、もう一行、書きそうになって、書かなかった。
「指先に、黒鉛の色がまだある」。書かなかった理由を、野帳に落とさなかった。手帳を閉じた。閉じた手帳の表紙に、指先の腹で、軽く、触れた。
表紙の革に、わずかに黒い跡が残った。




